氷原多頭蛇
イェルハルドはバタバタとあちこちひっくり返し、必死に必要なものを集めた。つい今しがた、エリサから多頭蛇との遭遇の一方が入ったのだ。
首の一本一本が氷の息を吐くという難敵だというのに、それなりに年数を経た強い個体ではヴァロがいたとしても危ない。
とはいえ、何の準備も無くては、イェルハルドでも厳しい相手である。
多頭蛇の報せは、すぐ使いに持たせて戦神教会と警備隊へと送った。すぐにニクラスが必要な人員を選んでここへ来るだろう。だから、イェルハルドはそれまでに必要な準備を済ませなければならない。
「旦那様、旦那様、エリサは大丈夫なの?」
泣き出しそうな顔でおろおろと縋り付くパルヴィを「大丈夫だ」となだめつつ、イェルハルドはいくつもの巻物を広げて中身を確認しては、懐に突っ込んだ。触媒入れと、杖と、呪文書と、それから防寒用の外套と……目に付いたものを片端から身に付けると、そこに使用人に先導されたノエも現れた。
「イェルハルド、ハイドラだって? しかも首が五本?」
「ああ、まさに今、遭遇して応戦しているらしい」
ノエがチッと舌打ちする。
発見しただけの報告なら良かったのに、と呟いて。
「場所はわかるのか?」
「それはこれからだ。エリサと指輪を目印に位置を確認したうえで、ひとりかふたり、ニクラスが戦士か騎士を寄越したら飛ぶ」
「わかった」
一説では、多頭蛇は邪竜神の落し子のさらに落し子として誕生したのだと言われるが、真偽は定かではない。目についた生き物は何でもすべて食べ尽くそうと襲う、凶暴で貪欲な魔獣として知られている。
通常なら首の数は三本。大きくても四本だ。年数を経て大きく育つほど首が増えるけれど、大抵はそうなる前に討たれるのが普通だ。
それなのに、遭遇した個体は五本首だという。おそらくは北方の氷原から流れてきた個体だろう。
あちらにはあまり人は住んでいない。
寒冷地に強いヒューマノイドの部族がせいぜいだが、ハイドラを追い出すだけでやっとだったのか、それとも食い尽くされたのか。
あらかたの用意ができる頃、武装を整えた聖騎士長とブレンダを連れたニクラスがやってきた。三人とも厳しい表情で、イェルハルドの指示を聞く。
「寒冷地タイプだと言ったから、火には弱いはずだ。
燃焼油はいくつか用意した。炎の魔術も魔道具で出せる。君たちにはハイドラを牽制しつつ、呪文詠唱の時間を稼いで欲しい。
ノエ高神官には援護に集中してもらう。
ニクラス騎士長は残り、戦神教会と協力して多頭蛇討伐隊の編成を頼む」
「わかりました」
イェルハルドは懐の巻物を取り出すと、立て続けに呪文をふたつ唱えて……後に残ったのは、見送りのパルヴィとニクラスのふたりだけだった。
* * *
運の悪いことに、このハイドラは再生能力を持つ個体だった。
氷の息を避け、噛みつこうとする首をどうにかかわしながら切り付けた傷は、ほんのひと息かふた息する程度の時間で塞がってしまう。
エリサの射った矢もそうだ。どんなに深く刺さっても、次の矢を射るころには傷が塞がり、深く刺さったはずの矢は抜け落ちてしまっている。
ハイドラは、すべての首を落とさなければ死なないのに、このままでは倒すなんて夢のまた夢だ。
エリサが“伝達の指輪”を持っていたことは僥倖だったけれど、はたしてどれくらい粘れば援軍が来るかもわからない。
いや、来ないことを前提に、今を凌ぐしかない。
「せめて、火があれば……」
大きく息を吐いて、ヴァロは眉を寄せる。どう考えてもこの状況ではジリ貧だ。時間の問題でしかない。
かといって、見上げるほどの図体のくせにハイドラの動きは俊敏で足も速く、無闇に逃げても逃げ切れるとは思えない。おまけに聞いている以上に貪欲で凶暴で、ヴァロの剣を恐れていない。
どうしたって時間を稼ぐしかない。
「エリサ、どうにかして樹脂を集めろ! 松明の要領で火矢を作るんだ! こいつは火に弱い!」
「はい!」
ヴァロは、戦い方を変えて防御に徹することにした。
氷原の気候にに適応したハイドラは熱さに弱い。つまり、火でついた傷ならハイドラの再生能力は効かないはずだ。火が用意できればハイドラの首を落とせる可能性だってある。
