6 余計なオプション
全ての木箱が搬出されたのを見届け、警備員に別れの挨拶をして寮を出ると、
「──クリスティン・アンガーミュラー!」
何故か、もう会うはずの無い人物が仁王立ちして待っていた。
「…あら、おはようございます、アードルフ・フォルスター様」
舌打ちしたくなるのを堪え、私は殊更ゆっくりと頭を下げる。
もう上司部下の関係ではないので、王宮での肩書で呼ぶ必要は無い。
しかしアードルフに『様』を付けるのもそれはそれで何となく屈辱感がある。
どこをどう見ても、『様』を付けるほど尊敬できる要素が欠片も無いし。
《クリスティン、態度に出掛かってるわよ》
肩に飛び乗ったシルクが、こっそりと警告してくれる。
改めて背筋を伸ばしてアードルフを見遣ると、元上司は鼻息荒くこちらを睨み付けていた。
「…アードルフ様、本日はお仕事のはずでは?」
何で始業時間を過ぎているのにこんな所に居るのだ。
内心で悪態を吐くが、幸いにもアードルフは気付かなかったようだ。
こちらの問いには答えず、肩を怒らせてわめき散らして来る。
「クリスティン君、君のケットシーのしつけはどうなっているのだね!?」
「…しつけ、とは?」
「昨晩、私の頭上に汚物を撒き散らしたのは君のケットシーだろう!?」
「………は?」
ちらりとシルクを見遣るが、彼女は小さく首を横に振る。
それはそうだろう。どう考えても濡れ衣だ。
「昨晩、とは、いつ頃のことでしょうか?」
「9時過ぎ頃だ!」
耳障りな声で非常に分かりにくい説明を繰り広げるアードルフの主張はこうだ。
昨夜9時頃、アードルフが行きつけの店で飲んでいい気分で店を出たところに、空から汚物が降って来た。
大部分は路上に落ちたが、一部はアードルフの頭部に着弾。
それを目撃して唖然としている人間たちの後ろ、向かいの店の屋根の陰に、歩み去るケットシーの尻尾が見えた。
あのケットシーが犯人に違いない。
サイズや毛色は分からないが、長い尻尾のケットシー。
しかもこのタイミングでとなると、クリスティン・アンガーミュラーが『相棒だから』と特例的に許可を取って連れて来ていたあのケットシーに違いない。
「…」
主張を聞いて、私は心の底から思った。
こいつ、馬鹿だ。
三毛柄のケットシーであれば、まだ彼女の可能性もあるだろうが…色もサイズも不明では、どのケットシーなのか分からないし、そもそも繁華街に居たそのケットシーが汚物を撒き散らした証拠も無い。
その状態で私の大事な大事な相棒を犯人呼ばわりするとは、浅はかにも程がある。
《クリスティン、落ち着いて》
シルクが、またこっそり念話で囁いてくれる。
その声に、濡れ衣を着せられた事に対する怒りは含まれていない。
どこぞの妄想たくましい元上司よりよっぽど理性的で冷静だ。
「──お言葉ですが、アードルフ様」
私は軽く咳払いし、表情を整える。
「昨夜の9時頃でしたら、私の相棒、シルクは寮で私の荷物を梱包してくれていました。繁華街へ行く余裕などありません」
「ケットシーが荷物の梱包だと!? そんなことあるはずがなかろう!」
「ありますよ。ケットシーは人間よりよほど魔法の扱いに長けています。ご存知でしょう?」
「そんなものは眉唾だ!」
眉唾。
つまり、そういう噂があるだけで、ケットシーが魔法に長けているというのは嘘っぱちだと。荷物の梱包など出来るわけがないと。
アードルフが叫んだ途端、すう、とシルクの纏う空気が冷えた。
自分が言い掛かりを付けられるのは流せても、ケットシーという種族を侮辱されるのは許せなかったようだ。
《実演して差し上げましょうか?》
淡々とした念話と共に、空中に魔力が走る。
アードルフの足元に魔法陣が輝いた瞬間、奴は見えない何かに押し付けられたように地面に尻もちをついた。
