27 ブライトナー男爵家
こちらを睨み付けている男性の隣に、女性がそっと並ぶ。
その立ち位置だけで分かった。
この男性が、フィオナの父親──ブライトナー男爵だろう。
「…アンネローゼ、マダム・シルク。魔法を解除してください」
「承知しました」
《分かったわ》
彼らには、本来の姿を見せるべきだ。
魔法を解除してもらうと、私は丁寧に一礼した。
「お初にお目に掛かります。ハロルド・アンガーミュラーが第一子、クリスティン・アンガーミュラーと申します。フィオナ様とは、王宮の統括部第2統括室にて、今年2月までご一緒させていただいておりました」
告げた瞬間、驚きに目を見張っていた男性の顔に怒りの色が上った。
「王宮の関係者か! 今更何の用だ!」
厳密にはもう関係者でも何でもないのだが、説明しても聞いてくれないだろう。
「フィオナ様が体調不良を理由に王宮文官の仕事を辞めた、と聞きました。どうか一度、フィオナ様に会わせてはいただけませんか?」
端的に用件を告げると、男性はさらに目を吊り上げる。
「断る! 帰れ!」
取り付く島もないとはこの事だろう。この剣幕ではボスが引き下がるのも頷ける。
しかし、魔物や瘴魔の殺気に比べれば、大した事は無い。
「一度で良いのです。お願いいたします」
食い下がると、男性はますますヒートアップする。
「駄目だ!」
「──あなた。待ってください」
男性の腕に、女性がそっと手を置いた。
そのまま女性はこちらを向く。
その視線は風の無い湖の水面のように静かで、不思議な落ち着きがあった。
「私はフィオナの母、アリシア・ブライトナーと申します。こちらは私の夫でフィオナの父、ヒューゴ・ブライトナー男爵です」
「…」
夫が名乗らないのを見兼ねて、助け舟を出してくれたようだ。
男性──ヒューゴは、険のある表情のまま、黙ってこちらに目礼した。
その態度には構わず、アリシアは小さく首を傾げる。
「クリスティン・アンガーミュラー様。貴女は、フィオナに『クリス先輩』と呼ばれていた方…ですか?」
「はい。そう呼んでいただいておりました」
最初は『クリスティン様』と呼ばれていた。しかし『様』付けは面倒だし、クリスティンという名前も長い。
愛称の『クリス』で呼んで欲しいと頼んだら、フィオナはとても嬉しそうな顔をして、『私の事も、呼び捨てにしてください!』と言ってくれた。
懐かしく思い出していると、アリシアは納得したように頷く。
「──分かりました。フィオナの部屋はこちらです。どうぞ」
「あ、アリシア!?」
ヒューゴが目を見開くが、アリシアは身振りで私たちを促し、奥へと歩き始める。
屋敷の中では妻が主導権を握っているようだ。強い。
「──フィオナ、起きていますか?」
2階の一室の前で、アリシアは扉に向かって声を掛けた。
「貴女にお客様です」
「………はい」
扉の向こうから聞こえて来た声は、確かにフィオナのものだった。
あまりにも覇気の無い声に、私は眉を顰める。
(これは…)
アリシアが扉を半分開け、こちらを見た。
「どうぞ、入ってください」
その目には、娘に対する心配と、何かを期待する微かな光が見える。
私は頷いて、扉をくぐった。
「…?」
フィオナは、丁度ベッドから降りようとしていた。
記憶にあるよりずっと青白い肌。こけた頬。
髪には艶が無く、明るい光を宿していたはずの瞳は昏く濁っている。
それでも、フィオナだ。
(…生きてた)
アリシアたちの態度や扉越しの声で分かってはいたが、こうして目の当たりにして深い安堵が広がる。
同時に、胸中に強い痛みを感じた。
彼女をここまで追い詰めた責任の一端は、私にある。
「お久しぶりですね、フィオナ」
内心を悟られないよう、穏やかな笑顔を浮かべて呼び掛ける。
「………」
数秒、沈黙があった。
王宮文官のお仕着せではないし、髪型も違う。私が誰なのか一目では分からないのだろう。
フィオナは不思議そうに首を傾げ──やがてゆっくりと目を見開いた。
「………クリス、せんぱい?」
少し掠れた声。私は笑顔で頷く。
「ええ、フィオナ。クリスティン・アンガーミュラーです」
次の瞬間、フィオナは弾かれたように立ち上がった。
こちらに足を踏み出そうとして大きくよろけるのを、私は咄嗟に走り寄って抱き留める。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません…!」
「良いのですよ。役得です」
ネグリジェ姿の貴族令嬢を抱き留められる機会などそう無い。
冗談混じりにそう応じると、フィオナは一瞬笑ってこちらを見上げ──その顔が、みるみる歪んだ。
「…っクリス先輩……私…ごめんなさい……!」
ぼろぼろと涙が零れる。
うわごとのように『ごめんなさい』を繰り返す後輩を、私はゆっくりと抱きしめた。
「フィオナ、もう大丈夫です。本当に頑張りましたね」
「でも、でも…! 私、何の役にも立てなくて…っ」
「いいえ。貴女の頑張りは、絶対に無駄にはなりません」
きっぱりと言い放ち、私は敢えて一段、笑みを深くする。
「大丈夫。後は私に任せてください」
「……え……」
ぽかんとこちらを見上げる瞳。
その頭を優しく撫でてから、私は背後に控えるメイドたちに視線を移した。
「アンネマリー」
「はい」
アンネマリーが静かにこちらへ進み出て一礼する。
「フィオナ、彼女はアンネマリー。我が家のメイド兼カウンセラー──心が疲労した時に、とても頼りになる者です」
「心が、疲労…?」
自分が精神的に疲弊していると気付いていないのだろう。フィオナは首を傾げる。
アンネマリーは微笑んで、頷いた。
「ずっと頑張り続けていると、どうしても疲れが溜まってしまいます。そうなってしまった時に、疲労を取り除くお手伝いをさせていただいております」
私は顔だけ振り返り、扉の前で信じられないものを見るような目をしているブライトナー夫妻に問い掛ける。
「ブライトナー男爵、ブライトナー男爵夫人。しばらくの間、アンネマリーをフィオナのそばに置く事を許していただけませんか?」
フィオナには多分、精神的なケアが必要だ。
身体を休めるのも美味しい物を食べるのも大事だが、それ以上に、自分の心と向き合い、自分を労わることを知らなければいけない。
「──分かりました。よろしくお願いします」
戸惑うヒューゴとは対照的に、アリシアの決断は驚くほど早かった。
ありがとうございます、と礼を返し、私はアンネマリーに視線を投げる。
「アンネマリー、お願いしますね」
「お任せくださいませ」
にこりと笑った風精霊は、そっとフィオナの手を取り、ベッドへと導いた。
「あ…」
手が離れた瞬間、フィオナが不安そうに私を見上げる。私は笑って、大丈夫ですよ、と頷いた。
「アンネマリーはその道のプロです。私もちょくちょくお邪魔させてもらいますから。ゆっくり調子を整えて行きましょう。ね?」
「…はい」
フィオナは少しだけ表情を緩めた。