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4 慌ただしい退去準備


 そこから先は大急ぎだった。


 どうしてもアードルフ任せに出来ない仕事を同僚たちに説明し、大まかな割り振りを決める。


 他部署との連絡役候補になった男性職員2人を引き連れて他部署を回り、退職の挨拶と後任の紹介を済ませる。

 …一部、あからさまに『してやったり』という顔でほくそ笑んでいる人事部長やらひそひそ笑い合う人事部職員やらに対して、彼らは眉を顰めていたが──まあ、人事部と違ってうちの正規職員たちは優秀だ。仕事は仕事として割り切って働いてくれるだろう。


 その後自席に戻り、不要物は処分、私物を適当な袋に押し込み、引継ぎの決まっている仕事の資料を後任の担当者に渡し、残りの仕事の資料はアードルフの机の上に積み上げようとして…そんなスペースなど無かったので、仕方なく自分の机の上に積み上げて『アードルフ室長担当』とでかでかと書いた紙を載せる。


「すごい山だな…」

「…これだけの量、机の中にどうやって収めてたんですかクリス先輩…」

「あら、これでも厳選したのですよ?」

「え!?」


 机周りが片付いたので、今度は業務の再確認だ。


「今のうちに、聞きたい事があったら聞いてください。私が居るのは今日だけですよ」

「あっ、はい! この書類の回覧先なんですけど、財務部と第1統括室のどっちが優先ですか?」

「ああ、それは金額によって変わります。確かこっちに資料が──」


 業務のあれやこれを教えていると、あっという間に終業時刻を過ぎてしまった。


 ごく一部とは言え、仕事の引継ぎが半日足らずで終わるはずがない。


 午後ずっと不在だったアードルフが、部屋に戻って来たと思ったらこちらを一瞥もせずに鼻歌混じりで定時退勤して行ったような気もするが、奴はもう関係無いので放っておこう。


「夕飯買ってきたぞー。俺らのおごりだ、食え食え」

「わあっ、食堂の限定サンドじゃないですか! 全員分なんてどうやって買ったんですか?」

「シェフからクリスティンに、餞別だそうだ。俺たちの分はおまけだな」

「あら、私が辞める事、話していたのですか?」

「挨拶回りの後、ちょっとな。『アンガーミュラー領のレシピはとても参考になった。また機会があれば是非食べに来てくれ』だそうだ」

「そうですか、ありがたいことですね」



 男性職員2人のおごりで夕食を摂り、出来得る限りの引継ぎを終え、『先輩、やっぱり辞めないでくださいよ~!』と泣き付いて来る後輩を宥め、同僚全員と握手を交わして寮に戻った頃には、日付が変わる直前になっていた。


