町への帰還
『お前たちこっちだ。王はいつもここで宴会する』
氷尻尾の案内で長い回廊を抜けた先は、聖堂に負けないくらいの大広間だった。
扉は大きく開け放ったまま、何人もの霜巨人たちと銀竜が、エリサの身長よりも高い大きなテーブルを囲んでいた。
エリサやヴァロにはテーブルの上までよく見えないが、きっと、羊や海豹の丸焼きとか、そういう大きな料理が乗っているんだろう。
さすがに犬頭には無理なのか、給仕も下位の霜巨人の役目だった。
酒樽や大皿を抱えて忙しなく歩き回る大きな足を避けながら、エリサたちはようやくヴォレラシアーのところにたどり着く。
「戻ってきたね」
足元に気づいたヴォレラシアーが翼を差し伸べて、ふたりをテーブルの上へと押し上げる。劇場の舞台よりも家々の屋根よりもずっと広いテーブルに乗せられたヴァロとエリサは、少し考えて、ちょこんと端に腰を下ろした。
ヴォレラシアーは目を細め、「君たちにも」と羊の乗った大皿を引き寄せた。
一頭を丸ごと焼いた塊からヴァロが手際よくナイフで切り取り、適当な皿に乗せてエリサに渡す。思い切ってかぶりつくと、塩と……こんな氷しかないところでどうやって手に入れたのかと考えてしまうような、香辛料や香草の香りがした。
「聖堂はどうだった?」
油のついた指を舐めるエリサに、ヴォレラシアーが訪ねた。その質問が聞こえたのか、巨人の王もエリサに視線を向ける。
「とってもきれいで……でも、“女王”がいて、ゆっくりは見られなくて……」
「へえ? 話をしたとか?」
小さく頷くと、ヴォレラシアーがおもしろそうに目を瞠る。巨人の王も驚きの表情を浮かべていた。
『そいつ女王に口答えした! 生意気!』
テーブルの下でも“女王”という言葉を辛うじて聞き取れたのか、氷尻尾がキィキィと甲高い声で騒ぎだす。
「口答え? 君が?」
「口答えというか、あの……」
「そりゃすごい」
ヴォレラシアーに覗き込まれて、エリサは慌ててしまう。
そんなにすごいことをした覚えなんてない。
「銀竜殿。口答えではなくて、エリサは単に自分の考えていることを率直に述べただけですよ」
「“女王”は冬の嵐のように気まぐれで残酷な面を持つ女神だよ。たいていの人間は神気に呑まれて立ち尽くすだけになる。そんな相手とよく話ができたね」
エリサはヴァロと顔を見合わせた。
たしかに“神気”のようなものは感じたけれど、言われるほど怖い雰囲気でもなかったように思う。
「“女王”に意見できるものなど、巨人族にもなかなかおらんぞ。たかが氷原の小娘と思っていたが、肝が据わっているな」
「あの、あの……」
「――ほう。しかも、“女王”の加護も得たのか。その懐に入っているのはなんだ? 何に加護をつけてもらった」
「加護?」
エリサは巨人の王が示した上着の前を、おずおずと開いた。急な光に目を覚ましたグラートが、餌をくれと鳴き始める。
巨人の王が、ほう、と感心したように吐息を漏らす。
「なるほどその雛か。氷原鷹だな。“女王”は目をつけたものに気まぐれに加護を与え、試練を課す。その口答えとやらが“女王”のお気に召したのだろう」
「エリサは人間なのにねえ」
巨人の王も銀竜も、おもしろそうにエリサを見つめている。なんとなく居心地が悪いような気恥ずかしいような心持ちで、エリサは首を竦めた。
霜巨人の宮殿で一夜を明かした後、銀竜とふたりは王にいとまを告げた。
氷宮殿の大きな門から外へ出ると、ふたりを背に乗せた銀竜は、来た時と同様、軽やかに空へと飛び立った。
冬にしては珍しく青く澄んで晴れ渡った空に輝く太陽が、眼下に広がる一面の銀世界を眩しく輝かせていた。
「あまり町に近づき過ぎると大騒ぎになるから、近くで下ろすよ」
「はい……」
最初に発った避難小屋ではなく“霧氷の町”の近くまで送り届けるからと、のんびり述べる銀竜に、エリサは気もそぞろにと生返事を返す。
エリサの視線は眼下に広がる光景にずっと釘付けで――どこまでも続く銀色の大地とうっすら青く繋がる山々の影、それから氷原の遙か向こうへと広がる海の暗い青に、すっかり魅入られていたのだ。
ちらりと背のふたりを見やって、ヴォレラシアーは目を細めて笑みらしき表情を浮かべる。
「ずいぶんこの眺めが気に入ったみたいだね」
「はい……すごく、きれいで……広くて……」
ひたすら空の向こうを見つめながら返すエリサに、ヴォレラシアーはくすりと笑うように吐息を漏らした。
「ヴァロ、この雛鳥は、君が考えているよりもずっと大きく強い翼の鳥に育ちそうだね」
「――そうかもしれませんね」
