ほんとうに不思議
エリサは赤く燃える練炭を、ぼんやりと見つめる。
ヴァロは黙ったまま、エリサの言葉を待った。
「でもね、領主様に妻はひとりしかいらない、パルヴィ以外とは結婚しないって言われて、じゃあどうすればいいんだろうって……どうしていいかわからなくって、途方にくれたの。
まさか、領主様の妻になれないなんて、考えてもみなかったから」
イェルハルドなら――もし“谷”の使者たちに押し切られ、五人全員を妻に迎えていたとしても、きっと酷いことにはしなかったろう。きっと……おそらくは機を見て、全員が正当な処遇のもとにあれるよう整えただろう。
そのくらいには良識的な人物だと、ヴァロは考えている。
それに、領主は良識あるユースダール家の人間なのだ。万が一、妻を五人も抱えたままでいたら、実家も黙っていないはずだ。
「でも、それから、結婚のことは自分で決めなさいって領主様が言って、教会に来る“町”の人に聞いたら結婚なんてしたくなってからすればいいって」
領主の館を訪ねた際、パルヴィは、エリサの母はエリサしか子供を産めなかったのだと言っていた。
“谷”、つまり氷原の民の間では、息子を産まなかった妻はとても肩身が狭いのだという。妻たちの順列の下位に置かれ、夫もあまり顧みなくなるのだと。
「結婚はしたくなったらすればいいっていうのは、つまり、したくなかったらしなくてもいいってことでしょう?」
エリサは、自分の母の姿に、自分の将来を重ねたのだろう。
“谷”だろうが“町”だろうが、一般的に娘は母に似るのだと言われる。
結婚したところで、エリサも母と同様に息子は産めないかもしれない。息子が産めなければ、エリサも母のように縮こまって生きていかなければならない。
パルヴィの話からも、エリサはそう考えているように伺えた。
「だから自分が戦士として強くなればいいと考えたのか」
「領主様が好きなことをしていいって言ったもの。それに、私はもう“谷”に戻ることはないんだから、神子の教えじゃなくて町の教えに従うの」
エリサはどこか思い詰めたように、赤い火をじっと見つめる。
また、ヴァロの手がポンとエリサの頭を叩いた。
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ」
「気負う……?」
「エリサに誰かが何かを強要することはない」
見上げるエリサに、ヴァロは頷いた。
「もちろん、町の法や道徳を守らないのは困るよ。でも、エリサが考えるとおり、エリサのことはエリサ自身が決めていいんだ」
ヴァロの声は低く、エリサの耳に優しく響く。
「エリサは野伏になると決めて私の弟子になった。私はエリサが一人前になれるよう、しっかりと教える。きっとだ。約束する」
「――うん」
上着の下でもぞもぞと身動ぎをするグラートをそっと抱え直すと、エリサは小さく頷いてほっとしたように吐息を漏らした。
「ヴァロさんも、領主様も、馬鹿なこと考えるなって言わないんだね」
「馬鹿なこと?」
「女なのに戦ったり、狩りをしたり、結婚しないって言ったり……“谷”ならきっと、頭がおかしくなったんだって、追放されるもの」
「うーん……私は別に“女王”を信仰しているわけではないからなあ。
私が敬愛するのは“森の女主人”だけど、“森の女主人”ご自身からして凄腕の狩人なんだ。女性が狩りをしたからといって“森の貴婦人”にとっても私にとっても普通のことでしかないんだよ」
「女神様なのに、狩りをするの?」
「そうだよ。“森と狩りの女神”なんだから、当然ね」
ふうん、とエリサは首を傾げた。エリサはもちろん“冬と氷の女神”しか知らない。“女王”以外に神がいるなんてことも想像すらしなかった。
「神様って、たくさんいるの?」
「もちろん。町に、戦神と地母神と太陽神の教会があるのは知っているね? それから“森の女主人”と――他にも私が知っているだけで、知識の神や商売の神、愛の女神に美の女神、竜たちの信仰する皇竜神と邪竜神もいる。海や旅の神もいるな」
「そんなに?」
「もちろん、私の知らない神はもっとたくさんいる」
驚きに目を瞬かせるエリサに、ヴァロはくっくっと笑う。
「そんなにたくさんいたら、どの神様を信じるかって迷ったりしないのかな」
「たいていの人々は、その時その時、自分の都合に合う神様に祈るんだよ。戦いに勝ちたい時は戦神に祈って、病気にならないようには太陽神に祈って、とね」
