開扉
アマギ・リナの任務の日。任務開始まであと45分。
リナが《VALHALLA》の施設から出てくる様子を澪は弟の凱と共に車内から見ていた。
「あの人が姉ちゃんに相談してきた人?」
「うん。」
「ばれずに尾行できるかな。」
「ずっと追う必要はない。もう行き先は目星をつけてあるから。」
澪は《VALHALLA》がターゲットにしそうな人物を考えていた。
おそらく何か強い権力を有している人、政界の人、政界にコネクションがある人、大金を動かせる人などをターゲットにしているのではないだろうか。
しかし、どのようにターゲットの悪事を見つけているのだろうか。
神城は何を知っているのだろうか。
「姉ちゃん、俺の話聞いてた?」
「あ、ごめん。なんて?」
「追ってる車、車線変更したよ。右折するみたい。」
「右折か…。行き先が分かった。」
「え?」
「青陵塾本校。」
青陵塾。中学受験専門の国内大手塾のひとつで、小学1年生から入塾が可能だ。
経営者の青原は「我が校は教育の基準となる」と大々的に掲げ、塾を全国展開している。
また、コメンテーターとして頻繁にテレビに出演し、教育論だけでなく政治についてもよく語っている。
自分と異なる意見は排除するような自信に満ち溢れた言動を嫌う人が多い一方、信者のような賛同者も非常に多い。
「あの青原っていう経営者が犯罪をしているってこと?」
「うん。」
「根拠はあるの?」
「ない。でも自信はある。」
「なにそれ」と凱は笑いつつ、迂回しながら青陵塾本校へ向かった。
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青陵塾に到着すると少し離れたところにリナを乗せた車が停めてあった。
「ほらね」と澪は得意げな顔をした。
「どうやって潜入するつもり?」
「あの塾は20時30分にすべてのクラスの授業が終わる。その時間に合わせて多くの保護者が迎えに来るから、私たちも同時に建物内に入る。」
詳しいな。根拠はないと言いつつたくさん調べてきたんだろうな。
凱は姉の仕事の速さを敬うと同時に、無理しすぎではないかと姉の心身の健康が心配になった。
「ただ、アマギさんたちも同じタイミングで建物内に入るだろうからばれないように気をつけなきゃ。」
「俺一人で行くよ。姉ちゃんはここで待ってて。」
「それはだめだよ。凱ちゃんこそここで待ってて。」
「じゃあ一緒に行こう。」
澪は凱を巻き込みたくなかったが、凱の笑顔に根負けして凱と共に塾に侵入することにした。
「できるだけ顔を見られないようにね。」
「わかってるよ。姉ちゃんこそ《VALHALLA》の人に顔見られないようにね。」
澪と凱は車を降り、二人で大きな深呼吸をしてから青陵塾に足を進めた。
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青陵塾は1階が受付、2階が会議室や保護者の待合室、3階が職員室、4階から6階が教室、7階は青陵塾の経営に携わってる人用のフロアになっている。
つまり、青原の犯罪の証拠をつかむためには7階に侵入しなければならない。
しかし、生徒や保護者が入れるのは6階までである。
リナはどのように7階に侵入するつもりなのだろうか。
「姉ちゃん、青原は2階の待合室のとこにいるよ。生徒の保護者と話し中。アマギさんはまだ塾内に入ってないみたい。」
「了解。私は6階に着いた。立ち入り禁止の看板があるだけだから7階まで階段使えそう。」
澪と凱はイヤホン越しに話していた。
「姉ちゃん無理しないでね。」
「ほんと心配性なんだから。でも、心配してくれてありがとね。」
澪は立ち入り禁止の看板の横をすり抜け、7階へ向かった。
廊下の奥、誰もいないのを確認すると、静かに“社長室”の扉の前に立った。
澪は社長室のドアノブに手をかけた瞬間、静かな“カチリ”という解錠音を耳にした。
もちろん澪の手によって開いたのではない。カードキーも使っていない。
これは、《VALHALLA》による遠隔操作だ。おそらく、リナの任務に備えて事前に解錠していたのだろう。
