おまけ⑮【ジャスティーン(母)視点】ヴィクトリアの挨拶(1)
ジャスティーン(クリスティンの母)視点。アフターストーリー終了後のお話です。
クリスティンが南の街から『ヴィクトリアとの婚約』という衝撃の知らせを持ち帰ってから、3ヶ月と少し。
アンガーミュラー領は、霜が薄ら降りる季節になっていた。
ハロルド様は、今日は朝から落ち着きなく歩き回っている。
「ハロルド様、こちらの書類を処理してしまいましょう」
「あ、ああ。そうだな」
私が声を掛けると、ハロルド様はぎこちない動きで頷いた。
顔が強張っている。緊張しているのが手に取るように分かった。
(仕方ないのでしょうね…)
かく言う私も、朝から何度も窓の外──街の方を確認している。来客があるとすれば、そちらから馬車を使って来るからだ。
──来客。
今日はヴィクトリアが、正式にクリスティンの婚約者として挨拶をしに来ることになっている。
本来なら、貴族の婚約はお互いの家の同意の下に結ばれる。
婚約してから相手の家に挨拶に来るのでは、順序が逆だ。
しかし、ハロルド様と私はそれを指摘できる立場にない。
私は昔、事前の根回しも一切無いまま、ある日突然アンガーミュラー家に『ハロルド様の嫁』としてやって来たのだ。
…若気の至りと言えばそれまでだけれど…お義父さまもお義母さまもお義祖母さまも、よく私を迎え入れてくれたものだ。
先日クリスティンから婚約の報告を聞いた後、ハロルド様と私はお義父さま方の墓前に謝罪に行った。
ハロルド様と共に墓石の前で平謝りしたけれど、ちゃんと届いただろうか。
窓越しに空を眺めていると、視界の端に馬車が映った。
「あら…」
その馬車は、こちらに向かって走っている。形からして、街の運び屋の持ち馬車だ。
「来たようですね」
「!!」
私が呟くと、ハロルド様はビクッと肩を揺らした。
とても分かりやすい。
使用人たちも気付いたらしく、にわかに屋敷内が慌ただしくなった。
「昼食の準備は?」
「出来てます!」
「ホールと応接室の掃除は──大丈夫だな!」
「裏方の連中にも声を掛けろ!」
「はい!」
抑え気味の声で状況を確認しながら、使用人たちがホールへと足早に歩いて行く。
廊下が少し静かになってから、ハロルド様と私は執務室を出た。
階段を降りると、玄関ホールに使用人たちが集合していた。執事やメイドだけではなく、料理人や庭師、非番の狩人たちまで揃っている。
玄関扉に向けて職業別に整列する様は、私たちから見ても壮観だ。
『ヴィクトリア様を迎える時は、参加可能な全員で迎えたい』と執事が提案してきた時は驚いたが、こうして見ると使用人たちの歓迎ぶりがよく分かる。
「父上、母上」
2階からクリスティンとマーカスがやって来た。
2人とも、今日は流石にいつもの格好ではない。
マーカスは魔法道具改造用の作業着ではなく、濃い色の略式正装。
クリスティンは黒紺の北方絹で作られたアンガーミュラー家の正装だ。
折角なのでドレスを着なさいと言ったのだが、『私らしい服装ならばドレスではなくこちらです』と譲らなかった。
…考えてみれば、クリスティンは一般的な貴族女性が着るドレスをあまり好まない。
他家を訪問する際など、礼儀が必要な場面ではきちんとドレスを着るし、立ち居振る舞いも完璧だが、家で好んで着るのはボリュームの出ないロングスカートかロングパンツに飾り気の無いブラウス、ベストといった組み合わせだ。
書類作業に邪魔だから、らしい。
とてもクリスティンらしいが、私としてはもう少しお洒落に関心を持っても良いのではと思ってしまう。
──そんな事を考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
執事がすぐに扉に手を掛け、使用人たちが背筋を正す。
「こんにちは」
扉が開き、ヴィクトリアの笑顔が見えた瞬間、使用人たちが一糸乱れぬ動きで頭を下げた。
『お帰りなさいませ、ヴィクトリア様!』
いらっしゃいませ、ではなく、お帰りなさいませ。
ヴィクトリアが昔我が家に滞在していたから──というのもあるが、クリスティンの婚約者、つまりアンガーミュラー家の身内としての扱いだ。
ヴィクトリアは大きく目を見開いて固まった。
数秒後、その顔にゆっくりと喜色が浮かぶ。
「──ええ。ただいま」
ヴィクトリアの返礼を受けた使用人たちは、各々顔を上げ、笑みを浮かべる。
少し驚いた顔をしているのは、ヴィクトリアと面識の無い、若い使用人たちだ。
昔のヴィクトリアを知っている者たちから話は聞いているのだろうが、実際目にするとまた違うのだろう。
ホールに入って来たヴィクトリアに、クリスティンが歩み寄った。
「お帰りなさい、ヴィクトリア」
「ただいま、クリス」
クリスティンはいつもの微笑で、平然としているように見えるが、雰囲気が驚くほど柔らかい。
ヴィクトリアは言わずもがな。蕩けそうな笑顔だ。
「今日はアンガーミュラー家の正装なのね」
「ええ、特別な日ですから」
「ドレスは着ないの?」
「あら、この服は似合いませんか?」
あからさまに話を逸らすクリスティンに、ヴィクトリアが渋面を作った。
「滅茶苦茶似合ってるわよ。だから困るんじゃない。アタシ、貴女のドレス姿楽しみにしてたのよ?」
「ええ……」
クリスティンが面倒臭そうな顔をする後ろで、複数の使用人がこくこくと頷いている。
…さり気なく、ハロルド様も深く頷いている。
とりあえず──今のヴィクトリアとは、大変話が合いそうだ。
私は笑顔を作って一歩踏み出した。
「久しぶりですね、ヴィクトリア」
「ジャスティーン様、お久しぶりにございます」
ヴィクトリアはすぐにこちらに向かって頭を下げ、改まった態度でハロルド様に向き直った。
「ハロルド様、お久しぶりにございます。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
「…うむ」
ハロルド様は厳めしい顔で頷いた。
「ヴィクトリア、以前のような口調で構いませんよ。これから身内になるのですから、変に気を遣わないでくださいな」
私が言うと、ヴィクトリアはぱっと表情を明るくした。
「そう言ってもらえると有難いわ」
雰囲気がぐっと和らぐ。
それに触発されたのか、メイド長が進み出て来た。
「クリスティン様。よろしければ、お召し替えを」
メイド長はヴィクトリアが我が家に滞在していた頃からうちで働いている。
ヴィクトリアの良き理解者であり──クリスティンが逆らい難い、稀有な存在でもある。
「折角ヴィクトリア様がお帰りになったのですから、ご要望にお応えするのも良いのではと」
「ですが、ドレスの用意は──」
「お任せください。ドレスに靴にアクセサリー類一式、職人たちが張り切ってご用意しております」
「え」
クリスティンが固まった。
自分が何も言っていないのに、職人たちが示し合わせて衣装を用意しているなどと予想はしていなかったのだろう。
…私やハロルド様が知ったのも、つい先日ですからね…。
マーカスが肩を竦めた。
「姉上、職人たちの好意を無下にすることはないでしょう。ヴィクトリアは私たちが歓待しておきますから、行ってきてください」
「……」
クリスティンが無言でマーカスに圧を送るが、
「ほらクリス、行ってらっしゃい。楽しみにしてるから」
「……はい」
ヴィクトリアが促すと、あっさりと頷いた。