「なっ…!?」
《これが荷物を小さくまとめる魔法よ。きちんと折り畳んで空気を抜いて、木箱に収まる大きさにするの》
とても丁寧な解説が入った。
アードルフは両手を使って必死に立ち上がろうとしているが、シルクの魔法には敵わない。
《そして、》
シルクがまた違う魔法を展開する。
ふわりと浮いたアードルフは、地面から1メートルほどの高さを空中浮遊し、数メートル横にずれた後、唐突に地面に落ちた。
「ぎゃっ!?」
見事尻から着地し、潰れたカエルのような声が上がる。私は小さく拍手した。
生き物の動きを制限しながら浮遊させるのはかなり難しいはずだ。
流石は我が相棒殿である。
《こうやって順番に木箱に詰めて行くの。簡単でしょう?》
シルクが澄ました顔で言い放つ。
立ち上がったアードルフは、顔を真っ赤にして怒り出した。
「貴様、無礼にも程があるぞ! この私を誰だと思っている!?」
《少なくとも、私が敬意を払うべき相手ではないわね》
「何だと!?」
この国、特に王宮において、ケットシーは特別な存在だ。
一般人は王宮への出入りを厳しく制限されているが、ケットシーにその制限は無い。
初代王がケットシーをとても大事にしていたからだそうで、その伝統は今でも続いている。
王宮に出入りするケットシーたちもそれを承知していて、王族や関係者には一定の敬意を払い、迷惑にならないよう、独自のルールを設けて暮らしている。
逆に言うと、ケットシーが敬意を払うか否かは、彼ら自身が決めるわけで──お眼鏡に適わなかった者は、ケットシーからぞんざいな扱いを受けても文句は言えないのだ。
…今、文句を言っているのが目の前に居るが。
「大体貴様、畜生の分際で──」
うん、うるさい。
だん、と、わざと足音を立てて、私はアードルフの正面に踏み込んだ。
そのまま素早く両手を掲げ、奴の耳元ギリギリで思い切り打ち鳴らす。
──スパァン!
「!?」
とてもイイ音がして、アードルフが凍り付いた。
4年近く文官仕事に専従していたが、仕事の合間を縫って続けた鍛錬の成果はあったようだ。動作のキレは以前と遜色無い。
これなら、故郷に帰る道中でトラブルがあっても、足手まといにはならないだろう。
「あら、失礼」
私は一歩後ろに下がり、業務用の笑顔で告げた。
「蚊がうるさかったもので」
なお、今は2月。冬である。
蚊がいるわけがない。
その事実にアードルフが気付く前に、私は言葉を続ける。
「ところでアードルフ様、本日は月に1度の朝議のはずでは? こんな所にいらっしゃってよろしいのですか?」
王宮で月に1度行われる朝の会議。
王宮に勤める文官・武官の管理職級以上が一同に会し、当然、国王陛下も出席する。
「…はっ!?」
アードルフの表情が変わった。
きょろきょろと周囲を見渡し、寮の時計台で時間を確認して青ざめる。
「貴様のせいで余計な時間を食ってしまったではないか!」
通勤ルート上でもないのに、わざわざここまで来て待ち構えていたアードルフの自業自得である。
それを指摘する必要性すら感じず、私は黙って小首を傾げる。
反論が無いことに気を良くしたのか、アードルフはフンと鼻で笑って腰に手を当てた。
「…まあ良い。これに懲りたら、上司には逆らわず、従順な部下になることだ」
上から目線の有難いお言葉が降って来るが、もう上司ですらない輩の言葉など聞く価値は無い。
「そうですわね、肝に銘じておきます」
とりあえずこの場をやり過ごすために、私は素直に頷いておいた。
これでもう、この阿呆と会う事も無いだろうし。
急ぎ足で去って行く元上司の背中が見えなくなってから、私はおもむろに塀の向こうへ声を掛けた。
「──さて。皆さん、そこに居ますね?」