三十、決断
眩んだ目が慣れていくのと同時に、聞き覚えのある声が耳朶を打った。
(……この声は)
「もうお父さんったらまたそんなこと言って~!」
「母さんだってそう思ってるだろう? 何より咲音ちゃんなら文句無しだ」
気が付くと、そこは既にポソリ山の中ではなく見慣れた我が家だった。
これが夢なら驚くこともないのかもしれないが、この場面の切り替わりのような現象はどうにも慣れなかった。
「どうしたの? そんなところに突っ立って、ご飯できてるわよ?」
「そうだぞ、冷めないうちに食べよう」
「え?……ああ」
促されるまま席に着く。
こうして親子三人で食事をするのはいつ以来だろうか。
「それで、どうなんだ?」
「なにが?」
「咲音ちゃんのことよ、うまくいってるんでしょ?」
「……ああ、そうだね」
「いつ式を挙げるんだ?」
その言葉に、何も返す事ができなかった。
「ちょっとお父さん!」
「その様子だと、まだ先になりそうだな」
「まあまあ、諦止にも色々と考えがあるのよ」
質の悪い夢。
そう断じて感情の一切を捨てられるほど、非情にはなりきれていなかった。
夢霞の言う通りなら、両親と咲音を拒絶することで元の世界へ戻れるらしいが、具体的に何をすればいいのかは分からなかった。
「ん、どうしたんだ? 怖い顔して」
「……いや……」
「お父さんが変な事いうからでしょ?」
「俺はただ――」
「……咲音の所に行ってくる」
この温かで穏やかな日々を捨てる。
現実の世界でしようとしてることを考えれば、非情に徹しなければならない。
自分だけ温かな日々を享受して、他人には残酷な悪夢を与えようだなんて虫が良すぎた。
楽しそうに話している両親を無視して席を立つ。
「行ってくるって、この時間から? もう遅いんだし明日にしたら?」
「そうだぞ。まだご飯も残ってるんだし」
「どうしても会って言わなきゃならないことがあるんだ」
そう言いながら、玄関に向かって歩く。
すると、後ろから同じ様に席を立つ音がした。
椅子を引く音に振り返ると、父が木刀を投げてきた。
「っと、これは……?」
放られた木刀を掴み、父に聞く。
「……どうしても行くなら俺と勝負しろ」
「は? 急に何を言いだすんだ? 全く話が見えないんだけど」
「言葉の通りの意味だ。咲音ちゃんのところに行くと言うのなら、俺を倒してから行け」
父は玄関に立てかけてある、もう一本の木刀を手に取り真っすぐ視線を向ける。
突然の父の言葉に冗談を言っているのかと思ったが、その顔に冗談のような気配は微塵も感じ取ることはできなかった。
「急に、何を……。母さんもなんとか言ってくれよ」
「……私はお父さんに任せるわ」
「任せるって、二人して急にどうし――」
ついさっきまでの和やかな雰囲気から一変して、張り詰めたような空気が漂う。
母の表情は悲しみに満ちていたが、成り行きを見守るかのようにして、父を止めるような事はしなかった。
「準備ができたら表に来い」
そう言い残して外に出ようとする父を引き留める。
「ちょっと待ってくれよ! 理由も無しにいきなりそんなことを言われても俺は――」
「理由か。お前、咲音ちゃんに会いに行ってどうする気だ?」
「どうする気って……」
「別れるために行くんだろう?」
「なっ!? どうしてそれを知って……」
「行かせるわけにはいかない。言わせるわけにはいかない。お前を守るためにも、ここは通さない。どんな理由があろうとも、人を殺すなんてことはしてはならない!」
「……だから、止めようと?」
「そうだ。息子が間違った道を進もうとしてるのに止めない親はいない」
(……これも夢霞の仕業か)
父の言葉を聞き届けた後、ゆっくりと玄関に足を運ぶ。
「……俺のしようとしていることを全て知った上で邪魔をするつもりなら、たとえ父さんでも手加減しない」
「随分と舐められたものだな。俺も息子が相手だからといって一切手を抜くつもりはないぞ」
啖呵を切って先に父が外に出る。
その後を追って家を出ようとしたところで、母の姿が目に映った。
「……いってらっしゃい」
机に並んだままの料理と、座ったまま柔らかな表情で見送る母に罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。
