銀竜の提案
ヴァロはどことなくじっとりとした目でヴォレラシアーを見ている。
エリサはどう会話を続けたらよいのかわからず……考えに考えた末、「どうして霜巨人に挨拶するんですか?」と尋ねた。
「争いを回避するためだね」
「争い?」
ヴォレラシアーは勿体をつけるように、大仰にゆっくりと頷く。
「我々竜と巨人族には古くから因縁があって、実のところあまり仲良くしたいとは思わない。だからといって、顔を合わせるたびに争っていては他種族に迷惑をかけることになってしまうし、最悪、取り返しのつかない災いを呼ぶことにもなる」
「そうなんですか?」
「聞いたことはないかな? 竜にとっても遥か遠い昔ではあるが、争いが過熱したあまり、とある一頭の竜が思いあまって禁じられた古い魔法に手を出したあげく、手元が狂って大地を吹き飛ばしてしまったんだ」
「ええと?」
「本当ならこの大陸のすぐ西側には大きな島があったのだが、今は影も形もない。その古い魔法で吹き飛んでしまったからね」
島? とエリサは首を捻った。
この辺り――といっても、海なんて遠すぎて谷からも町からも見たこともないが、海豹狩りに出た男たちがそんなことを話していた記憶はない。
おばあも神子も、大きな島のことを話していたことなんてない。
「島なんて、どこに……?」
「ヴァロ、君なら知ってるだろう?」
「ええ、妖精族の間では有名ですね」
エリサは思わずヴァロを振り向く。
ヴァロはおばあよりも神子よりも物知りなのかと。
「ともかく、その大きな島を吹き飛ばすという事故があってから、さすがの竜たちも少し反省したんだ。善き竜の総意として、だから、むやみやたらと喧嘩などはせず、他種族との争いもなるべく避けるようにと決めたんだよ。
僕と巨人の争いでこの辺りが荒れてしまったら、君たちも困るだろう?」
「はあ……」
エリサが見たことがある竜は、アイニへの求婚でコンラードが捕まえてきた、小さな小さな白い竜だけだ。
せいぜい、ちょっと大きめの狼犬くらいの大きさで、縄でぐるぐるに縛られてしまえばなすすべなく転がされるくらいしかできない、雛竜である。
それに巨人と言われても、霜巨人なんてどれほどのものなのかがまったく想像もつかない。谷の男たちが自慢げに氷鬼と戦い討ち取ったと話しているのを耳にしたことがあるだけだ。
小さな雛竜とせいぜいが人間の倍くらいの背丈の氷鬼が戦ったくらいで、この広い氷原がどうにかなるなどとは思えない。
「ふむ、半信半疑といったところだね」
「だって」
「僕は大魔術師であり古竜と呼ばれるほどの竜だ。だが、霜巨人にも……これを認めるのは少々癪だが、なかなかに侮れない実力を持つ魔法使いや司祭がいるのだよ。
もし僕が宮殿から眷属たちを率いて霜巨人と戦ったりしたら、このあたりは焼け野原、いや、永遠に解けない氷に覆い尽くされた不毛の地に変わるだろうね」
エリサはただただ呆然と聞いていた。
エリサの知る戦いなんて、谷と町の戦争か、せいぜいが近隣の氏族との小競り合いがいいところで、運の悪い男や弱い男が死んだり怪我をしたりするくらいだ。
もちろん、谷が負ければ若い娘を数人引き渡すことになるし、冬越しの備えや家畜を持っていかれたりもするから、まったく困らないというわけではない。氷原が厚い氷に覆われたまま解けなくなることなんてあり得ないはずなのに、何をどうしたらそんなことが起こるのか。
大袈裟に言ってるだけではないのか。
「僕は、まがりなりにも尊き皇竜神の僕たる銀の竜だ。しかも偉大なる古竜なのだよ。近隣の善き生き物たちにも気を配れなくてどうする?」
「はあ……」
どうにも想像がつかず、エリサは困ったように首を傾げるばかりだった。期待していたよりもずっと静かな反応に、ヴォレラシアーも「ん?」と首を傾げた。
「ヴォレラシアー殿、まずは休みませんか。私たちもほんの少し前にここに避難したばかりで、食事もまだなんです」
「ああ、そうだったか。それは済まないことをしたな。お詫びに、この濡れた荷物は僕が乾かしてあげよう。
なあに、ほんの手慰み程度の魔術で十分可能だからね」
ヴァロは暗くなり始めた外へと目をやった。それから、窓の鎧戸の掛け金をしっかりと確かめる。風の強さが増しているようだ。
そして言葉どおり、ヴォレラシアーが二言三言不思議な言葉を呟いて指を振ると、ふわりと温かな風が吹いた。エリサが慌てて確かめると、荷物も衣服もブーツも何もかもが一瞬のうちに乾いていた。
「すごい……魔法って、すごい……!」
あれこれひっくり返して触って、本当に全部が気持ちよく乾いているとわかって、エリサは大きく目を見開く。
エリサが知る魔法の話といえば、イェルハルドが戦いの時に使ったという雷を呼ぶ魔法や酸の雨を降らせたり竜を召喚したりという恐ろしいものばかりだった。
こんな便利な魔法の話なんて聞いたことがない。
「ありがとうございます、ヴォレラシアー殿」
「いやいや。この程度、たいした魔術ではないからね」
うわあ、うわあと声を上げるエリサを横目で見ながら、ヴォレラシアーは得意げに目を細める。
魔術師なら誰でも使える初歩の初歩、“小魔法”と呼ばれる手慰み程度の魔術ひとつで、こうも驚き感心されるのは久しぶりだ。
