79 【ヴィクトリア視点】転機
「な、何ですの貴女!」
ミラベルが悲鳴じみた声を上げる。
静かにドアを閉めたクリスティンは、落ち着き払った動作でこちらに近付き、ミラベルに向かって優雅に一礼した。
「突然申し訳ありません。私も無関係ではありませんので、お邪魔させていただきました」
口調も動作も丁寧だが、異様に整った笑顔には無視できない威圧感がある。
背中に冷や汗が浮いた。
(滅茶苦茶怒ってる…!)
…と言うか、今の状況をどこで知ったのか。
ジュリアにでも聞いたのだろうか…?
呆然としているうちに、クリスティンはこちらへ向き直った。
「ヴィクトリア」
「は、はい!」
思わず姿勢を正してしまう。
クリスティンは一瞬きょとんとして、その後ふわりと笑った。
威圧感が霧散する。
(あれ…?)
いつもと雰囲気が違う。
戸惑うアタシの前で、クリスティンは静かにこちらを見詰めた後、
「…遅くなって申し訳ありません。昨日の言葉の返事をさせてください」
流れるような動作でその場に片膝をつき、アタシの右手を取り、こちらを見上げる。
(昨日の、返事って──まさか)
脳裏に浮かんだのは、昨夜の醜態。
思考が一瞬で現実に戻る。
クリスティンの立場と、貴族社会の一般的な価値観と、周囲の目と──どう考えたって叶うはずの無い身勝手な願いを、アタシはクリスティンに告げた。
…まさか、今、この場で振られる?
「──どうか私の隣で、生涯を共にしていただけませんか?」
「え──」
場が静まり返った。
アタシの手を取り、跪いているクリスティンの姿は、深窓の令嬢に求愛する騎士さながら。
芝居掛かった仕草と口調に、何かの冗談ではないかと一瞬思う。
だが──その目は思いのほか真剣だった。
よく見ると耳が赤い。
私の手を取る左手は、わずかに震えている。
──私の隣で、生涯を共に──
その言葉の意味が、ようやく頭に入って来た。
(本当、に…?)
ゆっくりと、胸中に嬉しさが湧き上がって来る。
普通の男じゃないから。社会的に許されないから。
そう思って諦めていた──諦めたのだと自分に言い聞かせ、蓋をしていた思い。
酔いに任せて漏らした本音を、クリスティンは掬い上げてくれた。
「──ありがとう、クリスティン」
今、上手く笑えているだろうか。
泣き出しそうなのを必死で堪え、声が震えないようにと願いながら応える。
「勿論よ。どうかアタシを、貴女の隣に居させて頂戴」
精一杯の笑顔で頷くと、クリスティンはホッとしたように笑った。
「ありがとうございます、ヴィクトリア」
クリスティンが立ち上がり、目線を合わせて笑い合っていると、
「な、な、な……」
(あ)
…すっかり忘れてた。
振り向くと、ミラベルは紅潮した頬に両手を当て、喜色満面で目を輝かせて──
──いや、何で?
