無理?
カン、と高い音を立てて、剣が宙を舞う。
訓練用にと刃を潰してあるとはいえ、金属の重い長剣だ。背後に落ちるそれを呆然と見つめるエリサに、ブレンダが小さく吐息を漏らした。
エリサの手はびりびりとしびれたままで、握力はもう限界だった。
* * *
半年前、氷原の長い冬が終わってすぐに、エリサはアイニとともに兵たちの鍛錬場を訪れた。
エリサは「兵の訓練を受けて強い戦士になる」ために、アイニは「“町”でいちばん強い男を見つけて夫にする」ために、だ。
鍛錬場には、剣を持ち兵の一員として訓練する女警備兵のブレンダがいた。彼女の姿に、エリサは“町”では本当に女が武器を持って戦ってもいいのだと勇気づけられ、彼女に声を掛けて警備兵の見習いとなったのだ。
もちろん、エリサにはこれまで剣はおろかまともに身体を鍛えた経験はなかった。女が戦いに出ることはもちろん、狩りをすることも冬と氷の女神である“女王”が禁じていたからだ。
それから約半年。春が終わり短い夏も終わり、日に日に気温が下がっていく秋になり……その間ずっと、毎日毎日基礎訓練を繰り返したにも関わらず、エリサはいっこうに剣の扱いが上達しなかった。
最初よりマシにはなっても、走れる距離が延びるばかりで腕はたいして太くならなかったし、力もさほど強くはならなかった。剣を振れば剣に振り回されるし、槍も斧も重すぎてうまく扱えない。
訓練さえ受けられれば、きっとすぐにブレンダのように腕も太くなり、剣や斧を振るって戦いに出られるようになれるんだと期待していたのに。
ちなみに、その半年の間に、最初こそ「いちばん強いのは、“町”の戦士たちを束ねる騎士長だから」と騎士長の第二夫人を狙っていたアイニは、騎士長の妻マルタに「今いちばん強い男を捕まえるより、これからいちばん強くなる男を見つけたほうがいい」と言い含められ、紆余曲折の末、大角鹿を狩って求婚した騎士長の息子、聖騎士コンラードと結婚した。
* * *
呼び出されたのは、騎士長の執務室だった。
騎士長の執務室といっても、特に豪勢な部屋ではない。大きなテーブルとそれを囲むいくつかの椅子、事務仕事のための書き物机と書類棚に、壁に掛けられた戦神教会の大きな聖印と剣や盾が置かれているだけで、特別なものは何もない。
どちらかといえば殺風景な部屋だ。
そして、騎士長は戦神教会に属する騎士たちの長であり、「戦士たちの中でも一番強くて偉い」騎士だ。この町の警備は戦神教会が請け負っているため、「町で戦える男たちの中でも一番強くて偉い」戦士でもある。
テーブルには既にニクラス騎士長とブレンダが着いていた。これからいったい何が始まるのか。エリサも促されるままに手近な椅子に座る。
着席を待って、ブレンダがゆっくりと口を開いた。
「ねえエリサ。あなた、戦士じゃなくて野伏か斥候になってみない?」
エリサはびくりと肩を震わせた。とうとうこの日が来たか、と。
まだ半年、されど半年。
同じ頃に見習いになったエリサよりひとつ年下の男は、半年たった今では剣を振る速さも強さもエリサよりずっと上だ。同じ期間、同じように訓練したはずなのに、エリサの剣を振る速さと強さは最初のころとあまり変わらない。
いつか、「お前には戦士なんて務まらない」と言われる日が来るんじゃないかと思っていたけれど、今日がその“いつか”だったのか。
「私、私、剣を……」
剣を使えるようになりたい、と言おうとして、エリサは口を噤んだ。
槍、戦斧、長剣、弓と一通り試してみて、一番それなりに使えたのは弓だけだった。重い槍や戦斧がだめでも長剣ならと思ったのに、長剣もやっぱり重くて……エリサはきゅっと唇を噛む。
「エリサ」
ニクラスが溜息混じりにエリサを呼んだ。
「エリサの希望はわかるが、何というか……戦士は力さえあれば、誰でもそれなりにできる。しかし、いい野伏や斥候というのはなかなか難しくてな。それで、訓練を見ていて、エリサならもしかしたらと思ったんだ」
「でも、私……」
「もちろん、エリサが剣を使えるようになりたいと言ってここに来たことは知っているよ。だがな、人には向き不向きというのがある。エリサには、戦士よりも身の軽さを生かせる野伏か斥候のほうが向いてるんじゃないかと思うんだよ」
しょんぼりと項垂れるエリサに、ニクラスはやや慌てたように続けた。
「斥候も野伏も、戦士に負けず劣らず大切な役目だが、適性が必要なこともあってなり手が足りない。だからエリサ、やってみないか? ちょうど弟子のいない腕のいい野伏がいて、エリサなら彼の訓練にもついていけると期待しているんだ。何しろ、お前は身が軽くて体力もあるから」
