【第四話】まずは産業革命から始めればいいんじゃね?
侍女に案内され、俺は辺境伯の書斎に入った。
部屋はいつもの通り机に書簡が積まれ、暖炉が赤く揺れている。
辺境伯は視線を上げ、口元をわずかに緩めた。
「来たか、相談役殿。何か聞きたいことがあるそうだな」
その声音には、最初に会った頃の硬さはもうない。
この一週間で俺は“日本”のことを少しずつ話してきた。
彼にとって驚愕の連続らしいが、真剣に耳を傾けてくれる。
時には興味深そうに質問を浴びせてきて、机上に記録を残しているほどだ。
互いにまだ探り合いはあるけれど、敵意や警戒心は和らぎつつある。
「ええ、今日は……この領地が抱えている問題について知りたいんです」
俺がそう切り出すと、辺境伯は「ふむ」と頷き、椅子に背を預けた。
「直球だな。だがよい。そろそろ君に話しておくべき頃合いだと思っていた」
机に置いた指先で書簡を軽く叩きながら、ゆっくり言葉を継いだ。
「問題など山ほどある。食糧不足、病、治安、交易……どれも根深く、容易に片付くものではない」
その言葉には重さがある。
けれど以前のような試すような眼差しではなく、俺に同じ目線で現実を示しているようだった。
「君は“外の理”を知る者だ。ならば、どれから手を付けるか――それは私ではなく、君自身が選べないか?」
俺は拳を膝の上に置き、まっすぐ辺境伯を見た。
「……正直、どれも改善したいです。いや、改善できると思っています」
辺境伯の目がわずかに細められる。驚きというより、興味を引かれたような反応だった。
「だから、一番深刻な問題を教えてください。そこから取り掛かります」
しばし沈黙が流れる。
暖炉の火がぱちりと爆ぜる音だけが響いた。
やがて辺境伯は低く息を吐き、視線を机上の書簡に落とす。
「……大言壮語に聞こえるが、不思議と虚勢には思えない」
目を伏せ、考え込むように指先で羊皮紙を叩いた。
「食糧不足は慢性的だ。収穫が少なく、保存食に頼る冬は常に餓えの恐怖と隣り合わせ」
「病も深刻だ。疫病が流行れば村がひとつ消える」
「交易もままならぬ。南の大河に橋がなく、船も乏しい。物資が滞り、余った物を融通できぬ」
「治安もまた脆い。森からは盗賊や魔物が出没し、村人の暮らしを脅かしている」
辺境伯はひとつひとつ丁寧に挙げ、やがて言葉を切った。
そして俺をじっと見据える。
「……だが、その中でも最も領民を蝕むのは“食糧”だ。飢えには誰も抗えん。腹を満たすことができなければ、他の問題を語る余地すらない」
重い声だった。
だが同時に、俺に委ねるような響きもあった。
俺は拳を握りしめた。
「……そうだ、産業革命!」
人類が一気に進歩したのは産業革命からだ。
蒸気機関だの工場だのより前に――まずは食だ。食がなければ人口は増えず、兵も育たず、経済も回らない。
ならば、俺がこの世界で最初に導入すべきは……。
「ノーフォーク農業!!」
思わず口に出していた。
小麦と大麦、そしてカブにクローバー。
それらを順番に回して育てれば、休耕地なんて必要なくなる。
しかもクローバーは家畜の餌になる。堆肥も増える。
畜産と農業の循環で、収穫量は一気に増大するはずだ。
というかよくある農業チートじゃないか。
これしかない。
俺の言葉に、辺境伯が小さく瞬きをした。
「……ノー、何と言った?」
「ノーフォーク農業!」思わず身を乗り出す。
「えーと……四種類の作物を順番に育てていくんです。小麦、大麦、カブ、クローバー。それを年ごとに入れ替えていく」
辺境伯の眉がぴくりと動く。
「……土地を休ませず使い続けるだと? それでは土は痩せ果て、作物は枯れるのが道理だろう」
「いや、むしろ逆なんです」俺は両手を振って強調した。
「クローバーには土地を肥やす力があります。しかも家畜の餌になる。家畜が増えれば堆肥も増える。堆肥を畑に戻せば、さらに土が肥える。その繰り返しで……収穫量は一気に増えるはずなんです!」
熱弁を聞き終えた辺境伯は、しばし黙して俺を見つめた。
やがて低い声で問う。
「……にわかには信じがたいな。だが、もし本当なら領民にとって救いとなろう。収穫量は、大体どれほど増えるのだ?」
「えーと……」俺は言葉を濁した。
「正確には分かりません。でも……少なくとも倍にはなるはずです」
辺境伯は深く息を吐き、指で机をとんとんと叩いた。
「倍、か。大きな賭けだな。……よかろう、小さな畑で試してみるのはどうだ?」
「小さな畑じゃ駄目です!」思わず声を荒げていた。
「四つの作物を順番に回すんです。比較結果を出すのに、最低でも四年はかかります。それじゃ遅い。今すぐ、できるだけ多くの畑でやらないと!」
「……しかし農民の理解を得ることは難しい」辺境伯の眼差しは鋭い。
「村人にとって、見慣れぬ作物を育てることは大きな不安だ。失敗すれば、飢えで死ぬのは我らだ。私は軽々しく命を賭けるような真似をさせるわけにはいかない」
暖炉の炎が揺れ、重苦しい沈黙が落ちた。
辺境伯の言い分はもっともだ。
俺自身、実際やってみて本当にうまく行くかどうかなんてわかりやしない。
ここでいうところの「小麦、大麦、カブ、クローバー」も俺の知ってるものと全く同じとは限らない。
だが何か行動を起こさないと何も始まらない。
俺が唸りながら頭を掻きむしっていると、辺境伯は長い沈黙の末に口を開いた。
「……分かった。だが君の言う通り、大規模に導入するのは危険すぎる。領民の命を賭けることはできん」
彼は机上の地図を指でなぞり、ある一点を軽く叩いた。
「この村だ。街からは近く、規模はまだ小さい。もし失敗しても被害は最小限に抑えられる。……ここを任せよう」
「小さい村を……一つ?」思わず声が裏返った。
「それじゃ規模が小さすぎます! もっと広くやらないと……」
辺境伯の目がすっと細くなる。
「……君の気持ちは理解する。だが領民は試し物ではない。腹を空かせるだけならまだしも、もし飢えて死ぬ者が出れば、責任は私にある」
ぐうの音も出なかった。言い返したいのに、正論すぎて喉が詰まる。
俺が欲しいのは「現代並みの快適な生活」だ。
だけど辺境伯にとっては「領民を守る」ことがすべて。
同じ方向を向いているようで、実はまるで動機が違う。
「……まあ、そうですよね」
俺は深く深呼吸して、冷静になる。
辺境伯は地図を叩いた指を止め、静かに告げる。
「焦るな。成果が出れば次は拡げればよい。小さな一歩を踏み出すことこそ大切だ」
暖炉の火がぱちりと爆ぜ、沈黙が落ちる。
俺はうなずくしかなかった。




