12 悪夢と記憶
※パワハラ描写があります。苦手な方は読み飛ばしてください。
──
『ちょっと○○さん、これ何?』
『課長からご指示があったデータです。言われた通り、AからDまでの情報抽出して担当別に振り分けて統計取ってます』
『何で今頃来るんだよ!?』
『え?』
そもそも、期日指定されてないけど?
いつまでですかって聞いたら、『急ぎじゃないから』って言ってたよね?
それにそのデータ、依頼された翌日に仕上げてメールで送って、印刷したやつも課長の机の上に置いて、『できましたので確認お願いします』って口頭でも伝えたはずなのに。
何で1週間以上経った今頃『これ何?』とか訊いて来るの?
『……っもういい。ホント使えねぇな…』
『……』
聞こえてるぞ。
あと、使えないのは穴だらけのあんたの指示だ。
『○○さん、今暇?』
ああ、何か聞きたいんだな。こういう時だけ猫なで声なんだよなあ、この人。
『暇なわけないですけど何ですか、課長』
『これなんだけどさ』
『ああ、これはここを選択して──』
私、何回同じ事教えれば良いんだろう。
表計算ソフトの基本操作くらい、いい加減覚えて欲しいんだけどな。
私は課長にパソコン教える係じゃないんだけど。
いい加減『ネットで調べる』って方法も覚えて欲しいんだけど。
『○○! ちょっと!』
今日は機嫌が悪いのか。さっき何か別部署から無茶振りされてたみたいだもんな。
『何だこのデータ! 顧客要求と全然違うってクレームが来たぞ!』
『『AからDまでとSからZまで、過去3年分のデータ処理』っていう、課長のご指示通りに作ったと思うんですけど…?』
『俺はそんな事言ってない!』
出た、『そんな事言ってない』。
そもそも自分が言った事覚えてないもんね、あんた。
『この指示書通りに仕上げろって言っただろ!』
何それ聞いてない。
だってそもそも、
『…私その紙、今初めて見ましたけど』
あんたの手元に指示依頼書があるのに、何で私が顧客要求通りの仕事が出来ると思うんだ。
『うるさい! 良いからやれ! 今月中だからな!』
『はあ……分かりました』
今月中か。
依頼内容は…うげっ、本当に全然違う。一体何見て最初の指示出してたんだあのオッサン。
しかもよく見たら、納期過ぎてからこっちに話振ってたのな。
依頼書、ずっとオッサンの机の上で放置されてたって事か。
急ぎだって言うから滅茶苦茶頑張ったのに、そもそもとっくの昔に期日過ぎてたんじゃん…。
何、この徒労感。
今週こそは家に帰れるかと思ってたんだけど…こりゃ会社でお泊りの20連勤確定か……。
…ああ、もう。
──
「手前ェがやれ、クソ野郎」
目を開けたら、薄闇に浮かび上がる、柔らかな木目が美しい天井。
ふんわりと体を覆う羽毛布団は、肌触りも抜群だ。
…ひどい寝汗をかいていなければ、だが。
「…ああ…最っ悪」
《素が出てるわよ、クリスティン》
状況を理解して悪態を吐いていると、シルクがベッドに飛び乗って来た。
《すごい汗ね。さっくり洗ってあげるから、ちょっと立って頂戴》
言われるがまま、ベッドから出て立ち上がる。
汗で肌に貼り付いた髪や寝間着がとても気持ち悪い。
(最近は見なくなってたのに…やっぱり疲れが溜まってたのかな…)
ぼーっとした頭で先程の夢を反芻していると、ドボンという音と共に全身が水に包まれた。
それも一瞬だ。
すぐに水は幻のように消えて無くなり、暖かな風が速やかに水気を取り去って行く。
水・火・風属性の連続魔法。シルクの得意とする洗浄魔法だ。
…得意になった経緯が、『クリスティンがやたら汗だくになったり全身泥まみれになったりするから』なあたり、ちょっと申し訳ない気もする。
《はい、きれいになったわ》
「ありがとうございます、マダム・シルク」
