【第一話】常識のギャップはこんなところから
硬い寝台の上で、重たい瞼をゆっくりと開いた。
石造りの天井とむき出しの梁。湿った空気と薪の煙の匂いが鼻をつく。
「……暗い……?」
窓は小さく、濁った板のようなものがはめ込まれていて、そこから弱々しい光が漏れている。
部屋の中は薄暗い。朝なのか夜なのかも分からない。
(……俺のアパートのカーテン閉めっぱなしでも、もっと明るいぞ)
石の壁は冷気を吸い、床の石畳は底冷えする。
部屋の隅では暖炉が赤々と燃えているが、熱は届かない。
ぱちぱち爆ぜる音と煤の匂いの方が強い。
今までの事を思い出そうとして、頭は靄がかかっていることに気が付いた。名前すら出てこない。
けれど――異世界に転移したこと、チートの力を授かったことだけは覚えている。
(これってつまり、俺チートTUEEEできるってことだよな? 魔物をぶっ飛ばして、国を救って、美少女に感謝されて……ハーレム! 最高じゃん!)
思わず口元が緩んだ。
その時、床を拭いていた侍女と目が合った。
一瞬で表情が固まり、驚愕の表情へ移り変わる。
「――!」
裾を翻して扉を開け放ち、叫んだ。
「お目覚めですッ!」
そのまま廊下へ駆け出していく。
暖炉の爆ぜる音だけが部屋に残った。
……やがて複数人の靴音。
「辺境伯様がお入りになります!」
侍女の声の後、扉が重々しく開く。
護衛の兵に続いて現れたのは、三十前後の端正な男。藍色の外套をまとい、背筋を伸ばした姿は静かな威厳を放っていた。
「……目覚めたようだな。具合はどうだ」
「……えっと、大丈夫です。少し頭がぼんやりしてますけど」
「ならばよい。無理に答える必要はない。だが、いくつか尋ねても構わぬか」
俺は頷いた。
「まずは――名を聞こう」
(やば……出てこない……!)
「……すみません。名前が……思い出せません」
辺境伯の瞳がわずかに細められる。
その視線が俺の手に落ちる。
なんとなく居心地が悪く、手をギュッと握り締めた。
「――では、覚えていることは?」
「……気づいた時には、光に包まれて……ここにいました。理由も経緯も分かりません。ただ、それだけは覚えています」
嘘ではない。でも全部は言っていない。
辺境伯はしばし黙し、次の問いを投げてきた。
「では、君の故郷について教えてくれ。もちろん覚えている範囲で構わない」
助けてもらっている立場で隠しすぎるのもまずい。
わざわざ辺境伯という立場の人間が得体のしれない俺に直接会いに来ているんだ。
どういう目的か分からないがこの機会になんとか味方に付けないと。俺は腹を括った。
「……出身は“日本”という国です。ここから見てどこにあるのかは分かりませんが、確かにそこから来ました」
「ニホン……」と繰り返し、さらに問いが続く。
「その国について、話せる範囲で答えてくれ」
日本について教えてくれと言われても何から話したものか……正直困る。
「えーと、なんだろ……海に囲まれた島国です。山と川が多く、米という穀物を育てて暮らしています」
「その国を治めているのは誰だ?」
「……王ではありません。民が選んだ代表が国を動かします」
「兵はどう集める?」
「……基本は志願です。徴兵は、ほとんどありません」
辺境伯の視線は鋭さを増していく。
本当を語っているのかどうか見極めているみたいだ。
「――ざっくりで構わない。人は、どれくらいいる?」
「一億二千万人くらい……」
口にした瞬間、辺境伯の目がわずかに見開かれた。
すぐに表情を戻したが、室内の空気が重く張りつめる。
「……そのような膨大な数を……いや、そもそも何故知っている?」
ごくりと自分の喉が鳴った音が聞こえた。
ただ当たり前の事を話しただけなのに。
誰でも知っているようなことを答えただけなのに。
「国の命運に関わる情報だ。我が国ですら、王と一部の大臣しか知らぬであろう。どうして口にできる?」
「いや、調べれば分かるじゃないですか」
と思ったことをつい口に出してしまう。
辺境伯の眉がぴくりと動く。
「……どうやって調べる?」
「え……えっと……携帯とか、パソコンとか……」
「……ケイタイ? パソコン? それは何だ?」
一瞬の沈黙。
俺は深く息を吐き、頭をかきむしった。
「あーもう! めんどくさい!!」
思わず声を張り上げる。
「俺は異世界転移したの! 異・世・界・転・移! わかる!? こっちの世界とは全然違う場所から来たの! あんたに全部説明するには前提の知識と概念が多すぎて無理! いちいち説明してたらいくら時間あっても足りないから! それに俺一般庶民だから! 腹芸とかむり! あたまパンクするわ!」
息を荒げ怒鳴りつける俺を、辺境伯はただ静かに観察していた。
「……異世界から来た、か」
そしてさらに問う。
「庶民である君が、なぜ人口を知り得る?」
「まだ続けるの?……はぁ……何故と言われても……誰でも知ってます」
「……誰でも?」
辺境伯の声には、純粋な驚きが滲んでいた。
「ええ。学校で習うんです。読み書きや計算と一緒に」
「学び舎か……どれほどの期間、その“学校”とやらに通うものなのだ?」
「義務教育なら九年です。六歳から十五歳くらいまで。
その間、毎日通って読み書きや計算、それから国の仕組みや科学を学びます。
進む人はさらに“高校”や“大学”というところで勉強を続けます」
辺境伯の瞳がわずかに揺れる。
「……九年……すべての子が……?」
声が低く掠れる。
「庶民の子までも、九年のあいだ働かずに……学ばせると?」
驚愕と困惑がないまぜになった声だった。
そして視線をこちらに戻し、静かに続ける。
「ならば、君も学んでいたのだな?」
「はい。僕も……学校に通っていました。読み書きや計算はもちろん、科学や歴史なんかも習いました」
辺境伯の眉がほんのわずかに動く。
「どれほど莫大な金がかかる? 一体どんな国なんだ? 庶民でありながらどれほど知識を身につけられるのか?」
その声には、もはや疑念ではなく、純粋な驚きと興味がにじんでいた。
辺境伯は目を伏せ、深く思考に沈む。
そして顔を上げ、まっすぐ俺を見据えた。
「……君を相談役としたい。無論、押しつけるものではない。ただ我らの知らぬ“外の理”を知る者として、助言を与えてほしい」
息を飲む侍女と兵。
俺は思わずニヤけそうになるのを必死で堪え、答えた。
「……わかりました。僕でよければ」
辺境伯は小さく頷き、口元をわずかに緩めた。
「感謝する。君はしばらく我が屋敷に留まれ。保護の名の下に、君を迎え入れよう」
こうして俺は、辺境伯の屋敷での生活を始めることになった。




