1-10 神よ
「顔を隠しているのがもったいないくらい、美しいです……」
「嬉しいけど、あんまり見ないで」
「ご、ごめんなさい……」
口元や角を手で隠し、きゅるんとした瞳をミミリーに向けた。
「まさか、あんたにそういう趣味があるなんてね」
「し、趣味とかじゃ……」
「別にいいけどさ。これで満足?」
「は、はい……。でも、できれば私の前だけでいいので、ずっとそのままで、いてくれませんか?」
「このまま?」
「はい……。リィナさんの目を見て、話したいのです」
「そう……。わかったよ」
「ありがとうございます!」
ミミリーは目を輝かせて、リィナの手を握った。感激の表情を見せて、まるで頭突きをするかのような勢いで顔を近づけてくる。
鬱陶しいなと、顎を引いて彼女を見下し、軽蔑の眼差しを向ける。
「あんたの願いは聞いた。だからあたしの願いも聞いてくれる?」
「それはもちろんです! 何でも言ってください」
「じゃあ、どうしてあんな復讐心を持つようになったか。つまりどうして人間を殺したいと思うようになったか。……そして、誰を殺したいか。包み隠さず教えてほしい」
ミミリーは、笑顔を一瞬で引っ込めた。
長い耳は少し垂れ、虚ろな目をして洞穴の壁を見つめていた。わずかに険しい表情を見せ、次に唇をきゅっと結んだ。
疑う余地もないほど葛藤している。
リィナは待ち続けた。ミミリーが自ら口を開くまで。
あんなことを吐き出してしまった後だ。こんなところで口を噤んでしまうなんて考えにくい。
こうやって待ち続けていれば、きっと口を開いてくれる。
「……私は、フレゼリシアのある有力貴族の家系に生を受けました」
静謐なささやき声で、まるで誰にも聞かれたくないような独白にも似た声色で。膝を抱え、下を向きながら彼女は語り始めた。
その語らいを、リィナは足を崩し、壁に寄りかかって聞いた。
百余年前に、大陸の北方で勃興したフレゼリシア王国にて、二代国王の摂政を務め、それからも政治に大いなる影響を与えてきたヨルゲンセン家で、七代目当主の候補となりえたのが、ミミリーその人であった。今から十五年前に生まれた彼女は、母アロイスの腹から顕になったときから、立派なラパンの耳を生やしていた。
顔立ちは母に似て、大きな瞳に紅潮した可愛らしい頬。
か細い声で産声を上げて、ここにいると母と父に訴えかけた。
だが父は目を細めた。小さき命を見つめた後、アロイスを見た。
この子は自分の子ではないと直感したのは、人間の両親からラパンの子供が生まれてくるはずがないという至極当然の常識が父にはあったからだ。
「なんだ、なんなのだこれは!」
医師と父が、アロイスを見つめる。彼女はミミリーを大切に抱き、二人を牽制した。
「これは人間じゃない! なぜ貴様はこんな子供を産んだのだ! 答えろアロイス!」
「だ、旦那様、落ち着いてください……!」
「関係ない者は黙っていろ! おい! アロイス!」
「これは、私の、過ちです……」
「過ち……? 貴様、まさか不義を働いたというのか! この誉れ高きヨルゲンセン家に嫁いだ身分が?!」
「その通りです……。何の言い訳もしません。でも、この子には何の罪もないはずです! どうかこの子だけは、この子だけは!」
アロイスは赤子を大事そうに抱きしめ、鋭い眼差しで睨む。
「貴様ぁ! こんな忌み子、殺してやる! それを私に渡せ!」
赤子の長い耳を引っ張り、奪い取ろうとする。鬼の形相で、地獄に落としてやらんという面持ちだ。
「やめて、やめてくださいッ!」
「そいつを早く渡せ!」
掴みかかる大きな手から逃げるように赤子を守り、窓際のテーブル横に立った。
外には深い霧がかかり、窓には吹雪が打ち付ける。屋内もひどく寒く、汗の染み込んだ薄い服が肌に張り付いて、凍えてしまいそうだった。出産の苦痛で体力が限界だ。でも、この子だけは守らなければならない。他でもない、自分の子供だから。
テーブルの上にある、空の瓶を掴んだ。
「神よ……! 神よ許し給え!」
「な、何を──」
「そこで、母は父の頭を殴りました。その時、破片が私の耳に掠り、深い傷が今でも残っているんです」
ミミリーは右耳に残る切り傷を指さした。
