51 問題のある上司、その2
平坦な声で指摘すると、ユリウスはぽかんと口を開けて固まった。
…仮にもユリウスは統括部部長。フィオナの上司の上司だ。
アードルフに問題があったら、ユリウスに相談しに行くに決まっているではないか。
「い、いや、そんなはずは」
ユリウスがうろたえる。
フィオナの日記には、ユリウスに相談しに行った日時と内容がきっちり書かれていた。
当然、それに対するユリウスの反応も。
…『君はよく頑張っている』『アードルフも期待しているんだろう』『だから大丈夫だ』という、一見人当たりが良く、しかしその実、無責任かつ他人事な反応にフィオナは絶望し、『もう相談しに行くのはやめよう』と決意していた。
もう限界だと訴えているのに、何が『大丈夫』なんだ、何が。
「ああ、では、覚えていらっしゃらないのですね」
私はそれ以上追及する事無く、笑顔で頷いた。
奴が覚えているとは思っていない。想定の範囲内だ。
「ですが、相談に行ったのは事実です。その証拠も後程提出させていただきますね」
想定の範囲内だからと言って、上司の怠慢を見過ごすつもりは無い。
私は手帳にメモした後、改めて顔を上げた。
「──フィオナ・ブライトナー男爵令嬢は、私が解雇された事で業務量が急激に増える中、先程のような暴言を繰り返され、心身の健康を損ないました。ご両親が事態を察して実家に連れ帰ってくださらなければ、勤務中に倒れるか、自ら命を絶っていた可能性もございます」
再会したフィオナはとても反応が鈍く、何を話しても、とにかく自分のせいだと自らを責め続けていた。食事も睡眠も満足に摂れておらず、身体的な健康も危険な状態だったのだ。
私はブラックな環境での労働とパワハラの恐ろしさを知っている。
フィオナは──何と本人には自覚が無かったのだが──、決して甘く見て良い状態では無かった。
淡々と述べると、アードルフが鼻で笑った。
「何を馬鹿な事を。このくらい、私が若い頃には当たり前にあった事だ。皆、それを乗り越えて成長するのだ」
それっぽい事を言っているが、
「有り得ませんね」
私はそれを一蹴した。
この『王宮文官』という職に限って、それは無い。
「貴族男性は常に冷静沈着に、怒鳴り声など上げないのが矜持なのでしょう? 確か、『貴族たるもの、婦女子に声を荒げたり怒鳴ったりしてはならない』という伝統的な不文律もありましたね。王宮文官は例外なのですか?」
「ぐ…」
アードルフはあからさまに言葉に詰まった。
昔はどうだったか知らないが、今の王宮には怒声が許容される文化など無い。
それがまかり通るなら、今ここで、若手がドン引きしたり陛下が眉間に深い深いしわを寄せたりはしていないはずだ。
それに、
「私見ですが」
私は笑顔で前置きし、続けた。
「怒鳴れば仕事が捗る、相手が成長するなどというのは、ただの錯覚です。相手が委縮するのを見て怒鳴った側が満足するだけで、実際は相手の成長にも繋がらず、ただ仕事が滞るだけの無駄かつ無益な行為です。それを繰り返して部下を追い詰めるのは、自分が部下の育成も満足に出来ないダメ上司だと宣言しているようなものですよ」
「だ、ダメ上司だと!? 貴様、クビになった分際で何を言っている!」
この期に及んでなお、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げるアードルフ。
私が『ダスティン公爵から全権を委任されて来た次期当主』だという事も頭から抜け落ちているようだ。
まあ、それはそれで都合が良い。この男の素の状態を、じっくりと王族に見てもらおう。
「ダメ上司でしょう? 部下を不当な理由で解雇して、別の部下の給料を雇用直後から横領し、気に入らない事があっても無くても弱い立場の者に怒鳴り散らし、貴方が仕事をしないせいで発生する部下の超長時間労働を『やっとまともに仕事をする気になったか』と喜び、自分は定時で帰る。一体どこに『マトモな上司』の要素がありますか?」