アタシがぽかんと口を開けるのと、黄色い悲鳴が上がるのは同時だった。
「──なんてこと!!」
元々明るい子だが、これはちょっと今まで見た事の無いテンションだ。
「素敵ですわ! 素敵ですわ!! なんて場面に立ち会ってしまったのかしら!!」
その場で跳ねて上半身をもじもじとくねらせている。
とても楽しそうな顔が一周回って怖い。
「え、えっと、ミラベル…?」
「…ハッ!?」
声を掛けると、ミラベルは目を見開いて動きを止めた。
そして何故か、アタシたちに向けて拳を握る。
「大丈夫ですわ、ヴィクトル様! こうなれば私、お二人の立会人として、お二人の王都凱旋を全力サポート致します!」
「…いや、凱旋しないから」
「ええっ!?」
思わず素で否定したら、ミラベルは驚きの声を上げる。
クリスティンが首を傾げた。
「…ミラベル様、ヴィクトリアが『ヴィクトル・ヴァイゼンホルン殿下』だと、どなたから聞いたのですか?」
あ、もう平静に戻ってる。
…アタシはまだドキドキしてるのに。
何となく納得がいかないが、今は確かにミラベルに間違った情報を吹き込んだ相手が誰なのか確認する方が先決だ。
市長では無いだろう。
彼はアタシが王家に戻る気は無い事を知っている。
ミラベルは即答した。
「私の叔父様──ハミルトン・オルコット子爵ですわ」
瞬間、クリスティンの気配が冷える。
「…なるほど」
あの阿呆か、と唇の動きだけで呟いているところを見ると、名前に心当たりがあったらしい。
ハミルトンはアタシが王宮に居た頃、文官として働いていた。
クリスティンも王宮文官時代に会ったことがあるのだろう。
…様子を見る限り、あんまり良い思い出は無さそうだけど…。
「──オルコット子爵は、先の大規模汚職事件で横領に関わったとして検挙され、処罰される予定になっています。ご存知ですか?」
「えっ!?」
良い思い出が無いどころじゃなかった。敵だった。
ミラベルは目を見開き、どういうことですの?と呟く。
「叔父様が? でも、昨日はそんな事一言も…」
「一言もって…ミラベル、昨日オルコット子爵と話したの?」
王都からこの街までは乗合馬車で1週間ほど掛かる。
ハミルトンが王都に居るなら、ミラベルと話が出来るはずが無い。
アタシが訊くと、ミラベルは困惑した表情で頷いた。
「叔父様は今、我が家に滞在されているのです」
「…オルコット子爵がこちらに来た理由について、市長──お父上からは何も説明が無かったのですか?」
「はい、特には…『あまり接触を持たないように』とだけ言われていて…」
「ええ…」
あまりに呑気な発言に、脱力感を覚える。
…あまり接触を持つなと言われた相手と話をして、その話を信じてギルドに突撃して来たわけね…。
良くも悪くも素直なお嬢様だ。
王都の貴族にとっては大変御しやすい相手だっただろう。
…何て面倒な。
肩を落とすアタシの隣で、クリスティンが眉間にしわを寄せて溜息をつく。
「…オルコット子爵は入り婿ですから、恐らく犯罪行為を働いたことで子爵家から追い出されたのでしょう。離婚しているかどうかは定かではありませんが…」
「どっちみち家の中でも社会的にも微妙な立場だから、一発逆転を狙って、『ヴィクトル』を表舞台に引っ張り出すようミラベルを唆したって事で間違い無さそうね…」
「そ、唆した、ですか?」
ミラベルが首を傾げるので、アタシは懇切丁寧に説明する。
昔『ヴィクトル殿下』を旗印にしたクーデター未遂が王都で起き、ヴィクトル・ヴァイゼンホルンはその責任を取るという形で王位継承権を放棄したこと。
ヴィクトルの『性質』が王家に受け入れられる可能性はほぼ皆無なので、実は王位継承権の放棄はヴィクトルにとって処罰ではなく、むしろ褒賞に近いものだったこと。
第2王子のユリウスは追放されたのではなく、隣国の文官養成校で上に立つ者として鍛え直されているだけなので、王位継承権は揺らいでいないこと。
ついでに、混乱に陥っているという王宮は、王妃が文官のトップに立つことで改革が進み、既に落ち着きを取り戻しつつあるという事実も付け加えておく。
「──だから、『ヴィクトル・ヴァイゼンホルン』が王宮に戻る必要は無いの。と言うか、戻ったら確実に混乱を生むわ。最悪内乱になるでしょうね」
「内乱…」
物騒な単語を呟いて、ミラベルが青くなる。
「実際問題、オルコット子爵は勝算があってこんな事をしたのでしょうか?」
「どうかしらね…。ただの悪あがきの可能性もあるし…相当勝率の低い賭けだとは分かってると思う……分かっていて欲しいんだけど…」
苦悩していると、ノックの音が響いた。
「ヴィクトリア、今よろしいですか?」
「ええ、大丈夫よ」
扉の向こうのジュリアは、妙に緊張気味な声で続けた。
「…市長が──ボウエン伯爵がいらっしゃいました。ミラベル様を連れ戻しに来たとの事なのですが…あの、お通ししてもよろしいでしょうか?」
「え!?」




