16 ユーフェミアとケヴィン
「──ところで…」
ひとしきり紅茶とクッキーを堪能した後、ユーフェミアは少し躊躇いながら話題を変えた。
「…クリスも王宮を辞めたと聞いたわ。その、嫌な思いをしたのではないの?」
嫌な思い。
咄嗟に思い出したのは、アードルフの無能っぷりと理不尽な言動だ。
仕事をしていた当時はあまり意識していなかったが、故郷に帰って来た今、あれにいかに多大なストレスを受けていたか実感している。
が、彼女の言う『嫌な思い』というのは、それとは少しニュアンスが違う気がした。
「嫌な思い、ですか。…私は一方的に解雇されたので、まあそれが一番嫌でしたね」
「一方的に解雇された?」
私が言葉を選びながら答えると、ユーフェミアは目を見開いた。
私が辞めたとは聞いていても、その顛末については知らなかったらしい。
「ええ。実は──」
簡単に経緯を説明すると、見る見るうちにユーフェミアの表情が曇って行った。
「それは…家の名で王宮に抗議すべき案件ではないの?」
今までの働きを蔑ろにされたこと。
無茶苦茶な理由で解雇されたこと。
どれも表立って抗議して良い内容だ、と、ユーフェミアは指摘する。
私は苦笑した。
「私の解雇で最終的に困るのは、解雇した側の人間ですから。事の顛末はユリウス殿下に報告してありますし、後はあちらの仕事です」
何より、
「これ以上、あのバカ──失礼、理不尽で癇癪持ちで仕事のできない元上司に関わるのも時間の無駄ですし」
「表現がひどくなっているのは気のせいかしら…」
気のせいだ。
気のせいだと思っていただきたい。
「でも、そうね。確かに、時間の無駄ね…」
呟くユーフェミアの目線は、どこか遠くを見詰めていた。
(何があったの?)
訊き掛けて、咄嗟に口を噤む。
会うことの無かった4年と少しの間、ユーフェミアが何をしていたのか、私は知らない。
王宮で一緒に働いていた頃だって、毎日顔を合わせていたのは最初の研修の時だけで、第2統括室に配属されてからはたまに廊下ですれ違い、挨拶するくらいしか接点が無かった。
体調不良で王宮文官の仕事を辞めたユーフェミア。
見た目3、4歳ほどの、ユーフェミアとよく似た面差しのケヴィン。
一方で、彼女が結婚したという話は聞かない。
そこから推測できることは色々あるが──無用な詮索だ。
「姉上―!」
いつの間にか、マーカスたちはすぐ近くまでやって来ていた。
どうしてそうなったのか、四つん這いになったマーカスの背中にケヴィンが馬乗りになっている。
情けない悲鳴を上げたマーカスは、そのまま呻いてべしゃっと地面に突っ伏した。
ケヴィンが振り落とされないようにギリギリ気を配っているのがマーカスらしい。
「あーっ、まだだよー!」
潰れたマーカスの上で、ケヴィンが唇を尖らせる。
しかしマーカスは色々と限界だったらしく、呻くばかりで体勢を立て直す様子が無い。
「…日頃の運動不足が祟っていますね」
ぼそり、私が呟くと、
「……これはそういう問題じゃないです、姉上…」
大変恨みがましい眼で睨まれた。
「ケヴィン、降りなさい。どうしてそんな事になっているの」
ユーフェミアが焦った表情で言うが、ケヴィンは頬を膨らませてそっぽを向く。
「だってマーカスが『できる』って言うから」
「言ったんですか、マーカス」
私が問うと、マーカスもさっと視線を逸らした。
「…言いました」
「じゃあ仕方ないですね。頑張ってください」
「姉上の薄情者」
「言った事の責任は持ちましょうという話ですよ」
「ぐっ…」
言葉に詰まったマーカスに、シフォンが同情の視線を向ける。
《マーカス、私が補助しますから》
「ありがとなー、シフォン。優しいのはお前だけだよ…」
シフォンに身体強化の魔法を掛けてもらい、ケヴィンを背中に乗せたまま、マーカスは気合いの声と共に四つん這いの体勢に戻った。
「やってやるわー!」
「わあっ!」
ケヴィンがはしゃいだ声を上げると、マーカスはぼそりと呟く。
「あー、ケヴィン君。人の背中に乗っている時は、大人しくしているように」
「わかった!」
