雪嵐と来訪者
翌朝、明けた空を見上げて、ヴァロは「まずいな」と不機嫌に顔を顰めた。
「嵐になるかもしれない」
「え? 嵐?」
「ああ、向こうの空が暗いだろう? 嵐はいつも向こうの空から来るんだ」
まだ雪がちらちらと舞ってはいるものの、空は昨日よりも明るい。だから天候は回復に向かっているとばかり思っていた。けれどヴァロの示す方向を見て、エリサも同じように顔を顰めてしまう。
はるか彼方の地平には、黒い影のような雲がぶ厚く垂れ込めていた。
――秋の終わりを告げるだけの雪が、嵐まで伴ってきた。
濡れたままろくに広げることもできなかった衣服や荷物は、一晩経ってもまだ生乾きのままだった。革のブーツもグローブも、まだまだ湿っている。
このままここで嵐を迎えれば、吹雪に閉じ込められて動けなくなるどころか、凍って死んでしまうだろう。
予定よりも急いで、なるべく早く一番近い小屋へ行かないと――ヴァロに急かされて、エリサも慌てて荷物をまとめた。
いつもなら冷まして回収する燃え残りの練炭も、今日はその時間が惜しいとさっさと埋めてしまう。
「ここから一番近いのは……」
ヴァロはぐるりと周囲を見回した。
ここから一番近い小屋は、山に向かって一刻ほど歩いたところだ。
方角を確認して、ヴァロはエリサとフロスティに声をかけて歩き出す。
「エリサ、行くぞ。フロスティは食糧を頼む。多めにだ。この先の小屋で合流しよう」
フロスティは了承したとばかりにぐるると喉を鳴らし、走り出した。
エリサはその背中を見送って、すぐにヴァロの後につく。
「ねえ、ヴァロさん」
「どうした? 速すぎたか?」
早足に先を急いでいたヴァロが、少しだけ歩調を緩めた。たしかに息が切れそうなくらいの早足だったけれど、エリサは首を振る。
「フロスティって、ヴァロさんの言葉がわかるの?」
「ん? ああ」
フロスティはいつも人間と同じくらいヴァロの言葉を理解して行動する。
エリサが知る限り、どんなに賢い牧羊犬であろうと、動物が簡単な命令以外の言葉を細かく聞き分けて行動するなんて無理なはずなのに。
「野伏には、動物と言葉を交わすための魔法があるんだ」
「魔法? 野伏って魔法使いなの?」
「少し違うな。この世界には魔法があふれているだろう? 野伏はその力を借りて、ちょっとだけ魔法みたいなことができるんだよ」
「ちょっとだけ……」
「そう、ちょっとだけ。だから魔法使いほど便利なこともすごいこともできないけど、フロスティと話すくらいならなんとかなるんだ」
「ふうん?」
どうにもピンと来なくて、エリサはやっぱり首を傾げる。
「エリサにも少しずつ教えていくから、楽しみにしているといい」
「私も? 野伏の魔法を?」
「エリサは野伏になるんだろう? 野伏の魔法を覚えれば、グラートと言葉を交わせるようにだってなれるよ」
「グラートと!?」
グラートは今日もエリサのマントの中だ。布に包まれて赤子のように丸くなって抱かれている。もちろん、グラートが鳴いたところで、エリサには餌を欲しがっていることくらいしかわからない。
そのグラートと、話ができるようになる?
驚きに目を瞠るエリサに、ヴァロがくすりと笑った。
「ほら、急ごう。嵐が来る前に小屋に入らないとな」
「はい!」
また足を速めるヴァロに合わせて、エリサも速足になる。目の前に伸ばされた手を握ると、ヴァロはぐいぐいとエリサを引っ張って進んでいった。
* * *
小屋に到着する頃には、黒雲が背後にまで迫っていた。風もどんどん強まって、今では細かな雪を壁に叩きつけるほどになっている。
湿ったマントもブーツも氷のように冷たくなって、このままあと半刻も外にいたら、きっと身体の芯まで凍りついてしまっただろう。
小屋の扉の前に獲物を積み上げて、フロスティは風を避けるように丸くなって待っていた。
無事にフロスティと合流できたことにエリサはほっとする。ヴァロも「よくやった」と表情を緩めてフロスティの頭を軽く撫でると、扉を開けた。
小屋に入るとすぐに、さらに風雪が強まっていった。
この天候では水を汲みにいくのは無理だと、ヴァロは水瓶を外に出して雪を溜めることにする。エリサはいつものように泥炭で火を起こして部屋を暖める。それから、ロープを張って湿ったままの衣服や荷物を広げた。
フロスティが取ってきてくれた獲物は、ヴァロが簡単に内臓や毛皮を処理して外に吊るした。凍らせてしまえば数日はもつからだ。
エリサも湯を沸かしながら、ヒヨヒヨと餌をねだるグラートに肉を与えた。
小屋にいれば、しばらくの間は燃料と天候で困ることはないだろう。水も、雪を集めればなんとかなる。
食料は心配だが、ふたりと一頭と一羽なら今日から数日は大丈夫のはずだ。
慌ただしくあれこれを片付けて、必要なものを確認して、ヴァロとエリサはようやく息を吐いた。
この嵐なら、長くても三日ほどで通りすぎるだろう。