リィナは彼女の口から話を聞くだけだが、当時の痕跡をこの目で見ると、生々しいアロイスの記憶が残滓としてリィナの脳裏を過ぎる。
「もうこの傷は痛みませんが、でも母の気持ちを考えると、心臓がきゅっと痛んで、死んでしまいそうになるくらい苦しくて」
「……言い難いけれど、悪いのはどっちかって言うとアロイスさんじゃ」
「たしかにそうかも知れません。でも、他の人に恋心を求めざるを得ないような、理由が母にはありました」
「理由?」
「両親は、いわゆる政略結婚だったんです。父は複数の女性を嫁がせ、支配していました。……一番のお気に入りが私の母で、同時に一番の加虐対象でもあったのです」
「加虐……」
「それは、時に子供にまで及んでいました。人間の子供でなかったら、そのときはふたりとも殺されると、母は悟ったのでしょう……」
「やられる前に、やるしかなかったんだ」
血みどろが広がり、二人の大人がびくともせず突っ伏すその床を見て、アロイスは途方もない後悔に暮れていた。
今すぐこの場で自分もこの子も一緒に苦しまず死ねたら──。なんて思いながら、膝から崩れ落ちて愛しき我が子をただ抱いていた。
気づけば彼女は屋敷を飛び出していた。眠ったままの資産も、片付けるべき公務も全て放置して。赤子に暖かい布をかけて、吹雪の中覚束ない足取りで彷徨していた。
アロイスは凍えながらも、三日三晩歩き回った。全ての動物が凍るなんて冗談で言われるフレゼリシアの極寒を耐え凌ぎ、やっとのことでそこに辿り着いたのだった。
ユートランド北東に位置する首都から遠く離れた、田舎道の途上にある納屋に駆け込んだ。
もう誰も使っていないであろう場所だった。草臥れた藁がそこら中に散らばり、天井からは雪解け水が滴る最悪の環境であったが、体に打ち付けひりひりと痛む吹雪から逃れられるならもうなんでもよかった。
湿っていなさそうな床を探し、赤子をそこに寝かせてから顔を覗き込んだ。
「ミミリー」
決死の逃避行を敢行している間に命名したのが、それだった。喉の奥も凍ってしまうほど冷たかったから、優しく語りかけてあげられたかわからない。
すっかり眠った我が子の頬を優しく撫で、愛しき小さな存在を恍惚とした表情で見る。
「あなただけは、絶対に死なせないわ」
「それから八年間。私はあの小さな納屋で母と過ごしました。お腹が空いても、凍えても、眠たくても。どれだけ辛くても、母が慰めてくれました。母が一番辛かっただろうに、私を、気遣ってくれたんです」
「いい、お母さんだね」
「自慢の母ですよ。だから、許せないんです」
「……八年経って、何があったの」
「遂に見つかってしまった母と私は、首都に連れられました。母は公開裁判にかけられ、傍観者から冷酷な視線を浴びせられました。母の親族はもはや母を自らの血縁者だと認めず、私を忌み子だといって殺そうとまで言ったのです」
「それで、除け者にされたと」
「母は、裁判の後火刑に処されました。五歳だった私の見る前で」
「生きたまま、焼かれたんだ」
「姦淫も殺人も、許されざる蛮行であることは認めます。でもそんな結末を招いたのは、母の親族。つまりは私の祖父母や叔父叔母にあたる人物。そして、身勝手に結婚をさせ最期は火刑を見物して楽しんでいたフレゼリシアの公爵。彼らが、私の憎む者たちです」
ミミリーの手は、小さく震えていた。寒さからではなく、殺気から来ているのは明らかであった。
「殺して、やりたいんです」
「協力するよ。あたしで良ければ」
「ほ、本当ですか!?」
「もちろん。結局、最終地点は違えど中間地点は重なってるから」
「それってどういう……」
「あたしは、世界を変える。たとえ大勢を殺したとしても」
リィナは当惑するミミリーに、澄ました顔で言い放った。あたかも明々白々と言いたげな顔をして、そう言ったのである。
「あたしは人生を投げ出してもいい。あたしはなんと罵られようと構わない。仁義も人道も必要ない。ただそこに、サナトスとしての高潔さがあればいい。あたしは夢見てる。龍が支配するあの世界を、もう一度作り出すその刻を。龍の復権を成し遂げるためなら、あたしは殺戮だって躊躇しない」




