対峙
「大丈夫だからね。絶対に守るから。」
アマギ・リナは教室でぐったりとしている男の子の前髪を撫でた。
男の子を放っておくわけにはいかない。
しかし、青陵塾の経営者・青原の小児性犯罪の証拠をつかむために塾内に侵入したのだ。
その任務を成功させる必要がある。
塾の外で待機している《VALHALLA》のメンバーに男の子を預けるか?
しかし、男の子にとって知らない人に預けられるのは心身の負担が大きいのではないか?
やはり、男の子も連れて任務に挑むか。
「絶対に守るからね。」
もう一度、そう呟くと少し意識がはっきりとしてきた男の子は小さくうなずいた。
リナは救急車を呼んでおき、フードを被り、マスクを着け、男の子をそっと抱えた。
ここは6階。
教室を出てすぐ横にある階段を上がれば7階にたどり着く。
社長室に着いたらパソコンを探して、犯罪の証拠を見つけて。
ここまでを救急車が来るまでの数分の間に終わらせてエントランスへ向かう。
救急車で搬送されるとき男の子との関係を聞かれたらなんと答えようか。
その前に、エントランスに向かうときに誰かと会ってしまうだろうが、どのようにごまかそうか。
まあ、あとで考え
「おまえ誰だ!」
教室の入口に青原がいた。
「何をしてる?」
「……体調が悪そうな子供を見つけたので病院に連れて行こうかと。」
「そうか、それなら私が連れて行こう。」
「いえ、私が連れていきます。」
リナは青原を睨みつけた。
「この子ただの体調不良ではありませんよね?この子に何をしたんですか?」
「部外者に言う必要はない。」
「言えないならなおさら渡すことはできません。」
「それなら……力づくで奪うまでだ。」
青原が右手に椅子を掴み、リナへ投げつけてきた。
リナはそれを左腕で払うように跳ね返す。椅子の脚が黒板にぶつかり、鈍い音を立てた。
もう一脚。
今度は低く滑るように飛んできた椅子を飛び越え、リナは机の天板を蹴り飛ばす。
椅子に続いて突進しようとしていた青原の足元が、それで遮られる。
リナはすかさず教壇に飛び乗り、男の子を教卓の下に隠し、黒板消しをひとつ拾う。
青原が距離を詰めようとした瞬間、それを投げた。
バフッ、と白い粉が彼の顔に炸裂する。
反射的に目を閉じ、足が止まる。
その隙をついて、リナは一歩踏み出すと、ひざ下を軽く払った。
バランスを崩し、青原が尻もちをつく。
リナは教壇の上に飛び戻り、チョークのケースから数本を抜き取る。
それを投げ、青原の額にぶつけた。
鈍い音。
割れたチョークがパラパラと落ちる。
リナは男の子を再度抱えた。
「大丈夫。今のうちに行くよ。」
青原がいまだに立てずにいるのを横目にリナたちは教室から抜け出し、教室の扉を閉めた。
青原は体勢を整え、尻もちをついたときに落とした携帯電話やキーケースを拾い、教室を出た。
廊下には誰もいない。
階段を見ると上の階へ続く階段に子供の靴が落ちていた。
「こんな子供だましに惑わされるかよ。俺を誰だと思っている。」
青原はリナたちが下の階へ逃げたと考え、階段を下っていった。
その頃、リナたちは元々いた教室の横にある教室に隠れていた。
「扉が施錠されていなくてよかった……。」
青原が階段を下りていく音を確認しつつリナたちは7階の社長室へ向かった。
社長室のロックは事前に解除してもらったため、部屋の中にすぐ入ることができた。
リナは男の子を机の下に座らせ、机の上に置いたままのノートPCを見る。
電源がつけたままになっている。
デスクトップ上に“管理用画像”というファイルを見つけた。
そのファイルを開く。
「うっ……。」
見るに堪えない写真がたくさん並んでいた。
できるだけ画面から目線をそらしつつ、手探りでUSBにファイルを落とす。
バーの進捗が止まる。
完了音が小さく鳴った。
リナは素早くUSBを抜き取り、ノートパソコンを閉じた。
男の子を連れ、社長室から出る。
あとは救急車まで男の子を連れていくことさえできれば任務は終わりだ。
リナは階段へ向かう。
下を覗くと階段を駆け上がっている青原が見えた。
このままでは鉢合わせてしまう。
リナは廊下の奥にあるもうひとつの階段の方へ急いだ。
しかし、もう一方の階段も下から足音が。
挟み撃ちにされてしまった。
もう逃げ場はない。
リナは男の子を階段から見えないように隠し、下から向かってくる者と対峙することにした。
足音が規則的で、ゆっくりと近づいてくる。
背中を冷たい汗が伝う。
ポケットの中のUSBがまだ熱い。
「誰ですか?」
階段に現れたのはスーツを着た体躯がいい男だった。
「ここは職員用のフロアですよ。」
「青原さんに用があって。エントランスや待合室にはいないようでしたので。」
「そうですか。アポは取っていますか?」
「…いいえ。」
「では、後日出直してきてください。」
リナは言葉が詰まった。
ここから動くわけにはいかない。
男がため息をついた。
「青原は有名人なんでね。権力にすがるものがよく近づいてくるんですよ。だからそう簡単に会わせるわけにはいかないんですよ。そういうことなので、帰っていただけますか?それとも、」
男が微笑む。