諸々の調査で判明したアードルフの現状を並び立てて思う。
(こいつホントに要らねェな)
上司として必要だと思える要素が一つも無い。
分かってはいたが…ナントイウコトデショウ。
「──ああちなみに、『ロゼ』が嘆いていましたよ。アードルフ様は何度言っても『ユリウス・ヴァイゼンホルン』を『ユリウス・ヴァイセンホルン』と書き間違える、と」
『!?』
言った瞬間、場に動揺が走った。
『ヴァイゼンホルン』と『ヴァイセンホルン』。
スペルが一字違うだけだが、それが非常に重要な意味を持つ。
言わずもがな、『ヴァイゼンホルン』はこの国の王族の家名だ。
そして『ヴァイセンホルン』は──王族から臣下に降った『元王族』に与えられる、一代限りの家名。
本来はすぐ他の公爵家などに嫁入り・婿入りするので、『臣下に降ってから結婚するまで』の、ごく短い間だけ名乗る事になる。
ユリウスの名を『ヴァイセンホルン』と書くのは、曲がりなりにも現王族であるユリウスを非王族扱いする、侮辱行為に他ならない。
「なっ…何を言っている!」
アードルフはあからさまに動揺した。
何とか誤魔化そうとしているようだが──私は知っている。
これは何も、アードルフに限った話ではない。
「同じ間違いを、ウォルター・ベレスフォード公爵と支持者の方々も繰り返しておられましたね。何度注意しても直らなかったので、仕方なく『そちらで修正して再提出をお願いします』と書き添えて書類を差し戻したのですが──まさかそれで『お前明日から来なくて良い。今日付で解雇』というお返事をいただくとは思いませんでした」
私が解雇される切っ掛けになった、人事部の書類の書き間違い。
それこそ正に、ユリウスの名前の間違いだったのだ。
「何っ…!?」
ユリウスががたりと椅子を揺らす。
(え、そこで驚く?)
退職時にちゃんと『誤記を修正しろと言ったら解雇されました』と説明したはずだが、あんなに嘆いていた割に、ユリウスは『何を』『どんな風に』書き間違っていたのかは確認しなかったらしい。
(今更過ぎる)
そもそも自分の名前を間違われているのに、今まで気付いていなかったというのもおかしな話だ。
以前は私とフィオナが、誤記の確認や修正を一手に引き受けていた。
その時なら、まだ分かる。
しかし今は私もフィオナも居ない。
アードルフはそもそも戦力としてカウントできず、ギルベルトとジーノとエーミールで何とか書類を処理しているが、誤記の確認までは手が回らないらしい。
スペルミスのある書類は以前よりずっと多いはずだ。
当然、ユリウスの手元にも『ユリウス・ヴァイセンホルン』と書かれた書類が届いていると思うのだが…──本当に残念だ。色々と。
ユリウスに一瞬白々とした視線だけを送り、私は頬に手を当てる。
「──まあ、ベレスフォード公爵とその周辺がわざとそう書いていたのか、不勉強過ぎて書き間違えていただけなのかは分かりませんが」
不敬罪に当たるのだろうが、理由については正直興味も無い。
気になるなら、後で王族が追及すれば良いだけだ。
「それはそうと、フォルスター伯爵」
私は再びアードルフに向き直る。
「この度の件について、色々と調査させていただきましたが…一つだけ、どうしても分からない事があるのです」
「な、なんだ」
及び腰になりながらも、アードルフが虚勢を張って応じて来る。
私は首を傾げて続けた。
「──何故貴方は、ベレスフォード公爵に自らを売り込んでいるのですか?」
「………は?」
数秒ぽかんと口を開けた後、アードルフは小馬鹿にしたように口の端を上げた。
「決まっているだろう。ウォルター様が素晴らしいお方だからだ」
「どう見ても素晴らしくは無いでしょう。あと、この際なのでもうおべっかは必要無いと思いますよ」
主犯格を持ち上げてどうする。
私が指摘すると、アードルフはとても嫌そうに顔を歪め──数秒後、ぼそりと呟いた。
「……出世のためだ」