元気に返事しているが、分かっているのかいないのか、足をばたつかせている。
マーカスは悟ったような表情になり、ケヴィンを背中に乗せたまま庭に向かって去って行った。
「………本当にごめんなさい……」
穴があったら入りたい、という感じだろうか。
ユーフェミアがテーブルに突っ伏す勢いで頭を下げる。と言うか、そのまま顔を上げられないでいる。
「大丈夫ですよ、ユーフェ。ほら、子どもの頃は私たちも色々とやんちゃしていたじゃないですか」
ファーベルク伯爵家の本邸で、庭師が止めるのも聞かずにリンゴの木に登り、その場でリンゴをもいで食べたり。
訓練と称して庭で武器を振り回し、覚えたばかりの魔法を乱発して花壇を滅茶苦茶にしたり。
カーペットを外して磨き上げられた廊下が『スケートリンクみたいだ』と言い出して、助走をつけて滑りまくって使用人たちを混乱の渦に巻き込んだり。
「………ケヴィンは大人しい方だと思いますよ、本当に」
指折り数えて幼少期の思い出を並べた結果、私はそっと視線を逸らす事になった。
厳密には、今のケヴィンは当時の私たちより若干幼いので、単純に比較はできないのだが。
ユーフェミアが顔を上げ、遠い目になる。
「…そうね…。何だか大した事無い気がしてきたわ」
今でこそ『淑女の鑑』と言われるユーフェミアだが、身内の間では幼少期のやんちゃ振りは伝説になっている。
『過去』の記憶があるせいで他の子どもとは一味も二味も違う生活を送っていた私やマーカスにとっては、彼女と交流する時間が、一番子どもらしい遊びをする時間だった。
…その『子どもらしい遊び』が、どうやら色々と度を超えているようだと気付いたのは、思春期に入ってからだが。
「道理で、ばあやが平然としているわけだわ…。私と比較してたのね、きっと」
ユーフェミアの乳母をしていた女性が、ケヴィンの世話をしてくれているのだという。
若いメイドたちはケヴィンの行動に振り回されているが、その乳母だけは『懐かしいですね』とにこにこと笑っているらしい。
「ああ、それは間違いなく思い出していますね」
高齢になると、昔のことをよく思い出すと言うし。
私が頷くと、ユーフェミアは嬉しさ半分恥ずかしさ半分──いや、恥ずかしさ9割といった表情になった。
昼食をご馳走になった後、私とマーカス、シルクとシフォンはファーベルク家の別荘を辞し、帰路についた。
「…姉上」
軽快に走る馬車の中、マーカスが難しい顔で呟く。
「何ですか、マーカス」
「…ケヴィンは、ユーフェミア嬢の息子ですよね?」
ずばり言うマーカスに、私は殊更ゆっくりと首を傾げた。
「どうしてそう思うのですか?」
「顔立ちがそっくりじゃないですか。それに遊んでいる間、ケヴィンは何度かユーフェミア嬢の事を『母上』と言い掛けていました。その度に使用人が焦っていましたし」
ケヴィンに潰されていた割に、よく観察していたようだ。
「そうですね…私もそう思います」
私が頷くと、隣で丸まっていたシルクも片目を開けた。
《私も同感よ。魔力の質がよく似てたわ。兄弟や従兄弟じゃ、あそこまで近くはならない》
シルクまでそう判断するのなら、ほぼ確定だろう。
問題は、
《あの…でも、それじゃあ、ユーフェミア様の旦那様は誰なんですか?》
そこである。
ユーフェミアが結婚していたのなら、父や母が教えてくれないはずがない。
少なくとも、王宮に勤めて故郷に居なかった私だけならともかく、マーカスが知らないのは有り得ない。
となると、
「恐らく結婚はしていないでしょう。ケヴィンは私生児という扱いでしょうね」
「それって…」
《…いばらの道ね》
貴族階級の私生児は好奇の視線に晒される一方、激しく嫌悪され、あからさまな差別を受ける。
…平民の私生児であれば平穏無事に暮らせるという保証も無いが。
ユーフェミアがケヴィンの母親だとしたら、『産む』という決断をするのに、どれほどの勇気と覚悟が必要だったか。
「…強い女性ですね…」
「だから好きになったのでしょう?」
「………姉上、過去の話を持ち出さないでください」
マーカスがあからさまに視線を逸らした。
はて、果たして本当に過去の話なのだろうか。