18.5 【ユーフェミア視点】譲れないもの
ファーベルク領とアンガーミュラー領の境界付近で爆発が起きたという報告が私の元に届いたのは、日も傾き始めた頃だった。
侍従やメイドたちが止めるのを振り切り、自ら馬車でその場所に出向く。
いつもなら、信頼のおける私兵団の兵士や侍従に任せていただろう。
けれど今回ばかりは、私の──ユーフェミア・ファーベルク自身の目で確かめなければならなかった。
「…」
川を渡った向こう、アンガーミュラー領に入ってすぐの湿地帯。
いまだ黒煙を上げているのは、原形を留めないくらい大破した『何か』だった。
その周囲で動き回っているのは、アンガーミュラー領の領民たちだろうか。
体格の良い男性が複数、街道に飛び散った大きな破片を退かしたり、未だ燻る煙に水を掛けたりしている。
馬車から降りると、木や鉄が焼け焦げた臭いに混じって、今まで嗅いだことの無い、独特の臭気が鼻をついた。
踏み出そうとした足を思わず止め、その場で立ち尽くしていると、男性の一人がこちらに駆け寄って来て目を見開く。
「ユーフェミア様ではありませんか!」
彼の顔には覚えがあった。アンガーミュラー家の屋敷に一番近い街の住民の一人だ。
私がアンガーミュラー家を訪問する際は、よくシルバーウルフたちと共に馬車を護衛してくれた。
「ここはまだ危険です、少し離れてください」
「何があったのですか?」
一歩も退かずに訊ねると、彼は表情を曇らせた。
「……俺たちにも、詳しい事はまだ分かりません。ただ、ここで何か大きな爆発があったらしく…………クリスティン様とマーカス様が乗っていた馬車が巻き込まれました」
「──!」
ひゅっ、と息が止まった。
咄嗟に視線を走らせると、大破した『何か』の傍ら、大きな木片に紛れて金属のレリーフが落ちている。
煤けて歪んでいるが、その意匠は、どう見ても馬車につけられていたアンガーミュラー家の紋章。
つまり、大破したのは──クリスたちが乗った、馬車だ。
「そん、な……」
全身から血の気が引いて、私はその場に座り込んだ。
付いて来てくれたメイドが、咄嗟に背中を支えてくれる。
「お嬢様、お気を確かに」
そのメイドの手も、小刻みに震えていた。
──大破した馬車。異様な臭い。険しい表情の男性たち。
その状況が導くのは、絶対にそうであって欲しくない、最悪の予想だ。
「……クリス……クリスティン様と、マーカス様は……?」
彼らにはケットシーが付いている。そう簡単にどうにかなる人間ではない。
そう自分に言い聞かせて訊ねると、男性はわずかに視線を逸らして答えた。
「──…既に、お屋敷の方へ…。…申し訳ありません、これ以上は、俺の口からは」
「……そう、ですか……」
男性が一礼して去って行く。
私は口元を押さえ、喉の奥から込み上げる嗚咽を必死で押し殺した。
──だって私には、ショックを受ける資格など、無いから。
「…っ」
ケヴィンを生み育てると決めた時から、私の優先順位は大きく変わった。
ケヴィン。
生まれつきの体質で子どもは望めないだろうと医師から言われていた私に宿った、奇跡の命。
たとえそれが貴族として後ろ指を指されるような経緯で、自分の意思とは関係無く宿ったものだとしても、私にとって何よりも大事な存在だ。
あの子を守るためなら何だってする。
『あの方』の良いように使われているだけだとしても、それでケヴィンの命を守れるなら構わない。
──けれど。
(私、そんなつもりでクリスたちを呼んだんじゃ……)
『あの方』は、ただ少し脅かすだけだと言っていた。
だから、クリスティンをファーベルク領へ呼び出して欲しいと。危害を加えるつもりは無いと。
──では、この状況は何なのだろう?
──私は一体、何をした?
(………私は、取り返しのつかない、事を)
目の前が真っ暗になった時、声が聴こえた。
《そのまま聞いて頂戴。こちらに反応を示さないように》
淡々とした、冷静な『声』。
クリスティンの相棒、シルクの念話だと気付き、私は身体を強張らせた。
彼女は難を逃れたのだろうか。
もしかしたら、この件に私が関与していると気付いているかも知れない。
何を言われても受け入れよう。それが、私の罪に対する罰だ。
《この念話は、貴女にしか聞こえていないわ。だから、絶対に反応しちゃダメよ。──クリスもマーカスも、みんな無事。ついでに、自爆テロ未遂の実行犯もね》
(……………え?)