「おや、やっぱり先客だ」
「え?」
ガタガタ揺れる扉がいきなりバタンと開いて、冷たい風が吹き込んだ。
ヴァロもエリサも驚きにパッと顔を上げた。フロスティもあからさまに警戒し、背中の毛を逆立てて牙を剥く。
――が、「すごい風だねえ」などと呑気な言葉と共に入ってきたのは、どこからどう見ても軽装の妖精だった。冬用のマントも身につけず、ろくな荷物も持っていない、単なる長衣姿の妖精だ。
ヴァロもエリサも突然の訪問者を呆気に取られた顔で見つめた。
どうしてこんな場所にこんな妖精がいるのかはわからない。イェルハルドが普段来ている長衣に似ているから、もしかしたら妖精の魔術師なのかもしれない。
妖精はふたりの様子に頓着することなく長衣の雪を払い、「まいったまいった」と肩を竦めた。
「この雪嵐だろう? 偉大なる美しき天のものであるさすがの僕もちょっと困ってね。しばらくどこかで休もうかと思ったら、ここに灯りが見えたんだ。誰かいるならご相伴させてもらおうかと思ってね」
長衣のフードを下ろすと、輝くような銀の髪が流れ落ちた。この北の果てでもあまり見ない、見事な銀色だ。
「あの……あなたは?」
戸惑いながら問うエリサに、妖精はにっこりと笑う。
その横で、ヴァロは大きく目を見開いたまま、まるで凍ってしまったかのように身じろぎもせず……気づいたエリサの眉尻が、不安げに下がっていく。
「僕は通りすがりの妖精の魔術師だよ。ヴォレラシアーと呼んでくれればいい」
「な、なんであなたが……」
エリサとヴァロを交互に見て片目を瞑る妖精に、ヴァロはやっとのことでそれだけを言葉にした。
「ヴァロさんの知り合いなの?」
「実のところ、僕は有名人でね。この辺りの野伏なら僕のことを知っているかもしれないね。ましてや、森妖精の血筋なら間違いなく知っていると思うよ」
ヴァロの代わりにヴォレラシアーが答えると、ヴァロがごくりと喉を鳴らした。エリサは不思議そうにふたりを見て、それからヴォレラシアーに声をかける。
「寒かったでしょう? お茶はいかがですか?」
「ありがたい、いただこう。そういえば、君はひょっとして氷原の民の娘さんかい? 珍しいところにいるんだね」
「そう……なんです。ええと、今は町の民になったんですけど、前は、“北爪谷の民”でした」
「なるほど――そういえば、“霧氷の町”の領主が、戦いの和睦のために氷原の娘と結婚したって聞いたなあ」
ヴォレラシアーが納得顔で頷くと、ようやく気を取り直したヴァロが「そんなことよりも!」と声をあげた。
「あなたこそ、どうしてこんなところにいるんです!? 雲の宮殿から氷原側に降りてきているなんて、まさか何かあったんですか!?」
「ヴァロさん?」
「特段のことは何もないよ。降りてきたのは毎年の恒例行事のためさ」
「恒例?」
「そう。毎年“女王”が目覚める頃に、霜巨人の長と挨拶を交わす約束になってるんだ。昨日から急に気温が下がり始めたから、そろそろだなと思って降りてきたんだよ」
ヴォレラシアーの「霜巨人」という言葉に、エリサはハッとする。
“谷”のおばあや神子は、氷原の北の果てにある凍れる海と氷しかない地には“女王”の宮殿があり、霜巨人が護っているのだと話していた。
だが、神々は神々の世界に住むものだし、氷鬼ならともかく、霜巨人もただの御伽噺の生き物なのだろうと思っていたのだ。
「霜巨人て、本当にいるの?」
「もちろん。人間たちの住む地域まで来ることはほぼないけどね」
エリサは目を瞬かせる。
ヴァロがコホンと咳払いをする。
「どうしてあなたがわざわざ巨人族のところに?」
「それは、この偉大なる美しき天のものである僕の城に、巨人族などという乱暴な輩を招きたくないからだよ。せっかく僕が僕の気にいるように美しく整えているんだぞ。やつらの乱暴な振る舞いで汚されたり、ましてや壊されたりしては堪らないだろう?
ゆえに、僕自らが赴いて挨拶くらいしてやろうと譲歩したのだ」
得意げに顎をそらすヴォレラシアーに、ヴァロからは「はあ」と気の抜けた返答しか出てこない。
ヴァロの袖を、エリサがくいくいと引っ張った。
「ヴァロさん。ヴォレラシアーさんて……?」
「ああ、エリサは北壁山脈――町からも谷からも見えるひときわ高い山の頂にある、雲の宮殿の話を聞いたことはあるかい?」
「おばあが話してたと思う。壁の山の一番高い山の上には、雲を編んだ美しい宮殿があって、選ばれたものしか招かれることはできないって」
「彼はその宮殿の主人、銀の鱗を持つ偉大なる古竜、“美しき天のもの”ヴォレラシアー殿だ」
「――え?」
思わずヴォレラシアーを振り向くと、煌めく深い青の目を細めてヴォレラシアーがにいっと笑った。
「え?」
もう一度ヴァロを見ると、やれやれと肩を竦めた。
ヴォレラシアーさんは「偉大なる美しきもの」と名乗る時、ほんのりとドヤ顔しています。
わりと自意識高めです。





