まだ見ぬ知らない場所
宣言どおり、キリアンはすぐにエリサの弓術を見始めた。教えてくれるのは、森妖精の弓術の基礎だ。
森妖精は弓の名手として知られるが、彼らの弓術を習得するには時間が掛かる。だから、今から学んだところでエリサが完全に習得はできるかどうかはわからない。ただ、キリアンは、エリサにグラートの目があることを聞き、もしかしたらモノになるかもと教えることにしたのだそうだ。
何事も覚えておいて損はない、学んでおくといいというのがキリアンの主張だ。
ちなみに、ヴァロももちろん教えられてはいるが、未だ完全に習得できたとは言えないという。
キリアンは、森妖精らしく陽気で楽天的で……エリサが想像していた妖精とはまるで違っていた。
「ヴァロに弟子がいるとわかってたら、ヴィズルを連れてきたのになあ」
ヴィズルはキリアンの相棒である森林狼だ。あいにく、雪豹のフロスティとは相性が良くないからと、今回は森に置いてきたという。
「ヴィズルは子供が好きで面倒見がいい狼なんだよ……そうだ! 今度、“麗しの森”に遊びにおいで。ヴィズルを紹介するし、森の中も案内しよう。氷原じゃ見たことのないものばかりなんだ。ヨニも来たばかりのころはいろんなものに驚いていたよ。私たちの作った家とかにね」
「家……木の上にあるっていう?」
「そうだよ。なんだ、知っていたのか」
キリアンがウィンクをしてあははと笑う。
そういえば、ヨニを訪ねて森に行ったヘルッタが言っていた。妖精の森では木の上に家を作るのだと。
でも、エリサの知る針葉樹の枝はどれもたいして太くない。それどころか、幹だって家を支えられるほど太くはならない。どうしたら木の上に家なんて作れるのかまるで想像ができず、ヘルッタが木の上にある小さな小屋のことを大げさに言っているのだとばかり思っていた。
「私自身も氷原じゃ驚くことばかりだったし、お互い様ではあるんだけどね」
エリサはこくりと頷いた。氷原のことですら、エリサが知らないことは多かった。余所者の森妖精ならなおさらだろう。
つまり、氷原の外はエリサには想像もつかないもので満ちあふれているということだ。
* * *
施療院の運動場で、弓を片手に、エリサは黙々と走るヴァロを見た。
ベッドから出られるようになると、ヴァロはすぐに体力を取り戻そうと運動を始めた。もちろん、ノエからは「無理をしすぎないように」と言われているし、以前のように活動するにもまだまだかかるだろう。
「ヴァロ!」
キリアンが、急にヴァロを呼んだ。
走り込みを終えたばかりのヴァロが、汗を拭きながら来る。
「汗を拭いて着替えておいで。エリサと一緒にお前の弓も見てあげよう。久しぶりにね」
ヴァロは何も言わずに顔を顰めると、建物の方へと戻っていった。
「エリサは銀竜殿に会ったと聞いたよ。巨人が“氷原の女王”に捧げたという氷宮殿に連れられていったとね」
弓を引くエリサの姿勢を直しながら、キリアンが「そういえば」と口にした。
エリサはこくりと頷いて、姿勢を保ったまま弦を放つ。つがえていた矢はまっすぐに飛び――的の中心を少し外れた場所を射貫いた。
キリアンは満足げに頷く。
「うん、だいぶよくなった。やっぱりエリサには弓の素質があるね。あとは、グラートの目を借りて射ることにも慣れることも考えていこう。
その前に、もう少ししたらヴァロも来るだろうから、少し休憩しようか」
的の周囲に散らばった矢を集めて、それから弓場の片隅に置かれたベンチにならんで座った。キリアンは興味津々という表情でエリサに氷宮殿の話を促す。
どうやら「休憩」はこれが目的だったらしい。
エリサは思わず笑って、銀竜に連れられて訪れた巨人の氷宮殿と“女王”の大聖堂のこと……それから、“女王”とのやりとりを思い出しながら、ゆっくりと話し始めた。
