9 アシュリーン、邸の皆に受け入れられる
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ドラガン家に到着した時、アシュリーンには覚悟が生まれていた。生半可な気持ちではやっていけないと理解した。ディアミドから受ける愛を何倍にもして、ディアミドと子どもに返すという「任務」の重さをひしひしと感じた。己の全てを燃やし尽くすのが「妊娠」と「出産」ではあるが、確実に死ぬと分かっている出産に向かおうとするアシュリーンは、最後にディアミドと笑って別れられるように生きようと決めた。
「花嫁様、到着しましたよ」
花嫁様とエーファに声を掛けられるまで、アシュリーンは馬車が止まったことさえ気づかなかった。そう言えば馬車の中で、ドラガン家に到着したらこれからは花嫁様と呼ばれるのだと言われていたのだった。
「さあ、参りましょう」
降りようとすると、先に下りたエーファとは違う手が差し伸べられた。
「お手をどうぞ、花嫁様」
エーファが頷いたので、その手を借りて馬車を降りた。
「申し遅れました、家令のモーガンと申します」
アシュリーンは「よろしく」の意味を込めて、モーガンの手をブンブンと振った。
「元気な花嫁様ですね」
にこりと微笑めば、モーガンも微笑んでくれた。
エーファに連れられて行った先は、広い部屋だった。王宮内で過ごしていた部屋の二倍はありそうだ。
「ここが花嫁様のお部屋ですよ」
アシュリーンは、花がたくさん飾られていることに感動した。藤の花が花瓶に挿してあるのを見て、傍に近寄ると深く息を吸い込んだ。懐かしい、甘い香りがする。
そう言えば、人間界に落ちた日、湖の周りに藤の花が咲いていたことを思い出す。
「若様が、花嫁様の部屋には花を飾ってほしいっておっしゃったんですって。そんなこと、今まで一言も言ったことがないのに。愛ですね~」
エーファに言われて、アシュリーンは顔が赤くなる。
「王宮ではお風呂にもゆっくり入れませんでしたからね、今からゆっくり入りましょう」
風呂に入る習慣のなかったアシュリーンは、王宮滞在中にお風呂が大好きになった。痩せた体は冷えやすい。隙間風の吹き込むあの小屋で、アシュリーンは精霊の本能として体温を上げることができた。その分精霊の力が失われるので、いつもなら一週間で一杯になるクリスタルを満たせず、トマスを激怒させたこともある。冬は精霊の力も弱いのだろうとトマスが勝手に思い込んでからは怒鳴られることも食事を抜かれることもなくなったが、あの寒い冬の日にお風呂に入れたらどれほど幸せなことだろうと、今のアシュリーンは思う。
最初にお風呂に入った時は、エーファが驚くほどお湯が汚れた。10年以上体にこびりついた汚れは一度の入浴では落とせず、王宮で毎日毎日エーファが頑張って少しずつ汚れを落としては手入れをしてくれた。そのおかげで、痩せてはいるが、肌に髪と肌に少しずつ艶が戻り始めている。
汚れが落ちたことで本来の髪の毛の色が薄汚れた灰色からやさしいドーンピンクに戻ってきた。
「見たことのない髪の毛の色ですが、花嫁様の雰囲気によくお似合いですよ」
(この髪の毛の色は、人間ではいないのかしら?)
「それにしても、この髪の毛の色の精霊様は、何の精霊様なんでしょうねえ」
(それは私も知りたいわ)
体が温まってほかほかしている。お風呂で溶けたアシュリーンはふわふわした気持ちのままドレッサーに座り、髪を拭かれた。
「花嫁様、私は若様の乳母でした」
唐突な話に、アシュリーンは首を傾げた。
「ですから、若様が花嫁様を困らせたり泣かせたりするようなことがあったら、すぐに私にお知らせください。花嫁様の手が痛くなってはいけないので、私が代わって若様のお尻をペンペンしますからね」
アシュリーンは目をキラキラさせて大きく首を縦に振った。
・・・・・・・・・・・
その夜遅く、ディアミドは邸に戻ってきた。
「花嫁様が、夕食は若様と一緒に食べたいとのことで、ずっとお待ちですよ」
モーガンにそう言われたディアミドは、手だけ洗うと慌てて食堂に入った。
「アシュリーン、ただいま」
アシュリーンはうれしそうにディアミドに駆け寄ると、パッと抱きついた。
(((か、かわいい~! あ、若様、うれしそう!)))