 職場から持ち帰って来た荷物をどさりと置いて、部屋の灯りを点けると、ベージュを基調としたシンプルな内装が浮かび上がる。


《おかえりなさい》

「マダム・シルク、ただいま戻りました」


 響いた念話に、ほっと顔を緩める。


 部屋の真ん中に置かれたクッションに鎮座していたのは、とても美しい三色の毛並みを持つケットシー。


 私の相棒、シルクだ。


 ちなみに『マダム』は妙齢で美しい彼女に対する敬称である。

 最初は弟が冗談混じりにそう呼び始めたのだが、彼女に大変似合うので、いつの間にか誰も彼もがそう呼ぶようになった。

 彼女自身も気に入っているらしく、最近は自分から『マダム・シルクって呼んでも良いわよ』と名乗っている。


《大変な事になってるみたいじゃない》


 とうとうやったわね、あのバカ。


 相棒殿は、今日も辛辣だ。


「さすがマダム、耳が早いですね」

《王宮中のケットシーが騒いでるもの。ボスなんか全速力で私の所に来たわよ、昼寝してたのに》

「それはまた…すみませんでした」


 私は苦笑する。

 昼寝を中断されたシルクは大層不機嫌だったに違いない。王宮のケットシーたちのボス──その名も『ボス』──も大変な貧乏くじを引いたものである。


「ですが、仕方ありませんよ。お互い、良い機会だったという事でしょう。急すぎて色々と大変ではありますが…」


 部屋を見渡し、ふと気付く。


 必要最低限の物を除いて、大半の私物は既に片付けられ、梱包されているようだ。見覚えの無い木箱がいくつかある。


《ああ、帰り支度だったら大体済んでるわよ》

「ありがとうございます、マダム・シルク」


 それはとても助かる。私は心の底から頭を下げた。


 これから部屋の荷物の梱包か…といささかげんなりしていたのだ。

 1人でやっていたら、どう考えても一睡も出来ずに夜が明ける。


 王宮のケットシーのボスを初対面でコテンパンに叩きのめしてあっさり従え、彼らから得た情報を私に伝えてくれ、あれこれと世話を焼き、時には魔法で補助してくれる。私にはもったいないくらいのとても優秀で素敵な相棒だ。


《夕飯は食べたんでしょう? 貴女はさっさとシャワーでも浴びて来なさいな》


 職場から持ち帰って来た荷物がふわりと浮いた。

 浮遊魔法を器用に制御するシルクは、美しい金色の目で私を促す。


《すごく疲れた顔してるわよ。きちんと洗って、サッパリしてらっしゃい》

「あら」


 思わず頬に手を当てるが、それで表情など分かるはずも無く。


 シルクの言葉に素直に従い、部屋に備え付けのシャワーを浴びて戻って来ると、彼女は机の上に座って待っていた。


 職場から持ち帰って来た荷物はもう木箱に収めたらしい。

 どれに入っているのか、私には全く分からない。


《ほら、座って》

「はい」


 私が椅子に腰掛けると、すぐに髪を温風が包み込んだ。

 ふわりと舞うこと数秒、パサリと髪が落ちる頃には、もうきれいに乾いている。


 これもシルクの魔法だ。火と風の複合魔法で、ケットシーなら大抵は使えるのだと言う。


 私にも使えるだろうかとシルクに教えてもらった事があるが、残念ながら私にはそんな繊細な魔力制御の適性は無かった。


「ありがとうございます、マダム・シルク」


 仕事で帰るのが遅くなった時は出来るだけ早く寝たい。

 だから毎回、シルクのこの魔法には助けられている。


 貴族女性は髪が長いのが通例とはいえ、正直乾かすのだけでも一苦労なのだ。


《どういたしまして》


 涼しい顔で応じたシルクは、不意にこちらを覗き込み、真面目な顔で告げた。



《──貴女は頑張ったわ。とても頑張った。私が保証する》



「シルク…」


 ふっと肩の力が抜けた。

 抜けて初めて、力が入っていたのだと分かった。


 …そうだ。私は頑張っていた。


 各担当しか知らなかった業務知識を図や文字を駆使して書き起こし、誰でも閲覧できるように配備したり、書類の種類ごとに処理方法の一覧を作ったり。

 書類を作りやすいように共通の様式そのものを変えた事もあった。


 同僚たちの意識も、最初とは随分変わった。

 効率良く仕事を進めるにはどうしたら良いか考えるようになったし、その改善策を実行に移すようになった。『どうせ』という言葉を口にするのが、ほんの少しだけ減った。


 ──それは、あの室長が望んだ形ではなかったかも知れないけれど。



「……頑張って…いたんですけどね」



 ぽつり、言葉が零れる。


 声に混ざる自嘲は、隠し切れなかった。


《……》


 シルクが金色の目をキュッと細める。

 身を翻した彼女は、窓の鍵へ前足を掛けた。


「マダム・シルク、こんな時間にどこへ?」

《ちょっと、夜の散歩へ行って来るわ》


 三毛のケットシーは、涼しい顔で言い放った。



《ついでに、部下を切り捨てて『祝勝会』とか言ってどこぞの飲み屋で乾杯してる()()()()()鹿()の脳天に、ネズミの臓物でもぶちまけて来るわ》



「…ええと……飲食店の皆さんにご迷惑をお掛けしてしまうので、やめてあげてください」



 一瞬、『とても良い案ですね、よろしくお願いします』と全力で背中を押しそうになったのは秘密だ。



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