「ここを動けない理由でもあるのですか?」
リナは言葉を返すことができない。
「無視ですか。それなら武力行使といきますか。」
「え?」
男の拳が勢いよく飛んでくる。
リナは慌てて掌で受け止める。
速い。
塾講師ではない。
何者だ。
リナも負けじと男の顔に向かって拳を飛ばすが、それより速いスピードで腹に膝蹴りを入れられた。
「うっ…。」
「よそ見している場合ではありませんよ。」
脇腹に蹴りが入る。
蹴りが重たい。
リナの体が吹き飛んだ。
「帰る気になりましたか?」
男が上から見下ろす。
「あなたはもうこれ以上進めない。」
男が足を上げ、リナの腹を踏もうとした瞬間──
「やめて…。」
まだ顔色の悪い男の子が大男の足につかまっていた。
「ハル…?」
“ハル”と呼ばれた男の子は大男の足に顔をうずめていた。
「どうしたんだおまえ、なんでここにいるんだ?しかも顔色が悪いではないか。」
「そ、その男の子、何かの薬を飲まされているようで…。」
リナが恐る恐る事情を説明した。
「そうなのかハル?」
ハルは小さくうなずいた。
「このお姉さんが助けてくれた。」
「そうか…。」
男がハルを抱きかかえた。
「同朋を助けてくれたこと感謝します。あなたがなぜここにいたかは訊かないであげましょう。こいつは私が預かりますので。」
“同朋”ということは親子ではないのか。
「あ、ありがとうございます。すでに救急車を呼んでいます。もう下に来ているかと。」
「そうですか。お手数おかけしました。」
「かっこいいお姉さんありがとう…。」
リナは微笑みながらハルの頭を撫でた。
「では。」
そういや青原は7階に上がってこなかったな、と考えながらリナは颯爽と階段を降りて行った。
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凱はリナの任務を妨げそうな人がいたら話しかけて時間稼ぎをしようかと塾内を彷徨っていた。
姉の澪も今頃、時間稼ぎをしているのだろうか。
心配だな。
早く合流したいな。
そう考えていると向かいから細身の女が現れた。
手にハンカチを持っている。
お手洗いに行くのだろう。
ここはスルーでいいか。
何事もないかのように女とすれ違う。
はずだった。
「ここで何をしているの?」
スルーできなかったか。
「甥を迎えに行くよう頼まれましたが、どこにいるかわからなくて。」
女は何かを考えているような雰囲気だ。
「甥がここにいるの?」
「ええ、そう聞いていますが。」
女は再度黙り込んで何かを考えていた。
「じゃあ、僕はこの辺で。」
凱がその場を去ろうとしたとき──
「え?」
女の回し蹴りをしてきた。
凱は身をよじって避けた。
「ちょっとお姉さん、急にどうしたの?」
さらに2発拳が飛んでくる。
「危ないな~。俺が武道経験者じゃなかったら今頃大怪我しているよ。」
もう一度襲ってきた蹴りをしゃがんでかわす。
「お姉さん塾講師じゃないよね?何者?なんか武術やってるの?」
今度は顔正面に拳が来る。
「ねえお姉さん無視しないでよ。あ、お姉さんじゃなくておばさんだった?」
腹に向かってきた拳を手首で止める。
「生意気なガキだね。周りの人から随分甘やかされて育ったみたいだ。」
「お~、よくわかったね。」
「そして、自分より力の弱いものには手を出さぬよう教育されたんだろ。」
「でも、おばさん強いからなあ。」
一発ぐらい相手をビビらせるような殴る素振りでもしようかと思い、凱が拳を固めた瞬間、携帯電話が鳴った。
「もしもし?え?塾に迎えに行く必要は無いって?俺せっかく迎えに行ったのに一人で帰っちゃったの?」
凱は通話相手と少しだけ話し、すぐに電話を切った。
「甥もう帰ってたらしいから俺も帰るね~。じゃあね、おばさん。」
凱は小走りで去っていった。
着信のタイミング完璧だったな。
さすが姉ちゃんだ、と考えながら澪と合流できることを楽しみに凱は走って行った。
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「お疲れ様。」
澪と凱は車中で休憩していた。
「アマギさんが裏口を出る様子が窓から見えたから無事に任務を終えたんだと思う。」
「そっか~、よかった。青原を足止めすることはできたの?」
「うん、完璧。防犯カメラがただのお飾りで助かったよ。凱ちゃんのほうはどうだった?」
「特に問題なかったよ。」
凱は姉を心配させないため、女と対峙したことを言わなかった。
「姉ちゃん、これからもこういうことするの?」
「うん、そのつもり。」
「そっか…。」
「…嫌?」
「ううん、さすが姉ちゃんって感じ。こういうところが大好きだな~。」
澪は嬉しそうに笑った。
「お腹すいたから早く帰ろう!」
晩御飯は何がいいかと話し合いながら車を発進させ、帰路についた。
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「続いてのニュースです。本日未明、都内の公園で男性の遺体が見つかりました。警視庁によると、遺体は青陵塾社長、青原賢一氏のものと見られ、事件の線で捜査を進めています──」




