2.5.【従者視点】彼女に見限られた日
閑話。殿下の後ろに控えていた従者視点のお話です。
「……終わった……」
クリスティンが滑らかな動作で退出し、統括部長執務室の扉が閉まった途端、我が主はバッタリと執務机に倒れ伏した。
確かに、終わった。
色々な意味で。
──クリスティン・アンガーミュラーは知らない。
有能なくせして恋愛面では色々と拗らせまくりの第2王子様が、本気で彼女を正妃にしたいとアンガーミュラー家当主に懇願していたことも。
父親であるアンガーミュラー家当主が、『本人が喜んで受け入れるなら』と条件付きで求婚を許可していたことも。
雇用契約の延長は、彼女に長く働いてもらいたいというのももちろんあったが、半分は求婚の許可をもらうための時間稼ぎだったということも。
「仕方ありませんね、何せ相手は『アンガーミュラーの女傑』ですから」
アンガーミュラーの女傑。クリスティン・アンガーミュラーを知る貴族たちの間で囁かれている、彼女の二つ名だ。
その名に違わず、最後の最後で全てぶった斬って去って行く様は、爽快ですらある。
…肝心の本人へのアプローチを怠った結果、見事告白前に砕け散った面倒臭い主を復活させる手間を考慮に入れなければ、だが。
「…お前今、かなり失礼な事を考えていないか?」
「おや、お早い復帰で」
片眉を上げて応じると、ユリウス殿下は白々とした目でこちらを見た後、深々と溜息をついた。
「……落ち込んでいる暇など無いだろう。陛下への報告、関係各所との業務調整、新たな間諜の選出、アードルフの処遇に関する根回し…」
指折り数えるのを、私は従者として一つ一つメモして行く。
この『メモを取る』という習慣も、クリスティンが提案したものだ。
曰く、『どんなに記憶力が良くても、抜けや勘違いは絶対あります。その都度間違いが無いか確認しながらメモを取った方が簡単ですし、確実ですよ』。
最初は文字に書き起こすのに時間が掛かり、ユリウス殿下の指示速度と噛み合わない事も多かったが、今ではすっかり馴染んでいる。
そして彼女の言う通り、仕事上の間違いや食い違いは格段に減った。
「アンガーミュラーのご当主への謝罪連絡も必要ではありませんか?」
メモの内容を見直して淡々と指摘すると、我が主はぐっと言葉に詰まった。
分かった上で口にするのを避けていたらしい。
「……なあ、」
「お断りします」
変な角度でこちらを見上げて来る主にみなまで言わせず、私はきっぱりと言い放った。
「…まだ何も言ってないだろう」
確かに何も言われていないが、何を言おうとしていたのかは大体分かる。
「大方、『自分の名代としてアンガーミュラー領に向かい、ご当主に謝罪して来てくれ』『ついでに、クリスティンをもう一度説得して、王宮に連れ戻してくれ』といったところでしょう」
「…」
見事に沈黙した主をジト目で見遣る。
「謝罪だけならともかく、彼女を連れ戻すのは無理ですよ。素人が丸腰でツイン・ヘッドに挑むようなものです」
正直に言おう。
私はまだ死にたくない。
「……お前、彼女の幼馴染だったよな?」
疑わし気な顔でユリウス殿下が問うて来る。
現当主同士が旧友であるため、確かに我が家とアンガーミュラー家は昔から親交がある。
もっと言えば、クリスティンの能力の高さを見込み、アンガーミュラー家当主を拝み倒して彼女を王宮の文官としてスカウトしたのは、当時第2統括室長だった私の父だ。
だが、昔からの知り合いだからこそ、私は理解している。
今の彼女に、『王宮に戻ってくれ』と頼むのは無駄だ。
「…殿下にはお伝えしておりませんでしたが」
「うん?」
「私は子どもの頃、彼女に押し倒されたことがあります」
「何!?」
我が主は愕然とした。顔から血の気が引いているが──何を想像したのだろうか。
私はきちんと、『子どもの頃』と強調したのだが。
「落ち着いてください。昔の、まだ彼女が7歳の頃の話です」