澪は一歩、室内へ足を踏み入れた。
《VALHALLA》は遠隔で解錠できる能力がある。
しかし、犯罪データを取得するためにリナは直接青陵塾に侵入している。
そうなると遠隔で操作できないところにデータがある。
オフラインのPCか紙データか。
澪は机上にあるノートPCの電源ボタンを押した。
静かにファンが回り始め、暗い画面にロゴが浮かび上がる。
インターネットアクセスを見ると、やはりこのPCはオフラインのようだ。
このPCにデータが入っている可能性が高い。
Enterキーを押すと、パスワードの入力画面が表示された。
やはり簡単にはいかない。澪は苦笑した。
青原が設定するパスワードとはどんなものだろうか。
名前と誕生日を組み合わせるような簡単なものにはしないだろう。
しかし、はっきりとものを言うタイプの青原だ。
複雑なパスワードにするとは思えない。
自信家。自分が正しいという考え方。
“基準”か。
澪は“standard”と入力した。
数字もつけるかと思い、青陵塾開塾日である“0415”も入力した。
当たってて。
そう思い、Enterキーを押した瞬間──
わずかに間を置いてデスクトップが立ち上がった。
「……当たった。」
澪は小さく呟いた。
standard0415。
まるで青原そのものを表すような、単純で傲慢なパスワード。
澪はすぐにデスクトップ上にあるただ一つの「管理フォルダ」という名前のフォルダを開いた。
中にはいくつかのフォルダが並んでいた。
•顧客データ(2024)
•管理用画像
•教材作成用
•売上報告
•others
澪の視線が”管理用画像”で止まった。
……“画像”ってつける必要があったのか?
マウスを動かしてフォルダを開く。
中には日付と英字の羅列が並んだファイルが無数にある。JPEG、PNG、ZIPファイルが混在している。
一つ、開く。
映っているのは──見慣れた青陵塾の教室。顔は映っていないが、体の一部が露出していた。
……これか。
吐き気がする感情を押し殺しながら、澪はリナがファイルを見つけやすいように”管理用画像”フォルダをデスクトップ上に移動させておいた。
「姉ちゃん、アマギさんがやっと建物内に入った。」
「了解。こっちも仕事終わったよ。」
澪はPCの電源を付けたまま部屋を出た。
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その頃、リナも塾内に入り、7階を目指して階段を上がっていた。
階段を駆け上がる途中、ふと6階のある教室の前で足を止めた。
教室の扉が、わずかに開いている。
もう授業は終わっているはずでは。
警戒しながら中を覗き込むと──
「……っ!」
そこには、一人の小さな男の子が椅子に座ったまま、眠っていた。
制服を着てはいるが、どこかぐったりとしている。
リナは一歩教室へ入る。
「……大丈夫?」
男の子は目を開けたが、すぐにまた頭を垂れた。
意識はあるが、ほとんど反応できない様子だった。
熱……いや、薬か?
呼吸は浅く、脈も弱い。
何かおかしい。
放置された、のではない。
「置かれた」のだ。意図的に。
リナの背筋に冷たいものが走る。
任務は──
時計を見る。
社長室はこの階のひとつ上だ。
行ける……行けるけど──
彼女の視線が、男の子の手の甲へ移る。
爪の横に、微かに青い痕。
これは睡眠薬だろうか。
怒りと迷いが胸の中でせめぎあう。
《VALHALLA》の任務は絶対。
でも──
「……あなた、どうしてここに?」
小さな声でそう呟くと、男の子がかすかに震えた。
リナは口元を引き結び、背負っていた黒いバッグを下ろした。
中から携帯用の応急キットと水、そして携帯電話を取り出す。
男の子の額に手を当て、水で濡らしたタオルを置く。
そして、携帯のメッセージアプリを開いた。
“任務の遅延を報告。
教室に薬物投与と思われる児童を発見。”
送信。
すぐに既読がついた。しかし返信は来ない。
判断は……委ねられた、ということか。