帰還
イェルハルドたちはろくな野営道具を持ってはいなかった。
当然だ、とにかく急いで戦いの準備だけをして駆けつけたのだから。
だから、野営はエリサとヴァロの荷物頼りである。
この場所までに点々と転がっていたエリサの荷物とヴァロの荷物を回収して、できる限り広めに天幕を張った。いつもなら寒さに備えて二重にするが、今日は一重だ。それでも全員が天幕の中で休めるだけの広さはない。ノエの寒さ避けの神術がなければ、この人数で夜を越すなんてとても無理だったろう。
ハイドラが荒らしたおかげで、危険な獣が寄って来ないのも不幸中の幸いか。
魔術師であるイェルハルドと未だ回復には遠いヴァロは天幕での休息を優先して、他のメンバーで夜番を立て、火を絶やさないよう十分に注意する。
そうやって夜を迎え……もう深夜を過ぎたころだ。
冬の夜空は厚い雲に覆われて、星どころか月も見えない。練炭と木の枝が燃える小さな赤い焚き火の明かりだけが闇をほのかに照らしている。
深夜を過ぎて夜番に立ったエリサは、ただその火をぼんやりと見つめていた。
「エリサ」
呼ばれて顔を上げると、ともに夜番をしているノエがエリサを見ていた。
エリサはいったん身体を休めたほうがいいからと、ノエは太陽神の神官は夜明けに合わせて礼拝を行うからと、このふたりが遅番の担当となったのだ。
「神官先生?」
「うん……エリサに話すべきか少し悩んだけど、やはり話しておこう」
「何がですか?」
逡巡の表情を浮かべたノエに、いったい何のことかとエリサは首を傾げる。
「実のところ、ヴァロは一度死んでいたんだ」
「――え」
しんでいた? と、エリサは小さく呟いた。
でもヴァロは死んでない。ちゃんと生きている。今も天幕の中で休んでいる。
「あの時、ヴァロはハイドラの凍てつく息をまともに浴びてしまっていた。おそらく、避ける余力もなかったんだろう」
「でも、ヴァロさんは大丈夫って……」
「そう。エリサのおかげでね」
「私の?」
ノエは小さく溜息を吐いた。
そういえば、とエリサは思い出す。
太陽の神は生命と治癒の神でもあって、その神官は死者をこの世界に呼び戻す奇跡を使うこともできるのだ。
でも、それならノエがヴァロを呼び戻してくれたのだろう。
なぜ、エリサのおかげだと言うのか。
「たしかに、“輝けるお方”は死者さえもよみがえらせる奇跡を、僕たちに降ろしてくださる。でも、結局は人の使う奇跡であって、神自らがお使いになる奇跡じゃない以上、完璧じゃない。
生を諦めて……死を受け入れてしまった魂を呼び戻すことは、太陽神の神官の奇跡があっても無理なんだ」
「無理なんですか? 誰でも生き返るんじゃなくて? でも、ヴァロさんは……」
頷くノエに、エリサはごくりと喉を鳴らす。
「蘇生の奇跡は、天命を残して亡くなった者自身に選択肢を与えるんだ。
まだ死ねないと戻るか、それとも十分生きたから神々の身許に行くか……奇跡は誰でも必ず生き返らせるわけじゃない。天命をまっとうした者、もう十分だと満足した者、生を諦めてしまった者を呼び戻すことはできない」
エリサは黙って焚き火に視線を戻した。
ノエは太陽神の偉い神官だ。怪我や病気のせいで“役立たず”として追い出された谷の者たちも、全員治して元気にした。だから、死者を生き返らせる奇跡が使えるというなら、町で死んだ者も全員ノエが生き返らせてしまうんだろう――そう、漠然と考えていた。
でも、違ったらしい。
「ヴァロが、自分はもう死んだからと諦めていたら、きっと蘇生は叶わなかった」
ふ、とノエは笑って、エリサの頭にポンと手のひらを乗せた。
「エリサがいたから、ヴァロは踏みとどまったんだよ。なんとか生きて、立ち上がって、ハイドラをどうにかしなきゃエリサが危ない……その一心でね」
「私が……」
「君がヴァロと一緒で良かったと、心の底から思ったよ。君がいたおかげで、ヴァロを助けることができた」
「私がいたから、なの?」
ノエがぐりぐりとエリサの頭を撫でる。
「守らなきゃならない者を持つと強くなるっていうのは本当だね。ヴァロはエリサを守らなきゃならないと思ったから、諦めることなく戻って来た」
「そっか……私、役に立ってた?」
「当然だとも。僕たちが駆けつけるまで持ち堪えられたのも、エリサがヴァロとがんばっていたからだよ」
「よかった」
ほっと息を吐いて、エリサは膝を抱える。
数度ぽんぽんと頭を叩いて、ノエは手を引っ込めた。
「それはともかく、ふたりとも、町に戻ったらしばらく入院だ。施療院でしっかりと療養してもらうからね」
「りょうよう?」
「そう。ヴァロはもちろん数日安静にしなきゃならない。エリサもひどい凍傷だったんだ。下手すれば指が壊死していたかもしれないほどのね。