給仕のために壁際で待機している使用人たちは、心の中でそう叫んだ。もちろん、表情には出さない。実に優秀な使用人である。
ディアミドはそのままアシュリーンを抱き上げると席に座らせ、自分も席に着いた。
「アシュリーン、俺は明日、シアルからこちらに向かっているシェイペルの民と火の精霊を迎えに行かねばならない。もしかするとしばらく邸に戻れないかもしれないが、今のうちに邸の者たちと仲良くなっておいてくれるか?」
コクコク。
(((首振り人形みたいで、かわいい~!)))
「待たせてすまなかったな。では食べようか」
この国でも飲用できるレベルまで価格が下がったワインを口にしたディアミドは、このワインがアシュリーンの犠牲の上に育てられたブドウからできていることを思いだし、いつもより苦く感じた。
「アシュリーン、それで……だな……」
ディアミドがワイングラスを置いてアシュリーンの方を見ると、アシュリーンはジャガイモのポタージュに指を突っ込んで、その指をぺろりと舐めてめをキラキラさせている。
「エーファ、これは……?」
「花嫁様は栄養状態を徐々に改善させるために、王宮ではまだ軟らかく煮た野菜入りのスープくらいしか召し上がっていませんでした。カトラリーの使い方もご存じないようでしたので、カップに入れたものを召し上がったあと、残った具材は私がスプーンでお口に入れておりました」
「スプーンで、口に入れていた、か」
「はい。今日もまだテーブルマナーのことを考えると、この場でお食事はできないと申し上げたのですが、どうしても若様とご一緒したいということでしたので、ジャガイモのポタージュとカットフルーツだけ御用意しました。これからお教えしないといけませんね」
「わかった。アシュリーン、このポタージュ、おいしいか?」
コクコク。
「若様、あの」
「今はそのままで。いいな」
もの言いたげな給仕係を制すると、ディアミドはアシュリーンが皿を持ち上げて縁に口を付け、ちびちびと飲むのを見ている。手がうずうずしてきた。
ならば、おれが食べさせてやろう。
ディアミドは徐に立ち上がると、その穏やかな雰囲気のまま隣に座った。何事かとディアミドを見るアシュリーンの口角にはスープがちょこんと付いている。まるで幼子のようだ。
「アシュリーン。皿を置いてごらん」
スープスプーンを手に取ったディアミドは、テーブルに戻された皿から一さじスープを掬うと、アシュリーンに口を開けろと言った。言われたとおりにしたアシュリーンの口にスープを運ぶと、アシュリーンは驚いたような顔をしたが、素直にスープを飲んだ。
「いいかい、アシュリーン。スープは、この丸いスプーンを使って飲むんだ。できるか?」
スープスプーンをアシュリーンに持たせると、アシュリーンは恐る恐ると言った様子でスプーンを傾けてスープを掬い、こぼさぬようにゆっくりと動かして、自分の口に運んだ。
「そうだ。できたな。続けてごらん」
褒められたことに喜びを隠しきれない様子で、アシュリーンはスプーンにスープを掬い、再び口に入れる。
「そう、スープはそうやって飲むんだ。1つ覚えたな?」
コクコク。
「ポタージュもいいが、フルーツも食べるか?」
アシュリーンの目が、いいの? と訴えている。
「全部食べてもいいんだぞ」
だが、今度はもじもじしている。ディアミドは一瞬考え、そして気づいた。
「フルーツの食べ方か?」
恥ずかしそうに小さくコクコクと頷くアシュリーンは、スープ1つで他の食べ物にも食べ方があるのだと理解したようだ。思ったより賢い娘なのかもしれない、とディアミドは思った。
「いい。今日は俺が食べさせてやる。どれが食べたい?」
アシュリーンが指さすものを一口大に切ってフォークに差し、アシュリーンの口に運ぶディアミドを見て、給仕係がにやにやしている。あの、超イケメンながらいつも眉間に皺を寄せていたディアミドが、まるでようやく手に入れたペットを構うかのように、かいがいしくアシュリーンの世話をしている。
給仕係たちは、互いに目配せだけで会話した。
(若様って、あんなに甘くなるの?)
(本当は恋人なり奥様なりが欲しかったのね)
(花嫁様、このまま若様に可愛がられてください!)
(我ら一同、花嫁様のようなかわいらしい方にお仕えできて幸せです)
(でも、もしご出産となったら……)
((((あ……))))
給仕係たちは動揺を隠して壁際に立ち続けた。
みんな、思いだしたのだ……龍の騎士団長の花嫁は、出産と同時に亡くなってしまうということを。
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