仕事初め
そして、町の外である。
顔合わせで引き渡されてから、三日かけてエリサの荷物が整えられた。
武器防具はもちろん、野営のための装備やらちょっとした矢を作るための道具やらが必要だ。暖を取るための燃料だって持ち歩かなきゃいけない。氷原で、焚き火にできるほどの木は限られているからだ。
故に、燃料袋だけでもかなりの大荷物となるはずだけど、燃料を入れたはずの燃料袋はとても軽くて小さかった。
領主イェルハルドが直々に作って支給するものだと聞いて驚くエリサに、ヴァロは笑って片目を瞑ってみせた。
氷原はこれから冬に向かう。本格的に雪が降るまで、いいところあとひと月くらいだろう。
まずは、今のうちに外の歩き方、野営の仕方、獣の避け方、この辺りのわかりやすい地形の見分け方……などの諸々、つまり、野外活動をするための基本を、実践で叩き込まなければならない。
正直、たかだかひと月程度の期間でそんなにたくさんのことを覚えられる自信なんて、エリサにはない。
不安げなエリサに、ヴァロは笑って言った。
「私だって、たかだかひと月程度で君が全部完璧に覚えられるとは思ってないよ」
それならどうしてそんな無茶を言うのかと、エリサがヴァロを見上げる。
「この氷原の冬が本当に厳しいのは、君も知っているね?」
「はい」
当然だ。
冬――“冬と氷の女神”たる“女王”が目覚める季節、氷原は何もかもが凍りつく死の世界に変わる。その冬に“谷”を出て外で過ごそうと考えるなんて、頭のおかしい者か氏族を追放された者くらいである。
そして、凍れる死ばかりの世界では、本当に力のあるものだけが“女王”の試練を越えて冬を生き延びることができるのだ。
「君の訓練中でも、私の担当地域を誰かに丸投げというわけにはいかないんだ。冬だろうが何だろうが、君を連れて仕事もしなきゃいけない」
「……え?」
「冬が来る前に、君にも最低限の基本を身につけて、外に慣れてもらわないきゃならないからね。冬だろうが夏だろうが、数日か、下手するとひと月くらい町に戻らず野宿を続けるなんてことも珍しくない生活になるんだから」
さあっとエリサの顔から血の気が引いた。
いくらなんでも、夜は町の中に戻るのだと思っていた。外で夜を過ごすなんて、それこそあり得ない。
「冬に外でなんて、“女王”の試練を受けなきゃいけない者くらいで、よっぽど強い男でもなきゃ無理なのに、なんで……」
「大丈夫だ。そこまで無理でもない。そのための準備もするし、技術もちゃんと教えるんだから。何も無為無策にただ外へ出るわけじゃないよ」
軽い調子のヴァロに、エリサは返す言葉が浮かばない。そんなに簡単に外で冬を凌げるというなら、“女王”の試練なんて意味を失くしてしまう。
エリサは蒼白な顔で口を噤んだまま、じっと門の外を見つめて――そんなエリサの様子にヴァロは苦笑を浮かべた。
「もちろん口で言うほど簡単じゃないよ。そのための準備なんだから」
「でも……」
「もうひとつ。神官先生に、次の冬から“谷”を出される者がいないかにも注意してくれと頼まれてる。もし出された者がいたら、全員拾ってきてくれとね」
「拾う?」
「君たちの氏族が、病気や怪我で弱った者を外に出して“女王”の試練を受けさせるのは知ってるよ。神官先生はそれを黙って見過ごせないんだ。神官先生の仕えている太陽神は生命と治癒を司る、病気や怪我はきっちり治して皆で健やかに生きろっていう神様だからね」
この前の春、たしかに施療院のノエ高神官とヘルッタが、“谷”からヨニと一緒に何人かを連れ帰っていた。
もちろん、全員エリサも知る“谷”の者たちだ。
皆、酷い怪我を負ったり重い病にかかったりでまともに戦うこともできなくなった“お荷物”で、次の冬には外へと出される運命だった。
“女王”はもちろん、神子もとても厳しい方だ。回復の見込みもない、まともに役目を果たせなくなった者は、“谷”から出て行かなくてはならないのだと“女王”が決めたことだ。神子は当然のごとく、それをきっちりと守らせる。
ところがこの夏、“谷”を訪れて神子と面会した“神官先生”……つまり太陽神の高神官ノエがその話を聞いて、捨てるなら全員自分が貰い受けると宣言し、町に連れ帰ってきたのだ。
幸いなことに、ノエの治療もあってか皆それなりに回復し、施療院で何かしらの仕事を手伝うようにもなれた。
けれど、回復せず“お荷物”のままだったらどうしたのか。そのまま神官先生が面倒を見続けたのだろうか……そんなことほんとうにできたのだろうかと、エリサは今も懐疑的だ。
氷原はそこまで甘い場所じゃない。何冬もそんなことを続けていたら、“お荷物”ごと共倒れしてしまう。