だから、しばらく経過を見ないといけない」
そんなに酷かったのだろうかと、エリサは手を握ったり開いたり動かしてみた。たしかに、まだ指が腫れているように感じる。
「それに、ふたりともとんでもない魔獣と戦ったんだ。なんともなくたって、しばらく休んでもいいはずだろう?」
そういうものかなとエリサは頷いた。
ハイドラはエリサが知ってるどんな生き物よりも恐ろしくて強かった。あの銀竜や巨人ならもっと強いかもしれないけど、この先、彼らと戦うことはないだろう。だから、エリサが知ってるいちばん恐ろしい生き物はハイドラだ。
そのハイドラ相手に、ヴァロとフロスティと三人でなんとか戦って持ちこたえていたのだ。エリサ自身はもう大丈夫だと思っていたけれど、ノエから見れば休まなきゃだめなほどボロボロなのかもしれない。
「――そうだ、神官先生」
ふと思い出して、エリサが顔を上げた。
「ハイドラに弓を射ってる時、急に目が良くなったんです」
「目が良くなった?」
困惑するノエに、エリサはうーんと考える。
あの時、ハイドラとの戦いの中で、いつもなら走る雪兎に矢を当てるのがやっとのはずのエリサが小さなハイドラの目を次々射抜くことができたのは、なぜだか急に、ハイドラの目がはっきりと見えたからだった。
「ハイドラの目がすごく大きく見えて、動きもゆっくりに感じて、だからすごく簡単に目を狙えて、でも、今はあんなに簡単に射抜けるとは思えないんです」
「生命の危険にさらされると思わぬ力を発揮できるものだって聞くけど、そういうことかな?」
「ええと……そういうのじゃなくて、誰かの目を借りて見てたみたいに――」
「借りて?」
「そうだ、グラートだ。グラートが目を狙えって教えてくれたんです」
ノエは、エリサの膝に蹲るグラートへ視線を移した。
換羽が進んで白と灰色のまだら模様になった氷原鷹の雛鳥は、まん丸に羽毛を膨らませて眠り込んでいた。
「――“神々への道”が開いたのかな」
エリサの言葉をノエがじっと考え込みながら、ぽろりとこぼす。
「いや、君は司祭や神官ではないから“道”じゃないな。聖騎士風の言い方なら、“共感”とか“同調”か。聖騎士は、自分の神馬と感覚が繋がることをそう呼んでいるから」
「グラートと感覚が繋がったってこと?」
「かもしれない。以前、老フーゴ殿も言ってただろう? エリサとグラートは、聖騎士とその神馬のような関係になったのではないかって。要するに、エリサとグラートが必死に助かる方法を探した結果、グラートと感覚が繋がったんだろうね。
氷原鷹は非常に目のいい鳥だとも聞いているし……エリサとグラートの訓練次第ではあるけれど、これからもそういう感覚の共有は可能なんだろう」
今は消えてしまったけれど、ハイドラを射る間はずっと、誰かの目を通して見ているような、不思議な感覚だった。
グラートの目なら、あんなにはっきりしっかり見えるなら――その“訓練”とやらをして、いつでも目を借りられるようにしたほうがいいかもしれない。
丸くなったグラートを見つめて、エリサはそんなことを考える。
「そうはいっても、まずは町に帰らないとね。まずはちゃんと休んで、それからいろいろ考えよう」
ぬくぬくと温かいグラートの重みを感じながら、エリサは黙って頷いた。
* * *
さすがのヴァロも、一晩の休息だけでは、たいして回復したとはいえなかった。
わかってはいたけれど、ろくな装備もなしに冬の厳しい寒さの中を徒歩で帰るのは無理だろう。「この人数ならギリギリ間に合うから」と、イェルハルドの“転移”の魔術を使ってで町へ戻った。
“転移”というのはどういう……と考える間もなく、イェルハルドが呪文を唱えたと思った次の瞬間には全員が領主の館の庭にいた。
エリサはただただ唖然とする。魔法というのはすごい。先の戦いで“谷”が負けたのはやはり当然のことだったのだ。
帰還すると、ヴァロとエリサはすぐに施療院に連れて行かれた。
ヴァロが数日安静なのはもちろん、エリサも数日は休む必要があるという。
特にヴァロは、怪我と凍傷で身体がガタガタだった。ごくわずかな時間であっても一度死んでしまった衝撃のせいで衰弱もしていた。しばらくの間はほぼ寝たきりで過ごさなくてはならないほど、だ。
フロスティも怪我の手当てを受けたあと、ヴァロと一緒に療養だ。
そのヴァロは一度目を覚まして「情けないなあ」と苦笑を浮かべていた。エリサにすれば、情けないのはヴァロではなくてエリサである。
あのハイドラとの戦いでちゃんと役に立てた実感が、エリサにはほんのちょっぴりも湧いてこない。せめてもっと手際良くたくさん火矢が作れれば、もう少し要領よく動ければ――考えれば考えるほど、もう少し、もう少しと思えて仕方ない。