風がおさまり、元の柔らかな手触りに戻ったダブルガーゼの着心地に、ほっと息をつく。
綿のダブルガーゼの長袖長ズボン。
貴族らしからぬ上に色気もへったくれも無い寝間着だが、うちの家族は全員コレである。
保温性に優れ、汗を吸いやすく、寝返りを打っても邪魔にならない。
保湿性では絹に劣るが、絹はもっと南方の領地の特産品だ。お値段と性能を天秤に掛けた結果、うちは綿に落ち着いたらしい。
私としては、『昔の記憶』とあまり変わらない『パジャマ』が大変嬉しい。
《『昔』の夢でも見たの?》
ベッドに座った私の隣に、シルクがちょこんと座る。
琥珀色にも見える金色の目は、薄明りの下でもとてもきれいだ。
「ええ、『大昔』のダメ上司のエピソードを少々」
──昔の記憶。
私には、『クリスティン・アンガーミュラー』として生まれる前、別の世界で生きていた記憶がある。
当時の『私』は、天涯孤独。
都会の企業に就職したは良いが、そこは典型的なパワハラ上司が蔓延るブラック企業だった。
聞えよがしな舌打ち。
『使えない』『だからお前はダメなんだ』といった人格否定。
当たり前のように押し付けられる連日の残業や休日出勤。
しかもその就業時間外の業務の大部分が、上司の指示ミスや情報共有ミスのせいで発生しているのだから笑えない。
それを全部部下の──つまり私たちのミスだと上役に報告し、『私がきちんと言って聞かせますので』とか言っているのを耳にした日には、後ろから刺してやろうかと思った。
挙句の果てに、これまた上司の尻ぬぐいで発生した帰宅不能の20連勤の最終日、3日間の徹夜が終わる明け方頃、『私』は強い胸の痛みを覚えて倒れ、そのまま死んだ。
多分、連日連夜の激務にストレスが重なって、心筋梗塞でも起こしたんだろう。
明け方、私以外誰も居ないオフィスで死んだから、多分警察と労働基準監督署の調査が入る。
それであのダメ会社がペナルティを喰らうと考えれば、ちょっとは留飲も下がるが。
「…今考えると、『昔』のダメ上司とものすごくよく似てるんですよね…」
《誰が?》
「王宮の方のダメ上司です」
《…ああ、なるほど》
「人格否定をするような暴言を頻繁に吐いたりしない分、王宮のダメ上司の方が幾分マシだったような気もしますが」
《…そうかしら………?》
シルクが大きく首をひねった。
…まあ、『クリスティン・アンガーミュラー』の精神が鋼のような強靭さを持っているから受け止め方が違う、という説もなきにしもあらず。
とにかく、ろくでもない過去だが、一応メリットもある。
私が現在、文官として改善業務に従事できているのは、『あの頃』の記憶があるからだ。
『私は絶対にああいう風にはならない』『私だったらこうする』という、反面教師的な扱いである。
──ちなみに、こういう恩恵を受けているのは私だけではない。
アンガーミュラー家は特殊な家系で、本家筋の大部分の人間は『過去』の記憶を持って生まれて来る。
今の我が家で言うなら、父、ハロルド・アンガーミュラーは趣味で古武術を嗜むサラリーマンだったらしいし、弟のマーカスは機械系の技術者だったという。
今現在、父は大剣を軽々と振り回す武闘派として名を馳せ、マーカスはこっそりと魔法道具の解析・改造に掛けては右に出る者が居ない技術者になっている。
過去の記憶をそれなりに活用した結果だ。
アンガーミュラー家は、そうやって『過去』の記憶を活用してひっそりと発展してきた。
他の領地では見られない独自の技術や知識も、元を辿ればアンガーミュラー家の『記憶』から来ているものが多い。
ただ…
「……どうせ『過去』の記憶を引き継ぐなら、必要な部分だけ残して、ダメ上司のろくでもないエピソードとかはきれいさっぱり忘れさせて欲しかったですね…」
《そう上手くは行かないわよ》
世の中、ままならないものである。