エリサは小さくこくんと頷いた。
ここまでお膳立てされているんだから、自分は本当に戦士には向いてないんだろう。そのことが悲しくてしかたないけれど、それでもまだ何か、武器を取ってできることがあるのかもしれない。
エリサが頷いて、ニクラスはようやくほっと表情を緩めた。
「ヴァロ、来てくれ」
ニクラスが奥の扉に声を掛けると、「ああ」と返事が返ってきた。では、その野伏というのはすでにここにいて、あとはエリサが頷くだけだったのか。
エリサは小さく溜息を吐く。
扉を開けて入ってきたヴァロは、北の男にしては小柄で細身だった。
こんな弱そうな男だから戦士になれず、野伏なんかになったんだろう。だから自分も……エリサはちらりと目をやって、また小さく溜息を吐く。
「ニクラス。この子まだ納得できてないみたいだけど?」
「ん? いや、しかし、同意はしてくれたぞ」
案外若い声が、ニクラスに親しげに呼びかけた。ニクラスが“腕がいい”と言うのだから、それなりの歳のはずだ。
エリサは顔を上げて、ヴァロと呼ばれた男に視線を向ける。
少しくたびれたマントの下は鎖帷子と革鎧か、かすかに鎧の擦れる音がする。マントのフードは被ったままで、顔はあまりよく見えない。
「それにしても、ニクラス。この子、谷の子だよね。なら、私が受け持つのはあんまり向いてないんじゃないか?」
「いや、しかし他に任せられそうな者はいないんだ」
ちらりとエリサを見たヴァロは、なぜか肩を竦めてばさりとフードを取り――現れた顔に、エリサは大きく目を見開いた。わずかに尖った耳と特徴的なアーモンド・アイ。それに、顔立ちもどこか人間らしくない。
まさか、森の妖精に取り替えられた子が、自分を弟子に取ろうというのか。
本当に、弟子に?
「――取り替え子? 私、取り替えられちゃうの?」
「取り替える? 何のことだ?」
ヴァロを凝視したまま、エリサは震える声で呟いた。
ニクラスは困惑した表情でエリサとヴァロを交互に見比べる。
「ニクラス、話しただろう? 氷原の民は妖精族をまるで魔物か何かだと思っているって。少し前に神官先生のとこからひとり引き取った時も、慣れるまで大変だったって言っていたじゃないか」
「あ? ああ……そうだったような?」
そういえば、神官先生とヘルッタが話していた。
結局、また病を得てしまったからと“谷”を出された弟は、病を追いだして身体を丈夫にするために、山向こうの森の妖精に預けられたのだ。
ヴァロがその森の妖精だとすると、子供を取り替えたりはしないのだろうか。
「ヨニが行った森の、妖精?」
「ん?」
おそるおそる尋ねるエリサに、ヴァロが首を傾げた。
「ヨニは山向こうの森の妖精に預けたって――ヴァロさんはその森の妖精に取り替えられた取り替え子?」
「違うよ。私は半分だけ妖精なんだ。父が山向こうの“麗しの森”の森妖精で、母は、もう十年は前に亡くなったけど、人間だよ」
半分だけ、と呟くエリサは、どうにも飲み込みきれずにいるようだ。
もしかしたら、谷の住人たちは自分のような半妖精を見て“取り替え子”だと考えたのかもしれない。
「取り替えられて、半分妖精になったんじゃなくて?」
「妖精は子供を取り替えたりしない。神官先生が預けた子供だって、べつに取り替えられたりしちゃいない。私は産まれた時から半分妖精ってだけなんだ。
合いの子ってやつだよ」
「合いの子……狼犬みたいに?」
「そう、狼犬みたいな合いの子だ」
ようやく納得したのか、エリサの肩の力が抜ける。
やれやれと肩を竦めて、ヴァロはちらりとニクラスへと目をやった。
「それで、どうする? 野伏も斥候もやめておくかい?」
「どうするって?」
「ニクラスもブレンダも、君は戦士より野伏向きだって言うんだ。でも私は、本人の意思が一番重要だと考えている。
だから、弟子になるかどうかは君が決めるんだ」
「私……?」
「そう、君自身で」
エリサはニクラスとブレンダを見る。
ふたりとも、口を噤んだままエリサの答えを待っているようだ。
膝の上で握り締めた自分の拳を見て、それからテーブルの上で組まれたブレンダの手を見て……自分の拳は、半年かけてもあんなに分厚くならなかった。手のひらの皮は多少厚くなったけれど、握力も思ったほど強くならないし……。
「私、弟子入りする」
ニクラスとブレンダは安堵の表情を浮かべる。
ヴァロがふっと目を細めて手を差し出した。エリサが意を決したようにおずおずと延べた手をしっかりと握ると、ヴァロは「では、これからは私が君の師匠だ」と笑った。