ヴォレラシアー自身、大魔術師と呼ばれるようになってからは長いけれど、それでもこうして無邪気な称賛を浴びるのは気分がいい。
「魔法ってなんでもできるんだ!」
「エリサ、そういうわけじゃない。ヴォレラシアー殿が魔術でいろいろできるのは、気の遠くなるくらい長い間、研鑽を重ねてきたからこそだよ」
初めて目にする魔術に、エリサが子供のようにはしゃぐ。
ヴァロは苦笑を浮かべつつ食事の用意を始めた。
堅焼きにしたパンと干したキノコと肉でスープを作るかたわら、フロスティが獲ってきた鳥を捌いて鉄串を刺し、炙りだす。
「たしかに、魔術は万能というわけではないね」
ヴァロの手元を覗き込みながら、ヴォレラシアーは頷いた。
偉大なる竜の力に竜の魔法、そこにこの世にある魔術のすべてを足したとしても、ままならないことは多い。
神々でさえ万能というわけではないのだから、当然だ。
「だが、それでも魔術で解決できることはとても多い」
ヴォレラシアーがパチンと指を鳴らすと、暖炉の炎がゆらりと揺らめいた。
たちまち串に刺した鳥が勝手にくるくると回り始め、大きな匙が浮き上がって鍋の中を掻き混ぜる。
まるで、見えない人間がそこにいるようだ。
「ええっ!?」
驚くエリサに、ヴォレラシアーはますます得意そうに笑った。ヴァロはやれやれと肩を竦めて、ヴォレラシアーに後を任せてしまう。
ヴォレラシアーがひらひらと手を閃かせるのに合わせて瞬く間にスープが完成し、肉が焼き上がった。
「さあ、どうぞ」
スープを入れた椀がふわりと浮き上がり、エリサとヴァロの前に置かれた。こんがりと焼けた肉も、瞬く間に食べやすい大きさに切り分けられて皿に並ぶ。
目を丸くしながらそのようすを見守っていたエリサは、ふと、首を傾げた。
エリサとヴァロの分はあるのに、ヴォレラシアーの分がない。
「あの、ヴォレラシアーさんのは……?」
「君たちは嵐が止むまでここにこもらなければならないのだろう? 僕が君たちの貴重な食べ物を奪うわけにはいかないよ。
それに、竜は数日食べずとも平気な種族なのだ。気にせずともいい」
「でも、ヴォレラシアーさんが作ったのに」
エリサがヴァロをちらりと伺う。
「ヴォレラシアー殿、食料にはまだ余裕がありますから、ぜひ一緒にどうぞ」
「――そこまで言うなら、では、少しだけいただこうか」
エリサとヴァロの言葉に、ヴォレラシアーはうれしそうに笑うと、勧めに従って低い小さなテーブルの傍らに腰を下ろした。
食事を終えた後、すっかり日の落ちた外では未だ風が渦巻いていた。雨音はすっかり聞こえなくなったから、きっと完全に雪に変わったのだろう。
いずれにしろ、風がひどくなる前にここに来れてよかった。
そういえば、隙間風もあまり入ってこなくなったのは、壁についた雪が凍りついたからだろうか。
ヴァロが窓に近づくと、鎧戸をこんこん叩いて動かして、外側に張り付いた氷を落とす。氷で完全に塞がってしまうと、空気が淀んで息が詰まってしまうのだ。
エリサは暖炉に泥炭を足した。石炭ほど熱い火にはならないが、小さな小屋を温めるくらいなら十分だ。
「もう、“女王”はすっかり目が覚めたということかな」
外の様子を伺って、ヴォレラシアーがぽろりと溢す。
「そうですね。今年は半月ほど早いようだ」
ヴァロも小さく息を吐く。
エリサもガタガタと揺れる窓の鎧戸をぼんやりと見つめた。このようすなら嵐は数日続きそうにも思えた。
こんなに冬が早いのはエリサにとっても想定外だ。谷の冬越しの備えは間に合ったのか。町の皆はどうしているだろう。
「この風では、さすがの僕でも飛ぶことは無理だね」
「竜なのに?」
「竜でもだ。自然……世界の力というのはとても大きいものなんだよ」
「世界の力……」
ふうん、と頷いて、エリサは暖炉の火を見つめる。時折掻き回して、燃え尽きた灰を避けて、新しい泥炭を足して……赤く燃える泥炭がなかったら人間はたやすく凍って死んでしまうのも、世界の力が大きいからなのかなと考える。
「この嵐が過ぎた後は晴れるだろうね。陽光を浴びた“女王”の神殿はとても美しいんだよ。楽しみだ」
「神殿?」
エリサがきょとんと顔を上げる。ヴァロも興味を引いたように、ヴォレラシアーへと視線を向ける。
「そう。霜巨人が氷で作った“女王”の神殿で、なかなかによくできている。あの無骨な巨人どもが、よくもまあここまでのものをと感心せざるを得ないほどには美しいと、さすがの僕でも認めよう。僕は美しいものは美しいと認めることのできる、寛大な竜だからね」
「“女王”の神殿があるという噂は聞いたことがありますけど、霜巨人が作ったものだったんですか」
「北の果てには“女王”のお城があって、冬が来ると目覚めた“女王”がそのお城の奥深くにいらっしゃる――そう、神子様が話してたことがあるの。もしかしてお城ってその神殿のこと?」
興味津々といったふたりのようすに、ヴォレラシアーはにいっと笑った。良いことを思いついたという笑顔だった。
「では、君たちも連れて行こうか。せっかくの機会だ、僕の背にも乗せてあげよう。嵐さえ止めば、ここから一日か二日もあれば到着するよ」
ヴォレラシアーの提案に目を丸くして、ヴァロとエリサは顔を見合わせた。