――油は貴重品で、持ち歩いている燃料のほぼ全ては練炭だ。こんなことなら少しくらい油も用意しておくべきだった。
けれど、幸いなことにここは針葉樹の森で、ハイドラがあちこち付けて回った木の傷からどろりとした脂が染み出している。松明の要領であれを鏃に塗れば、火矢が使えるようになる。短時間でどこまでできるかはわからないけれど、牽制くらいにはなるだろう。
エリサが準備を終えるまで、どれくらいかかるだろうか。
それまで、どうにか保たせなければ。
エリサは必死に森の中を走り回る。
とにかく目についた木全部から、ほんの少し染み出して固まってる樹脂を見つけては、ナイフで樹皮ごと削り取った。
それからハイドラを相手に防戦に徹するヴァロを振り返り、まだ無事なまま戦っていることを確認する。
何度も何度も繰り返して必死に集めた樹脂を、荷物から乱暴に取り出した手鍋に放り込み、適当に並べて火をつけた練炭の上に乗せた。
火打ち石や火口箱しかなかったら、こんなにスムーズに点火できなかっただろう。火起こし棒があってよかった。
ついでに松明にも火を付けて、練炭のそばに置く。
松明作りなら何度もやった。直火ではなく湯煎でやらないと危ないことも知っている。けれど今、そんな手間を掛けている時間がない。
エリサはチラチラと戦いの様子を伺いながら、矢筒をひっくり返して散らばった矢を手に取った。
樹脂の溶けた鍋をいったん火から下ろして、少々雑に、鏃に樹脂を絡めては雪の上に置いていく。本来なら確実に着火するよう細く裂いた布を巻いたり、きちんとバランスを見たりしなくてはいけないが、もちろんそんな余裕はない。
とにかく火を付けたまま射られればいい。
十本じゃ心許なくても、手持ちの全部の矢に塗れるほど樹脂の量も時間もない。でもせめて二十は作って、そうしたらすぐにヴァロに加勢して――
ギャン、という悲鳴が聞こえた。
フロスティの声だった。
ハッと顔を上げて、エリサは樹脂を塗り終わった矢と松明を掴んで立ち上がった。できた矢は、十あるかないかくらいだった。
でも、フロスティが負傷したなら、きっとヴァロも危ない。
「ヴァロさん!」
戦いの場が見えたところでエリサは松明を雪に立てて、握り締めていた矢をすべて地面に並べた。
最初の一本の鏃を松明の火で炙り、火がついたところでつがえて弓を引き絞る。
後肢を不自然に引きずりながらハイドラの身体に齧り付くフロスティと、傷だらけになりながら五つの首の注意を引くヴァロを確認して、エリサは矢を放つ。
――けれど、矢はハイドラの手前で落ちてしまった。
樹脂を塗った分、鏃が重くなっている。
もっと近づかないと、矢が届かない。
エリサは弓を肩に引っ掛けると、矢と松明を持って木立ちの影を出る。
ヴァロが危ないと叫ぶけれど、それに構わず、ここなら届くだろうという場所からもう一度矢に火を付けて弓を引き絞る。
「当たった!」
今度こそ、ハイドラの首の中ほどに矢が当たって、エリサは思わず声を上げる。その、火矢を射掛けられた首がぐるりとエリサを向いて、かぱりと口を開けた。
「エリサ、避けろ!」
「え?」
ゴォッという音と、刺すような冷気がエリサを襲う。
咄嗟にマントに包まるように蹲ったけれど、まるで雪嵐に吹きっ晒しにされたような凍てつく寒さで身体が凍りつきそうだ。
「エリサ!」
でも生きてる。凍ってない。大丈夫。
――そう返したいのに、歯の根が合わないほどガチガチと身体が震えて、うまく声が出なかった。身体もうまく動かせない。
横に置いた松明の火も消えてしまっていた。
「あ……」
パリパリと薄く凍りついたマントを払って、エリサは身体を起こした。ハイドラの凍てつく息のせいで手がかじかみ過ぎて、痺れたように感覚がない。
震える手でどうにか矢と松明を拾い上げて、腰につけた荷物袋を探る。
起き上がったエリサを確認して、ヴァロがホッと息を吐いた。
「エリサ、下がれ! もっと安全な場所から弓を射るんだ!」
エリサは首を振った。
安全な場所からじゃ火矢は届かない。この位置に留まらなきゃいけない。
ここから火矢でヴァロを援護しなければ。
エリサは松明をともし、もう一度火矢をつがえてハイドラに狙いをつけた。