途中からヴァロも加わって、あれやこれやと話題を変えながら、結局夕刻まで氷原でのできごとを話すだけで終わってしまった。
それから、たっぷりひと月近くかけてヴァロの体力回復とエリサの訓練は続いた。ノエからもう氷原に出ても大丈夫とお墨付きをもらうまで、ひたすら施療院の運動場で体力回復とリハビりは続いたのだった。
正直、その半分の期間で十分ではないかと思ったが、ノエは断じて是とは言わなかった。さすが、“町”の民の健康を預かっていると豪語する神官先生だと、エリサは思った。
キリアンもそれにつき合うように、“町”に滞在していた。
ようやく療養期間が終わって氷原へ出るふたりにも、「ほんとうに寒いね」と零しつつついてきた。
たぶん、ヴァロがほんとうに回復したのかが心配だったのではないかと、エリサは思う。ヴァロはキリアンの息子で、母が娘を心配するように父は息子をを心配するものだから。
氷原でも、キリアンからいろいろなことを教わりながら、数日を過ごした。
キリアンはただの弓使いではない。長い経験を積んだ妖精の野伏だ。ヴァロの年齢よりも野伏をしていた年数のほうがずっと長いくらいのベテランでもある。
ただし、氷原の寒さには慣れていないけれど。
短い期間だったけれど、氷原での過ごし方はヴァロが、野伏としてのあれこれをキリアンがと、ふたりがかりでエリサにいろいろなことを教えてくれた。
キリアンの気配の消し方や痕跡の見分け方はほんとうに見事で、ヴァロ以上だったことはほんとうに驚きだった。
* * *
「あのね、ヴァロさん」
「ん?」
そして、とうとうキリアンが森へと帰る日。
遠くなるキリアンの背中を見送りながら、エリサは傍らのヴァロを見上げた。
「私、“森”が見てみたい。想像もできないほど大きな木の上に作った家とか、温かい水が湧き出る泉とか、私の知らないものをたくさん見てみたい。
それから、領主様が魔法を習ったっていうここよりずっと大きな町とか、神官先生の故郷の冬でも水が凍らない遠い南の町とか……他のいろんなところにも行ってみたいの」
「うん」
「氷原は世界のほんの一部分で、山の向こうにはもっともっと広くて私が想像もできない場所があって、だから……」
ヴァロの手が励ますようにポンとエリサの頭に乗せられる。
「私、独り立ちできるようになったら、町を出てもいいのかな。そんなこと言ったりしたら、領主様は怒らないかな」
「大丈夫。イェルハルド様は怒らないと思うよ。心配はするだろうけどね」
「そっか……それでね、ヴァロさん。行ってみたいんだけど、ひとりじゃ、やっぱり怖いの。だからヴァロさん、その時は、あの、一緒に来てくれる?」
ヴァロは少し驚いたように目を瞠って、それからゆっくりと破顔した。
「そうだね。私の初めての弟子のお願いなら、聞かないわけにいかないな」
「ほんと?」
「人生は長い。若いうちに好きなことをしたって構わないくらいには長い。それに、私はこれまでずっと町のために働いて来たんだよ。かわいい弟子の頼みを聞いて数年町を留守にするくらい、何の問題もないはずだ」
くっくっと笑いながら、ヴァロはエリサの頭をポンポンと叩く。
エリサはやっとほっとしたように笑って、ヴァロのその手を取った。
「じゃあ、ヴァロさん、約束。その日が来たら、一緒にいろんなところに行ってね。最初は、ヴァロさんの妖精の森を案内してほしいな」
「ああ、いいよ。約束しよう」
「グラートと、フロスティも一緒ね」
「もちろん、一緒だ」
エリサは、ヴァロの手をきゅっと握って歩き出す。
一人前になって、もっといろんなことができるようになったら、きっとあの山の向こう側へ、銀竜の背から眺めたあの広い世界へ行こう。
ひとりじゃ不安で怖くても、ヴァロが一緒ならきっとどこまでも行ける。
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