ふたりの声が聞こえているのかいないのか、地平の彼方に夢中で目を凝らすエリサに、ヴァロは苦笑混じりで同意する。
「君は雛鳥をどう育てる?」
「彼女がなりたいものになれるように。彼女が何を目指すか、それは彼女自身が決めることですよ。私はできる限りを教えるだけです」
「君が師で、この子は運が良かったんじゃないかな」
「そうだといいんですけど」
「――ヴァロさん?」
振り向くエリサの頭をぽんぽんと叩いて、ヴァロはにっこりと笑い返した。
* * *
ふたりを町から半刻ほどの場所で下ろすと、銀竜は「またいつか」と言い残して瞬く間に飛び去った。
空を覆い始めた薄い灰色の雲の中に消える竜を見送って、エリサはずっと夢でも見ていたみたいだと思う。
町に向かって歩き出して四半刻ほどすると、どこからか駆け寄ってきたフロスティがごろごろと喉を鳴らしながら身体を擦り寄せてきた。
毛皮は少し冷たくなっていたけれどふわふわで、もしかしたら、外でずっとふたりの帰りを待っていたのかもしれない。
「ヴァロさん」
「ん?」
フロスティの耳の後ろを擽りながら、エリサはぼんやりと呼び掛ける。
「あの山の向こうって、もっと広いの?」
「そうだね……この氷原全部よりももっとずっと広い。それこそ、何十倍どころか何百倍も何千倍も大きな土地が広がっているよ」
「そんなに広いんだ……」
エリサは顔を上げて、山の向こうを見透かすかのようにじっと目を眇める。
「エリサ、まずは領主殿に戻ったことを報告だ。今頃、領主殿はやきもきしながら君が無事に戻るのを待っているだろうからね」
「――はい」
エリサはヴァロを振り返る。
山の向こうには、冬でも水が凍らず緑の枯れない土地が広がっているという。いったいどんな土地なのか。氷原ではどうして全部凍ってしまうのだろう。
領主の屋敷を訪ねると、真っ先に出てきたパルヴィが「エリサ!」と声をあげて抱きついた。
そのままあちこちを撫で回し、「氷にされたりしてない? 大丈夫?」と心配そうな顔で首を傾げる。
そのようすをひとしきり眺めてから、領主イェルハルドはヴァロへと視線を移す。イェルハルドがエリサの懐を示すような仕草にヴァロが首肯すると、眉間に少しばかり皺を寄せて、小さく溜息を吐いた。
「エリサ、霜巨人の宮殿に行ったんだって?」
呼ばれたエリサは、イェルハルドにこくりと頷いた。
「それじゃ、君の懐から何事かを感じるのは、そこで何かあったからかな?」
「もしかして、領主様は“女王”がグラートに何かしたの、わかるの?」
「“女王”?」
さすが魔術師か。
エリサの懐で丸まって眠るグラートに与えられた、“女王”の祝福か呪いか――感じ取れた何かがそういう類いの力だと悟ったイェルハルドは、眉を跳ね上げた。
「エリサ、それは――」
「領主殿、私から報告しますよ」
思わず募りそうになったイェルハルドを、ヴァロが押しとどめる。
イェルハルドはいったん大きく深く息を吐いて、ヴァロに頷いた。
「……では、ヴァロはこちらへ。パルヴィ、エリサと一緒にお茶でも飲んでいなさい」
「はい!」
* * *
ヴァロからひと通りの話を聞いたイェルハルドは、また大きな溜息を吐いた。“女王”とのやり取りに、厄介なことになったなと考えたのだ。
「“女王”の加護、ねえ……」
神々の考えることを定命の生き物が正確には図れないのと同様、神々にも定命の生き物の事情というものを正確に図ることはできない。
どこかがズレていて、そのズレが予想もしない結果を引き起こすはめになる……というのが、これまでの歴史に幾度かあった神々の介入で証明されている。
「数日ここに留まってくれるかな。グラートのことは少し調べてみよう。それから、ノエのところできちんと診察を受けてくれ」
「わかりました」
気まぐれさと残酷さで知られる“女王”の力が、グラートとエリサにどんな影響を及ぼすのか、今のところイェルハルドにもわからないし想像もつかない。
けれど、魔術師としても領主としても後見役としても、できる限り把握しておく必要がある。
「グラートは、エリサの特別な“相棒”にするつもりなんだろう?」
「今さらやめたは通用しないと思いますし、その予定ですよ」
「そうだろうな。女神はエリサの監視という役割をあの鳥に与えた。僕らが無理に引き離せば、女神の怒りを買うことになるだろう。
でもさすがに、こんなのは前代未聞だ。これがどう転ぶかは僕にも判らない」
イェルハルドは「困ったことにならなきゃいいが」と呟いて、長く伸ばした髪をわしわしかき混ぜた。