「あ、ああ、なんだ…………いや待て、彼女が7歳? お前と彼女は、5歳近く歳が離れていたよな?」
「ええ」
「………7歳の女の子に、押し倒されたのか? 12歳のお前が?」
「そうです」
子どもの頃の5歳差は、大人とはわけが違う。
20歳対25歳なら良い勝負ができるかも知れないが、7歳対12歳である。
体格差があり過ぎるし、私はその頃既にユリウス殿下の従者兼護衛として戦い方を学んでいた。
7歳の少女に負ける要素は無い、それ以前に、勝負する相手ですらない──と、思っていた。
が、
「何でそんなことになったんだ?」
「…当時私は、父の行っている文官仕事の意義を理解していませんでした。だから、『あんな一日中机に向かってぶつぶつ言っているだけの仕事など、意味が無い』と言ってしまったんですよ。よりによって、彼女の前で」
「うわ」
その時の事は、今でも鮮明に覚えている。
年端のいかない少女の顔から表情が抜け落ちた次の瞬間、私は胸に強い衝撃を受け、無様に地面に転がっていた。
無意識に受け身が取れていたのを、後に父から褒められたのだが──その時は何が起こったのか分からないまま、気付けば仰向けになり、少女に顔を覗き込まれていた。
逆光気味の少女は、異常に爽やかな笑顔を浮かべていて──目は全く笑っていなかった。
──『仕事なめんな』
恫喝と共に放たれた殺気は、師に認められ始めて調子に乗っていた少年を恐怖で凍り付かせるのに十分で、
「……それ以来、どんな仕事に関しても、軽視するような発言をするのをやめました」
そして心に刻んだ。
見た目に騙されてはいけないと。迂闊な発言をしてはいけないと。
たとえ普段は温厚でも、一見非力なように見えても、絶対に怒らせてはいけない相手は居るのだと。
「…」
今回、アードルフは既に致命的な失言をしている。
──『お前の仕事は、私が引き継ごう。全て把握しているからな』。
少し考えれば分かる事だが、たとえ上司であっても、部下の仕事を全て把握するのは不可能だ。
日々の細々とした雑務など、部下が上司に報告していない仕事はいくらでもある。
まして、有期雇用者の中でも特異な立ち位置に居たクリスティンの業務である。
それを『全て把握している』『自分が代わりにやってやる』と言い放つのは、彼女の仕事をなめている──過小評価している証拠だ。
仮に『帰って来てくれ』と言われたとしても、そんな相手を許すほど彼女は甘くない。
「…だがあの口振りでは、彼女はアードルフに対して何も報復せず、ただ退職する気だろう? 現時点で既に許している、のではないのか?」
「恐らく違います」
惚れた弱みか、我が主はクリスティンの性格を美化し過ぎているようだ。
あんな殺気を放てる『アンガーミュラーの女傑』が、そんな温和で心の広い性格のはずがないではないか。
「彼女は、『恐らく3ヶ月程度で収拾がつかなくなる』と言っていたでしょう」
私は首を横に振り、続けた。
「自ら手を下さずとも、アードルフは勝手に自滅する。そう予測できたからこそ、特に何もせず、ただ去る事にしたのですよ。もっと言えば、彼女は『王宮という職場を見限った』、という事です」
「…」
アードルフが室長を務める統括部第2統括室は、王宮内でやり取りされる情報が集約され、処理される部署だ。
王宮外とのやり取りを所管する第1統括室ほど目立つ部署ではないが、第2統括室が機能不全に陥った場合、王宮内のあらゆる業務が滞る。
それを承知の上で大人しく職場を去るという事は、彼女にとって、王宮はもはや心を砕いて仕事をする場所ではないのだ。
『必要無いと言われた時点で、やる気も愛着も責任感も失せました』──この言葉は、第2統括部だけではなく、王宮という職場全体も指しているに違いない。
よって、彼女が王宮に職場復帰する可能性は、無い。
淡々と説明すると、我が主はゆっくりと頭を抱え、執務机に突っ伏した。
「…………終わった…………」
本日二度目の『終わった』は、一度目よりさらに絶望感に満ちていた。