三十一、選んだ世界
咲音の家へ向かう足取りは重かった。
躰の痛みもあったが、それよりも彼女に別れを告げなければならないことが辛かった。
未だ覚悟の定まらないまま彼女の家の扉を叩く。
「……ん?」
辺りはすっかり暗くなっていたが、咲音が家にいるような気配は無かった。
もし出掛けていたとしても、家で会う約束をしていたのでこの時間には帰ってきているはずだった。
「……まさか……」
嫌な予感が胸中に渦巻き、忘れもしないあの日の事を思い出す。
「っ!」
腕の痛みを忘れて、急いでポソリ山に向かう。
星影がこの世界にも現れるとは考えたくなかったが、最悪の事態を考えてしまう。
「はぁっ……はぁっ……!」
ポソリ山にある花壇まで走り、咲音の姿を探す。
その眼はすぐに咲音の後ろ姿を捉える。
元気そうな姿に安心してほっと胸を撫でおろした。
「咲音!」
「……諦止?」
「こんな時間にどうしてこんな所にいるんだ? もし何かあったら――」
そこまで言ってから、咲音に会いに来た目的を思い出す。
夢霞の見せるこの世界が夢幻の世界なら、咲音への一言がこの世界を、延いては咲音を殺す結果になるという事に気付く。
「何かあったらって?」
「ん、ああ……そう、だな」
後ろめたさから顔を直視することができず、口篭りながら咲音の手元に視線を落とす。
彼女の手には一輪の花があった。
それは、あの日も咲音が摘みに来ていたアングレカムの花だった。
「その花……」
「あぁ、うん。花を摘みに来てたんだ。約束の時間に間に合うように急いだんだが、もうそんな時間だったか……」
「それなら明日の朝でも良かっただろ? なんでわざわざ夜に――」
「今日じゃないと間に合わないだろうなと思って」
「間に合わない?」
「……私に隠し事ができると思ってるのか?」
「まさか……」
殺人を犯そうとしている事を知っていた父の言葉を思い出し、まさか咲音もと思う。
父だけが知っているわけがない。薄々とそんな予感はしていたが、咲音には知らないでいてもらいたかった。
「だから、その前に言っておきたい事があったんだけどな」
「……たとえ咲音の言葉でも、俺は考えを変えるつもりは無い……」
顔を直視できないまま、言葉とは裏腹に弱々しく答える。
「……分かってる。その事については諦止のご両親が説得に失敗した時点で諦めがついてる。私が言いたい事はそのことじゃない」
「……なにを?」
「でもその前に!」
咲音は暗い空気を壊すように人差し指を空に掲げる。
普段見せない行動に無理をしているのだという事に気付き、胸が痛む。
そんな咲音に釣られて空を見上げると、そこには満天の星空があった。
「綺麗な空……。こんなに綺麗な星空を諦止と一緒に見ることが出来るなんてな。普段あまり空を見ないから気付いていなかっただけだったのかな」
「咲音……」
感慨深そうに呟く咲音の顔を見ると、その目尻には薄っすらと涙が浮かんでいた。
そんな彼女にかけたい言葉は山ほどあったが、今の自分にそんな資格があるとは思えなかった。
「っ……!」
「……諦止」
そんな様子を見てか、悲しみを帯びた表情で咲音は見つめてくる。
そして、微かに笑いながら口を開く。
「さっき言おうとしたこと、なんだと思う?」
「……すまん、分からない……」
「はぁ、本当に鈍感だな。……プロポーズ、まだされてないんだけど?」
照れくさそうに視線を外しながら告げてくる。
「っ、でもプロポーズされたってこの前――」
「あの時は確かにそう感じたんだけど、よく考えると何も思い出せなくて。諦止は覚えてるの?」
「いや、実は俺も覚えてないんだが……」
「そ、そうなんだ」
咲音はそう言って黙り込む。
その言葉を待っているようだった。
だが、今ここでプロポーズをすれば、この世界を受け入れるということになるのではという思いがあった。
少なくとも、夢霞は拒絶とは受け取らないだろう。
心を氷のように凍てつかせる。
考えれば考えるだけ、その言葉を言えそうになかったので、出来るだけ心を殺す。
そして、咲音に向かって、どこかで聞いているであろう夢霞に向かってその言葉を告げる。
「……俺はここにいられない。この世界には望む幸せがあった。だけど、俺がいるべき世界はこの世界じゃないんだ。…………さようなら……咲音……」
その言葉を口にした瞬間、ひと際強い風が木々の間を通り抜けていく。
風が過ぎ去った方向を目で追うと、景色の輪郭が徐々にぼやけ始めていた。
「っ! これは……!」
元の世界に帰れる。
確信めいた予感が胸をざわつかせた。
「諦止っ!!」
その声に振り返る間もなく、温かい温もりが背中に伝わる。
咲音に抱きしめられているという事は、振り返らなくても理解できた。
「咲音……っ!!」
「……っ……好き……大好き……っ!! お願い……置いて行かないでっ!!」
「っ……!!」
咲音の悲痛な声に胸が張り裂けそうになる。
今すぐその手を取って抱きしめたかった。愛してると告げたかった。
だが、それは叶わぬ願い。
ここで己の欲に溺れてしまえば、現実の世界で復讐の連鎖が始まってしまう。
その願いも告白も、何一つ答えることのできない情けなさに唇が震える。
「ごめん……っ!!」
あの日助けてあげられなかったこと。
この素晴らしい日々を共に生きていくことができないこと。
そして、愛していると告げることができなかったこと。
様々な想いを込めて、たった一言だけ声を振り絞る。
刹那、堰を切ったように急速に辺りの景色が形を失っていく。
「咲音!!」
その光景に思わず後ろを振り返るも、既に咲音の姿はなく、アングレカムの花と思しき白色の花が大量に空に舞い上がっていく様子だけが視界いっぱいに広がっていた。
そして、その中に一人だけ世界から隔絶されたように姿が浮き上がって見える人物がいた。
「……夢霞……」
彼女との距離が近いのか遠いのか、遠近感覚が掴めなくて分からなかったが、彼女の表情は確認することができた。
その顔は悲しみに満ちていた。
眉をしかめ、今にも泣きだしてしまいそうな彼女の顔は、直前の自身の言葉と相まって罪悪感を増長させた。
そんな夢霞の姿も、舞い上がる花ですぐに見えなくなる。
やがて、意識も徐々に曖昧になっていく。
(父さん……母さん……)
意識が途切れる前に、大切な人達を思い出す。
どうしてそうしたのかは分からなかった。
だが、思い出す度に心の奥で一つずつ大事なものが消え、同時に心の奥で黒い塊のようなものが固まっていくのを感じた。
「…………咲音…………」
最後に咲音の名前を口にした瞬間、意識が閉じた。




