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敗戦

 その大きな聖堂はすべてが氷でできていた。

 聖堂を作り上げているものは、氷だけではない。さまざまな彩りの水晶に雪豹や雪熊の白い毛皮、天井を透かして差し込む陽光に輝く雪片。ひときわ高くなった天井には、美しく輝く薔薇窓の直下には……本来なら祭壇があるはずの場所には、大きな大きな氷の玉座があった。

 玉座に座すのは、この北方氷原を統べる冬と氷の女神“氷原の女王”である。

 氷柱を連ねた長い髪にを背に流し、渦巻く吹雪をドレスか長衣のように纏い、雪の結晶が重なりあいきらめく宝冠を頭に乗せ、つるりとした氷の仮面のような顔の女神だった。

 自身の守護する氷原の冬のように厳しく冷徹な女神は、目の前に立つエリサにひと言問うた。


【なぜ、そなたはここにいる】


 叩き付ける氷のように冷たく重い声だった。

 エリサは思わずごくりと喉を鳴らした。ちらりと視線を上げて伺うと、女王に見つめ返されたような気がした。


【――娘よ。そなたは氷原の民と名乗ったが、なぜ、ここにいる】

「あの……」

【家を守り、次代の強い戦士を育てるのが女の役目。そなたらの育てた戦士はやがて(われ)下僕(しもべ)として妾のために働こう。

 そうして、氷原は回っていくのだ】

「それ、は」

【なのに、なぜ、そなたはここにいる。なぜ、氷原の掟を守らぬ。なぜ、妾の決めた掟に従わぬ。

 そなたら氷原の民は、すべてが妾に従い妾のために生きるものだというに】


 エリサは大きく目を瞠り、血の気を失った顔で女王を見上げた。



 * * *



 小さく溜息を吐いて指笛を鳴らした。

 ピィッと響く合図に、犬はすぐに駆けだすと羊の群れをまとめ始める。

 羊たちが犬の導きどおりに動き出すのを確認して、エリサは傾き始めた太陽をちらりと一瞥すると、また溜息を吐いた。


 昼の時間はずいぶんと短くなって、雲も多くなった。そろそろ夏は終わり、短い秋が来る。

 秋が来れば冬はすぐそこだ。最初の雪が降るまでもうあとひと月半もあるかどうか……冬と氷の女神である“氷原の女王”が目覚めれば、この北の地の何もかもは雪と氷に閉ざされ、真っ白に染め上げられてしまう。

 なのに、戦いはまだ終わらない。




 今年は収穫の多くない年だった。

 針葉樹の森で採れる木苺類(ベリー)も木の実も不作だったし、子羊もあまり多く産まれなかった。おまけにせっかく産まれた子羊の育ちも悪かった。

 毎年たくさん採れるはずのきのこも、常の半分くらいだ。

 いつもなら冬を前に東から移動してくる“大角鹿(ムース)”や馴鹿(トナカイ)の数も多くなかった。河口の氷が多く残っていたせいか、川魚(トラウト)の戻りも悪かった。


 何より、ふたつ前の夏にあった“雪豹平原の民”との諍いのせいで、平原での狩りがままならなかったことも大きい。

 今年の冬はどうにか越せたけれど、次の冬越しはもっと厳しいだろう。


 十数年あまり前、山向こうから来た者たちが“谷”の西に“町”を作った。

 “町”に住む者たちは皆、“谷”の戦士たちよりもひ弱で――そこでなら“平原”を襲うよりもたやすく冬越しのための燃料も食料もたやすく手に入れられるのではないか。


 春が来るなり“北爪谷(ほくそうこく)の民”が“町”を襲撃したのは、そういう理由だった。




 エリサはもう一度指笛を吹いてゆっくり歩きだした。その脇をすり抜けるように、たくさんの羊たちが犬に追われて走る。

 集めた羊たちを日暮れ前に小屋に戻して、今日は終わりだ。

 今年の冬はいつもより多く羊を潰さないといけないかもしれない。ただ、そうしてしまえば来年がさらに厳しくなってしまう。もしかしたら、“谷”の民はこのまま先細りに絶えていくのかもしれない――



 * * *



「エリサ、エリサ! 戦いが終わったって、それで――」


 報せが齎されたのはその夜だった。

 長が、戦いをやめて“町”の提示した和睦を受け入れると決めたのだと、ボロボロになった父と異母兄から知らされたのだ。


 先代の長が戦死して、その長子も次の長となる前にすぐ戦死して、繰り上がりで長の次子が新たな長になって――それから、まだひと月も経っていなかった。

 今の長は戦いを好まない臆病者だとずっと揶揄されていた。戦い続きで先代の長とその長子の両方が死んでいなければ、彼が長になることはなく、戦いは冬になっても続いていただろう。


 けれど、もう“谷”の強い戦士は半分が死んで“女王”の元へと行ってしまったし、弱い男はもっとたくさん死んでしまった。

 このまま戦い続けたら、“谷”は女と子供を残して男は全員死ぬことになっていただろうと、エリサにだって想像できる。


「それでね、エリサ……お前を、“町”の長に渡さなきゃならないの」

「――え?」


 ごめんねエリサ、という母の言葉に、エリサは瞠目して息を呑んだ。

 北方氷原の民なら、負けた側から嫁入りに適した年齢の娘を数人、相手の長に差し出すのが戦いの後のならわしだった。

 負けた側から勝った側の繁栄の礎として、貴重な財産である娘を差し出すことで和解を成す。そういう考え方だ。


「でも、私、そんな……」

「娘の数が足りなくて、だからって。でもねエリサ、お前が行くことになれば、うちに配慮(・・)してもらえるんだって」


 配慮。なるほど、とエリサは考える。


 母は娘のエリサしか子供を産めなかった。

 けれど、敗戦の贈り物として娘を差し出せば、我が家に冬越しの食料や燃料を“配慮”してもらえるという。

 それに、エリサが“町”へ行けば少しだけ冬越しも楽になる。おまけに、娘しか産めず肩身の狭かった母も、その娘が役に立つことで少しだけ面目が立つのだ。


「うん……わかった。私、“町”に行く」

「エリサ……」


 ごめんね、と母は何度も呟きながら泣いた。

 けれど、考えようによっては悪くないのかもしれない。

 “町”の長は恐ろしい魔法使いだというけれど……少なくとも、“町”は“谷”より豊かなのだ。贈られた妻を凍えさせたり飢えさせたりするようなことも、さすがにしないだろう。“配慮”が約束されたなら、母も家族もこの冬を飢えずに越せるのは確実だ。


「母さん、第一夫人は誰になるの?」

「たぶんパルヴィね。長の妹の」

「なら、安心だね」


 苛烈な娘が第一夫人なら下位の夫人の立場は苦しいものになるけれど、パルヴィはそうじゃない。下位夫人のことも悪いようにはしないだろう。

 エリサは少しだけほっとした。


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