絶対に続かないのは自明の理だ。
――なのに、これからも続けるというのか。
「まあ、君たちの信仰している“女王”自身がそう教えてるんだから、仕方ないことではあるんだけどねえ……」
「町って、不思議」
「ん?」
「だって、“お荷物”は何もできなくて食い潰すだけなのに、拾うって……」
「そんなことはないさ。現に、春に引き取った者たちも働けるようになっただろう? たしかに以前ほどの戦いぶりを見せるのは無理かもしれない。でも、戦うこと以外にいくらでも仕事はあるんだよ」
「神子様は治らないって言ったのに、治るなんて思わなかった」
「太陽神の神官は治すことにかけては誰の追随も許さないんだ。なにしろ、太陽神の神官はそういう役目果たすために存在してると言っても過言じゃないくらいだからね」
エリサは考える。
ヘルッタもアイニも、もちろんパルヴィも、夫を決めてほとんど町に馴染んでしまった。タラーラも、地母神の司祭にくっついて回って町の人間のように振る舞うようになった。自分も、こうして“女王”や神子の教えに背いて武器を持ち、氷原に出ようとしている。
皆、すでに“町の民”になったのだ。
なら、“谷”の掟をいちいち気にするのは違うのではないか。従うなら町の掟だろう。
「――私、試練を受ける者がいつどこに出されるか、知ってる」
「じゃあ、時期になったらエリサに案内してもらおうか」
頷くエリサの頭をポンとひとつ叩いて「行こう」とヴァロは歩き出した。
顔を上げたエリサの眼前には、夏の盛りを超えてまだ緑を保つ平原が遥か遠くまで広がっていた。
* * *
「さっそくだけど、しばらくは町に戻らず、氷原を歩くことになるよ。
この季節……次の冬の訪れまでは、地面も凍っていないし苔や草もあるから歩きやすいけれど、氷河には気をつけなきゃいけない。溶けかけた氷は滑るし、何より裂け目に落ちたら命は無いからね」
谷でも、数年にひとりかふたりは、狩りに出たまま戻らない男がいた。
神子から聞いた話では、皆、“女王”の眠りを守る戦士として召されたのだという。冬が終わり、次の冬が来るまでの間、“女王”は氷の下で深い眠りにつく。その眠りを妨げるものから“女王”を守る戦となったのだ、と。
「とはいえ、まずは町の近くからだ」
そのまま、ヴァロに町の影が見える範囲をあちこちと連れ回された。
「町が見える」といってもポツンと小さな影に見える程度で、歩いて戻ろうとしたら最低でも昼の太陽が地平に傾くくらいの時間が掛かるだろう。
“谷”と羊の放牧場よりも離れている。
「これで近いの?」
「ああ。町が見えるからね。それに、この距離なら走れば一刻もかからない。私たちが巡回する範囲は、これよりずっと遠くまで広がっている」
でも、“谷”はまだ遠かったはずだ。“谷”から町は見えなかった――が。
「まさか、“谷”よりも遠くへ行くの?」
「もちろん。今や、君たちの“谷”だって私たちが守るべき範囲だよ」
エリサの目がまん丸に見開かれた。
“町の民”は本気で“北爪谷”の民を仲間だと思っているのか。“谷”の男が本当はどう考えてるかもわからないのに。
エリサは唖然とした顔で、町の影とヴァロを見比べる。
今まで戦った他の氏族に、協定を結んだから仲間だと言って、わざわざ守りの手を広げるような相手はいなかった。
もちろん、北爪谷の一族だってそんなことしない。
何か変わったことがあれば近隣の友好的な氏族へ警告を送ったりはするが、その程度だ。それ以上の手助けなんてあり得ないと期待すらしない。
「町って本当に変わってる……」
「町というよりは領主殿の意向かな。領主殿はこういう過酷な環境で生きていくなら、戦うよりは手を結んだ方がいいと考えているんだよ。
“都”で学んだ頭でっかちがいったいどんな領主になるのかと思ったけれど、この町はどうやらアタリを引いたらしいよ」
くっくっと笑いながら歩き出すヴァロの後に続いて、エリサも足を踏み出した。その横に並んで、のんびりとフロスティも歩き出す。
“町”の向こうには北壁山脈……“谷”では“壁の山”と呼ぶ大きな山の陰が、壁のように連なって遥か遠くまで続いていた。
町に送られるまで、エリサも他の女たちと同様、“谷”のほかには山側に広がる羊の放牧地までしか出たことがなかった。町に送られてからも、町があんな小さく見えるほど遠くまででることになるなんて、少しも考えたことはなかった。
こんな見渡す限り広がる氷原で、何日も、昼も夜も外に出たままなんて。
ほんとうに大丈夫だろうかと、エリサは少しだけ不安になる。
けれど、前を行くヴァロの背中と隣を歩くフロスティの柔らかい毛並の感触に、なんとかなるんじゃないかと、すぐに思い直した。