あまりにも予想外の内容に、思考が止まった。
…無事?
この状況で?
《詳細は端折るけど、とにかく全員無事だから安心して。この爆発は、裏で糸を引いている人間を騙すための目くらまし。そこら辺に散らばってる肉片は、適当に討伐した魔物のものよ。ちょっと刺激が強すぎたかしらね》
適当にって。
…そうだった。アンガーミュラー家の関係者は、大体こんな感じだった。
貴族の常識に当てはめてはいけないのだ。
思わず全身の力が抜けそうになり、私は慌てて意識を集中する。
シルクは『この念話は貴女にしか聞こえていない』と言っていた。
これは、他の誰にも気付かれてはいけない秘密の会話なのだ。
《クリスは、この件に貴女が関わっていると踏んでるわ》
(…ああ、やはり)
今回の呼び出しの目的が、『クリスと会いたいから』ではなく、呼び出す事そのものだったと気付いているのだろう。
《誰かに強制されたんでしょう? ケヴィン関連だと思うけど》
ずばり指摘されて、私は思わず視線を下げる。
《責めるつもりは無いから安心して。──貴女には、協力をお願いしたいの》
(協力?)
《貴女がどうこの件に関わっていたのか。貴女にそれを指示したのは誰なのか。経緯を洗いざらい教えて欲しいのよ》
それは当然の要求だった。
貴族家の馬車が爆発に巻き込まれたのだ。
調査が入るのは当然だし、犯人を捜して罰するのは当たり前の事だ。
──だがそうなった場合、ケヴィンはどうなる?
自分が罰せられるのは構わない。
けれど、それでもしケヴィンと引き離されてしまったら──あの子を守ってくれる人間が居なくなってしまう。
《もう一度言うけど、貴女を責めるつもりは無いわ。むしろ、その逆。貴女とケヴィンが安心して暮らせるように、協力して欲しいの》
私の迷いを見透かしたように、シルクは言った。
《よく考えて頂戴。今の貴女とケヴィンの暮らしを脅かしているのは誰? クリス? マーカス? …違うでしょう? ──貴女たちを良いように使ってその立場を危ういものにしているのは、貴女の後ろで指示を出している『どこかの誰か』だわ》
私とケヴィンの暮らしを脅かしているのは、誰か。
(…あ……)
シルクの言葉がゆっくりと心に届き──視界が晴れた。
──そうだ。
『あの方』は私に一方的に指示を出し、『ケヴィンを守るためなのだ』と耳触りの良い事を言っていたが。
あの子を育てる私が犯罪まがいの行為に手を染めて、一体何が『ケヴィンを守る』事に繋がるのだろう。
私が『あの方』の指示に従っていれば、『あの方』がケヴィンを貴族社会の厳しい眼から守ってくれる?
…『あの方』はケヴィンに会いに来た事すら無いし、成長を気にする素振りも無いのに?
──私が従うべきは、本当に『あの方』の言葉なの?
(…何も、考えていなかったのね、私は…)
ただただ、思考を停止して、言われるがままに動いていただけだった。
──そんな必要、無かったのに。
《もし協力してくれるなら、この爆発の件に絡めて、クリスとマーカスの身を案じる手紙でもアンガーミュラー家の当主宛てに送って頂戴。その手紙に、あの暗号で経緯を書いてくれると助かるわ》
あの暗号。
子どもの頃にクリスたちと編み出した、装飾のように見える絵柄を使った暗号の事だ。
子どもの遊びが今に活きてくる事に、内心で笑ってしまう。
《それじゃ、私はこれで。くれぐれも気を付けて──貴女以外の人間に、気付かれないようにね》
そう忠告して、シルクの念話が途切れた。
私は悲痛な表情を作って立ち上がり、帰りましょう、とメイドに声を掛ける。
「お嬢様、顔色が…」
多分今、血の気が引いた顔をしているのだろう。
心配してくれるメイドに、私は小さく頷いた。
「大丈夫よ。──行きましょう」
ここで立ち止まっている暇は無い。
考える事も、やるべき事も、山ほどある。
感情の浮き沈みが激しすぎて身体がついて行っていないが、思考は驚くほど澄み渡っていた。




