1 上司を見限った日
その日の仕事は、いつもと同じだった。
強いて違いを挙げれば、何度言っても直らない誤字に堪忍袋の緒が切れて、『そちらで修正して再提出をお願いします』と書類を人事部に突っ返したくらい。
それも、間違っているのがよりによって他部門のトップの名前だし、もう10回以上こっちで修正しているし、そのたびに『違いますよ』と伝えているのにいつまで経っても是正されなかったから、本来の流れとして再提出をお願いしただけ。
多少苦情は来るかも知れないと思ったから、一応身構えてはいたけれど。
まさか、こう来るとは。
「──聞いているのかね!? クリスティン君!」
目の前で怒鳴られ、私は無理矢理意識を現在に戻した。
「ええ、聞こえておりますよ、アードルフ室長」
冷静に応じれば、目の前の男──王宮統括部第2統括室の室長、アードルフは、腕組みして肩を怒らせた。
「ならば、言い訳を聞こうか。人事部の書類受付を放棄したというのはどういう事かね」
「放棄した? それは──」
放棄したのではなく、『そちらで修正してください』とお願いしただけだ。
受け付けないとは言っていない。
言い掛けたが、アードルフはそもそもこちらの言い分など聞く気は無いようだった。
こちらの言葉を遮り、続ける。
「君は書類仕事に定評があった。だが、それを放棄すると言うのなら、我が第2統括室で雇い続ける価値は無いのだよ」
言うに事欠いて、『雇い続ける価値は無い』とは。
あまりの言い草にこちらが絶句していると、アードルフは勝ち誇った表情で言い募った。
「君には期待していたのだが、残念だ。実に残念だ。正規雇用に切り替えるという話もあったのだが、それも他の有期雇用者とは違う仕事をしていたからだ。それを放棄すると言うのなら、全て白紙に戻すしかないな」
何度も練習してきたのかと勘繰りたくなるほどアードルフは饒舌で、やたら芝居掛かっていた。
いや、もしかしたら本当に自宅で練習していたのかも知れない。この男ならやりかねない。
「…お話は分かりました」
なおも酔ったように『期待していたのに』『お前が仕事を放棄したのだ』と繰り返すアードルフに、私は努めて冷静に頷く。
…『君』から『お前』呼びになっているあたり、本心が透けていますよ、室長。
「それで、私に何をお望みでしょうか?」
好かれていようが嫌われていようが、私、クリスティン・アンガーミュラーは第2統括室所属の有期雇用者だ。
指揮命令者はアードルフ・フォルスター第2統括室長で、雇い続けるかどうか決定する権限も、彼が持っている。
(まあ、この流れでこいつが何を言うかって、大方決まったようなもんだけど……おっと、口調口調)
内心呼吸を整えていると、アードルフはこの日一番の大変イラつく笑みを浮かべた。
「クリスティン・アンガーミュラー君。仕事を選り好みするような者は、我が部署に必要無い。今日をもって、君を解雇する。今まで大変ご苦労だった」
(……は?)
今日をもって解雇。つまり、明日から来なくて良いと。
斜め上を行く発言だった。
目をしばたいただけで衝撃を流した自分を褒めてやりたい。
(今日付けで辞めろって…冗談でしょう?)
目の前でふんぞり返っているアードルフを見る限り、冗談でも夢でも幻でもなさそうだが。
有期雇用者の雇用契約を解除する場合、2週間以上前に申告するのが常識だ。
それは、雇用される側が言い出す場合であっても、雇用者側が言い出す場合であっても変わらない。
この王宮では規則として文書化されていないため、厳密には当日解雇もルール違反ではないが、仕事の引継ぎなどを考えると最低でもそれくらいの期間は必要なのだ。
(やっぱり有期雇用者の就業規定をさっさと作っておくべきだったかしら…)
思考が明後日の方向へ飛んでしまう。
──現実を見よう。問題は、今、この場をどう切り抜けるかだ。
「アードルフ室長、今日付けは流石に…仕事の引継ぎもありますから、最低でも1ヶ月は猶予をいただきたいのですが」
ここからは期間の交渉だ。
こちらの事情も聞かず、ただ契約を切ると言い放つ相手に対して、どこまで譲歩を引き出せるかは分からないが──
「引継ぎ? なに、心配は要らん」
アードルフは鼻で笑った。
「お前の仕事は、私が引き継ごう。全て把握しているからな」
「………は?」
す べ て 把 握 し て い る ?