「そんなにいろいろ祈って大丈夫なの?」
「神様たちがどこまで祈りを聞いてくれるかは、祈った者の信仰心によるだろうな。そもそも一柱の神様だけを選んで真摯に祈るのはたいていが聖職者で、だから聖職者は皆、神術の行使を許されてるんだよ」
「“谷”の皆は“女王”にしかお祈りしないよ。でも、“女王”のお声が聞けるのは、神子だけだった」
「そりゃ、聖職者になるためには、信仰心の他に修練も必要だからね」
「ふうん」
それじゃ、地母神教会の司祭に弟子入りしたタラーラは、そのうち地母神の聖職者になるということなのか、とエリサはぼんやり考える。
地母神は結婚の守護女神だというけれど、タラーラは誰と結婚するのだろう。
「――ヴァロさんに妻はいないの?」
「え?」
なんとなく気になって尋ねてみると、ヴァロが面食らったような声を上げた。
「いや、私は未婚だけど、どうしてだい?」
「ヴァロさんも結婚したいと思わなかったから、結婚しなかったの?」
「ああ――そうだなあ、独り立ちしてからはほとんど氷原を歩いていたし、結婚したいと思う相手もいなかったから、かな」
「じゃあ、ヴァロさんは息子がほしいとかも思わないの?」
「思わなかったというより、考えたことがないというのが正解かな。ひとりでも十分なまま、あまり必要も感じずに今日まで来たというか……」
「ふうん」
「――ああ、もうすっかり雪に変わったみたいだ」
ヴァロが外の様子を伺って、話題を変えるように呟いた。
気づくと、外はしんと静まりかえっていた。時折パチンと炭のはぜる音とフロスティがゴロゴロと鳴らす喉の音、それからエリサとヴァロの呼吸と身じろぎの音しかしない。
「今日はこのまま軽く食べて早く休んで、明日は早いうちに小屋へ行こう」
「はい、ヴァロさん」
「火の番は、私、エリサの順で……少々隙間風が入るから大丈夫だと思うけれど、換気は十分気をつけて。時々天幕を叩いて雪を落とすんだ」
「わかった」
ようやく暖まった手足を伸ばして、姿勢を変える。あまり長く同じ姿勢でいるのは、身体によくないからだ。
夕食は簡単にと言ったけれど、それでも一品は温かいものがないと、身体が冷えてしまう。お湯を沸かして簡単なスープを作って、それから、作り置いた“癒やしの実”と焼き固めたパンで済ませた。
ヴァロの言葉どおり、最初にヴァロが火の番をして、夜半を過ぎたところでエリサに交代する。氷原に出るようになってから毎日繰り返したお陰で、エリサももう火の扱いはお手のものだ。
相変わらず外は静かだ。狼の吠える声も聞こえてこない。突然の悪天候のせいで、動物たちもさすがに出歩いたりしないのか。
時折、わざと開けてある小さな隙間が塞がらないよう、火の近くの天幕を叩いて凍り付いた雪を落とす。火を焚いている時は絶対に隙間を作らないければいけないと、ヴァロに叩き込まれている。
火を焚いている間は外からの風を絶やしてはいけない。風を絶やせば火の精に息を奪われて死んでしまうのだ――と、おばあが語るのを、エリサもしょっちゅう聞かされていた。
ヴァロが同じような話をすることに少し驚いたけれど、おばあの話は嘘じゃなかったということだろう。
――“谷”では“強い息子”を持つことが立派な戦士である条件のひとつだった。
身体が丈夫で多産な妻はそのために必要で、だから多産でない母を持つ娘や身体の弱い娘は、たいていの場合「それでもひとりくらい子供は産めるだろう」という“お情け”で下位夫人として迎えられるものだった。
“町”との戦いがなければ、エリサもそういう下位夫人のひとりとして、どこかの戦士に娶られていたはずだ。
それなのに、どこかの戦士の下位夫人になることもなく、“町”の領主の妻になることもなく、武器を持って冬の最中に氷原を歩き回るようになるなんて、本当に不思議な気持ちだ。
毛布に包まって、背中をフロスティに預けて横になるヴァロを、ちらりと見る。
戦士になるのは無理だ、野伏になれと言われた時は絶望しかなかったけれど、今になって思えばそれでよかったと思えることも不思議だ。
騎士長ニクラスもブレンダも、エリサが考えるよりもずっと、エリサをきちんと見て考えていてくれたということだ。
そのことに思い至って、エリサはほんのりと笑みを浮かべた。