28 退職の裏側
フィオナをアンネマリーに任せ、他の者は全員、応接室へと移動した。
よく手入れされたオーク材のテーブルに、毛足の整ったカーペット。
アリシア自ら淹れてくれた紅茶は、ホッとする味だ。
焼き菓子をつまんで一息つくと、私は丁寧に頭を下げた。
「改めて…フィオナ様に会わせてくださって、ありがとうございました。ブライトナー男爵、ブライトナー男爵夫人」
「アリシア、で構いませんよ、クリスティン様」
夫人が茶器を置いて微笑んだ。
「フィオナの事も、呼び捨てにしていただいて構いません。職場ではそう呼んでいたのでしょう?」
「はい。ありがとうございます、アリシア様。私の事は、どうか『クリス』とお呼びください。敬称も不要です」
普通、貴族階級の既婚者を名前で呼ぶのはごく親しい間柄の者だけだ。
どうやら、私は彼女の信頼を得られたらしい。
「分かりました、クリス。それで…」
アリシアの目が陰った。
「…フィオナは、大丈夫かしら?」
「…ええ、きっと。ただ、時間は掛かると思います。周囲の者は、焦らず、必要以上に干渉せず、けれど放置はせずにフィオナと向き合っていただければ……それが一番難しいのですが」
苦笑する。
私は心理学や精神医学の専門家ではないし、曖昧なアドバイスしか出来ない。
フィオナにとって何が最適なのか、手探りで進めて行くしかないだろう。
「時間が掛かるのか?」
「はい、ブライトナー男爵。あくまで目安ですが、回復には、心が疲労を訴え始めてから治療を開始するまでの期間の、3倍以上の時間が掛かるとお考えください」
「3倍以上…そこまでか」
フィオナの場合いつ頃から問題が発生していたのか分からないから、治療に要する期間も不明だ。
そもそも回復に個人差があるから、治療期間を予想したところで意味は無いのだが。
そう説明すると、アリシアが何か考える仕草をした。
「それなら…見て欲しいものがあるのですが」
一度部屋の外に出たアリシアは、程無く、1冊のノートを持って戻って来た。
「それは?」
「フィオナの日記です。あの子を辞めさせた時、私が寮の部屋に荷物を引き取りに行ったのですけれど…その荷物の中に入っていました」
ヒューゴが眉間にしわを寄せた。
「アリシア、私は聞いていないが」
「内容的に、貴方に見せたら暴走する可能性が高いと思いましたので、敢えてお伝えしておりませんでした」
アリシアはさらりと応じる。強い。
「私が拝見してもよろしいのですか?」
「ええ。私が読んでも、詳しい事は分かりませんでしたが…貴女が読めば、状況が分かるのではないかと思うのです」
アリシアがそっとこちらにノートを差し出す。
私は両手でそれを受け取った。
「…拝読します」
フィオナのプライベートな日記だ。本来なら、本人の許可無く見て良いものではない。
だが、今のフィオナに説明を求めるのはもっと酷だろう。
ページを開くと、最初の日付は1年半ほど前──フィオナが王宮に出仕する前日。
寮に入って荷物が片付いたことと、仕事に対する意気込みが書かれていた。
その後の日記には様々な事が書かれていたが、仕事にまつわる部分だけをかいつまんで読んで行く。
第2統括室に配属された事、最初の年度末、アードルフに飲み会に誘われたが私とジーノが邪魔をした事。
日々のちょっとした記録をフィオナの視点で読むのはとても不思議だ。
日記の雰囲気が変わったのは、私が解雇された日の部分からだった。
(ああ…やっぱり)
『自分が頑張らなければ』という、悲壮感を含んだ言葉。
仕事が徐々に噛み合わなくなり、残業は増え、それでも締切には間に合わない。
仕舞いには、アードルフから八つ当たりに近い暴言を吐かれる始末。
そうして──
──クリス先輩、ごめんなさい。
私 もう ダメかもしれな い。
「………」
乱れた字で書かれた最後の日記は、私への謝罪の言葉だった。
しばらくその文字を見詰めてから日記を閉じる。
瞑目しても、瞼の裏にその文字がはっきりと浮かび上がった。
(…フィオナ)
──クリス先輩、ごめんなさい。
(謝ることなんて、何も無いのに)
──私もう、ダメかもしれない。
(違う、ダメなんかじゃない。ダメなのは、あいつだ)
叫び出したい衝動を、喉の奥で押し留める。
「………ありがとうございました」
抑揚の無い声で礼を述べると、私はアリシアにノートを返した。
「………」
対面側で日記を覗き込んでいたヒューゴの顔からは、表情が抜け落ちている。
多分、私も同じような顔になっているだろう。
衝撃を受け過ぎると、人は無表情になるものらしい。
「…とりあえず、状況は理解しました」
絞り出すように呻く。
「恐らくですが、フィオナがあの状態になった切っ掛けは、私の退職でしょう。その後、仕事が増えて処理が追い付かなくなり、度重なる上司の暴言で心身のバランスを崩してしまった──そういう事だと思います」
居室に泊まって仕事をしていたらしいギルベルトとジーノは、後でシメる。
それから、日記の最後の方にあった『人事部長主催の飲み会』──どうもきな臭いので、どういう飲み会なのか一度調査したい。
アンネマリーが、フィオナのカウンセリングの中で何か情報を掴んでいると良いのだが。
噴出しそうになる怒りを呑み込むために、やるべき事を頭の中で並べ立てていると、
「……だから…」
地を這うような声で、ヒューゴが呟いた。
「…だから、王宮文官などやめろと言ったのだ」
確か、ヒューゴは元王宮文官のはずだ。
かつて自分が関わっていたからこそ、娘が出仕する事に反対していたのか。
「あんな安月給で散々働かされて、ここまで不当な扱いを受けるとは…」
(…ん?)
今、引っ掛かる発言があった。
だがまずは、
「ブライトナー男爵。お気持ちは分かりますが、フィオナにそのような事を直接言うのはお控えくださいね」
「む?」
「『だから王宮文官などやめろと言ったのだ』──フィオナを不憫に思ってこそのお言葉だと思いますが、フィオナがこれを聞いたら、『自分の判断が間違っていた』『父の忠告を聞かずに我を押し通した自分が悪い』と自分を責めかねません」
指摘すると、ヒューゴは目を見開き、その後深々と溜息をついて肩を落とした。
「……そう、か。分かった、気を付けよう」
「お願いいたします」
…この分だと、もう既に似たような事をフィオナに言ったのかも知れないが、深くは訊かないでおく。
「ところで一つ、お願いがあるのですが──」
話題を変えると、アリシアとヒューゴが揃ってこちらを向いた。
「何でしょう?」
「──残っていれば、で構いません。フィオナの給与明細書を見せていただく事は可能でしょうか?」
「………は?」
ヒューゴがぽかんと口を開けた。
そりゃあそうだろう。
『お宅のお嬢さんのお給料を教えてください』なんて要求、マナー違反も良いところだ。
貴族だったら間違い無く翌日から後ろ指さされて軽蔑の的になる。
だが、
「もしかしたら、フィオナに暴言を吐いた阿呆を叩きのめすための材料になるかも知れません」
告げた瞬間、ブライトナー夫妻の表情が変わった。