思わず間抜けな声が出てしまった。
(え、じゃあ何? こいつが間違った書類をこっそり作り直してサインするだけの状態にしてこいつの机の上に置いていたのとか、本来こいつがやるべき四半期ごとのデータを関係各所から集めて統計して全部まとめて報告を上げるのとか、不正の発見と通報と事後処理とか、日々の膨大な書類の処理とか、他のメンバーの補助とか、各種書類の書式改訂とか、各種規程類の照合と修正案作成とか、法令関係の情報共有とか……全部把握しているとでも言うの?)
今まで自分が携わって来た仕事の数々が脳裏を過ぎる。
ついでにここ数年の──具体的には、アードルフが室長になってからの仕事の配分を思い返して、はたと気付いた。
(………半分以上こいつの尻ぬぐいになってるわね)
なら良いか。
一瞬で感情が凪いだ。
元々、アードルフが自分で何とかすべき事を、私が肩代わりしていたのだ。
ならば、本来やるべき者のところに仕事が戻ったとして、何も問題はあるまい。
…残りの何割かは私独自の仕事だが、一応こういう状況を想定して一部対策は打っていたし、それでもカバーできない部分はアードルフがやると自信満々に言っているのだ。
何とかしてもらおうではないか。
「色々と思うところはあるだろうが、もう既に書類手続きは済んでいる」
数秒の沈黙に何を思ったか、アードルフはにやにやと笑いながら応接室の机の上に1枚の書類を置いた。
雇用契約満了通知書。有期雇用者の契約が打ち切られる時に発行される書類だ。
既に、直属の上司であるアードルフと、人事部長のサインも揃っている。
(ああ、なるほど。私が書類を差し戻したのは、人事部だったものね)
多分、誤字を指摘された人事部長がアードルフに泣き付いて、これがチャンスとばかりに2人で共謀してこの書類を作ったのだろう。彼らは同じ派閥に属する貴族だし、煙草仲間でもあったはずだ。仲良キコトハ美シキカナ。
「王歴327年2月16日をもって、クリスティン・アンガーミュラーの雇用契約を終了とする。王歴327年2月16日、王宮統括部第2統括室長アードルフ・フォルスター…」
書類に書いてある文章を読み上げてみる。こういう時に限って誤字も脱字も無いのが腹が立つ。
…まあ、手続き的には何ら問題は無い。私の人事権はあくまでアードルフが握っていて、人事部での処理で全ては完結するのだから。
ただ──彼らはそれで良いのだろうか。
特に人事部長は、私が雇用された経緯をある程度知っているはずだが。
…いや、もういい。
この書類が完成している時点で、全ては後の祭りだ。
「お話は分かりました」
業務用の笑顔を貼り付けて、私はアードルフに頭を下げる。
「それでは、私は今日付けで退職いたします。今まで大変お世話になりました。私物は今日中に搬出いたします。これから関係各所にご挨拶に伺いたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「あ、ああ、構わん」
私が関係する部署は多岐にわたる。
もう少しでお昼になるし、今日中に全て回り切るなら今すぐにでも動き出さねば間に合わない。
(まずは統括部長に挨拶を…人事部はこいつとグルだし省略しても良いかしら。同僚たちにはお昼休憩に集まってもらうしか無いわね。全員揃ってくれると良いんだけど…)
「ああ、そうだ」
席を立った瞬間、アードルフが声を上げた。
「まだ何か?」
振り返ると、最早意地の悪い顔を隠そうともしなくなった男が、大変嫌な笑みを浮かべていた。
「寮の部屋も今日付けで解約だ。特別に明日まで待ってもらえる事になっているが、明日には退去するように」
「…………承知いたしました」
その顔面に右ストレートを叩き込みそうになったのを、貴族令嬢のなけなしのプライドで抑え、私は殊更丁寧に頭を下げた。
禿げてしまえ、クソ野郎。
お仕事って疲れますよね。
※なお、上司のステキ発言は
実際の人物・出来事等とは関係アリマセン。