何か声をかけようかと迷ったが、これから悪行を重ねる自身が声をかけるべきではないと、心を押し殺して家を出た。
♢
冬の夜は寒く、躰の芯から凍えそうなほどだった。
「もう一度聞くが、考えを改めるつもりはないか?」
「ない。俺のするべきことはもう決まってる」
「……誰に似たのか、強情な性格だ。始める前に約束してくれ、もしお前が負けたらこの世界で生きていくことを選ぶと」
「…………分かった」
その提案を受け入れる。
負ける気などさらさら無かったが、父に負ける程度なら徒に犠牲者を増やすだけで、復讐の連鎖を止めるなど大それたこと不可能だと思ったからだ。
「準備はいいか?」
「ああ」
互いに木刀を正面に構える。
たとえ偽物の世界であっても、当然父を殺す気にはなれなかった。
木刀を奪ってしまえば勝負は決まったも同然。
年老いた父が相手なら、体力勝負でも分があるはず。
流石に一度や二度の打ち合いで体力を奪えるほどではないだろうが、何度も打ち合い、握力を削ればいずれは勝てると算段を立てる。
作戦を決め、木刀を上段に構えて出方を窺う。
父に動きはなかった。
突きさえ警戒すれば問題ない。
そう結論付け、少しずつ間合いを詰める。
膠着状態のまま時間が流れる。
父の構えは隙だらけで、いつでも打ち込めるように思えた。
「…………っ」
埒の明かない状況に痺れを切らして一気に間合いを詰める。
「はあっ!!」
そして、父の右肩目掛けて木刀を振り下ろす。
攻めるにせよ守るにせよ、動かなければそのまま肩を粉砕されるだろう。
だが、父に動きは無く、それどころか顔からは闘志のようなものを感じなかった。
(本当に戦う気があるのか?)
あろうことか勝負の一刹那にそんな疑問を抱く。
勢威を落とした一撃。
直撃したところで勝負を決めることのできない一手だった。
「っ! むんっ!!」
「な!? ぐぅっ!!」
急いで半歩下がって間合いを取り直す。
(っ!……こんな事ができたのか)
父は勢威を欠いた諦止の木刀を、反時計回りの半円を描くようにしていなし、そのまま鳩尾目掛けて突いてきた。
上体を捻じることで直撃を避けることはできたが、結果的に左腕を負傷する結果になった。
木刀を握ったまま左腕を僅かに動かすが、一時的に麻痺しているのか、力は入らなかった。
(……なんとか動かせるか)
「甘いな。本当に抵抗しないとでも思ったのか? 汚く、狡く、相手の思考を外す者が勝利する。それが勝負だ。断じて綺麗なものではない」
「……確かにそうかもしれないな」
戦いの最中に余計な雑念を混ぜて迷うだなんて愚の骨頂。
一連の動きを思い返してみても、躱してくれと言っているようなものだった。
(これは現実じゃない)
甘えを捨てる。
父は手段を選んでいない。
油断すれば負けるだろう。
その事実に腕一本で気付けたのは僥倖といえた。
「腕が痛むか?」
「全く」
問いかける父に返す言葉とは裏腹に、当たり所が悪かったのか左腕の状態は思っていたより悪かった。
徐々に鈍痛が広がって、少し動かすだけでも激痛が走る。
流石にあの一撃で折れてしまったとは考えたくなかったが、どちらにせよ今の一合で持久戦という手は無くなってしまった。
とすれば、残った手段は一つだけ。
元々が素人に毛が生えたような戦い。
駆け引きなんて考えるだけ無駄だったのかもしれない。
「次の一合で決める」
心に決めると同時に口にする。
「自らの戦法を口にするとは、自信の表れか。それとも別の意図があるのか」
「……最初から短期決戦が狙いだったくせに、どの口が言うんだか」
「お前はそう考えたわけか」
あくまで違うと言いたげな父の口調に思わず笑みが零れそうになる。
いくら口では違うと言っても、年齢を考慮すれば短期決戦を望むのは自明の理であったし、父の性格は長年付き合ってきてよく分かっていた。
だからこそ、自分のよく知る父なのだと分かり余計に悲しくなった。
深呼吸をして、今度は互いに上段の構えを取って間合いを詰める。
ひりつくような緊張感が辺りを包み、風の音は消えて二人の呼吸音だけが場を支配した。
どう動くかは考えていなかったが、その時になれば自然と躰が動くだろうという漠然とした考えだけがそこにあった。
そして、互いに間合いに入る。
どちらも動かなかった。
動かないまま再び膠着状態が続く。
戦意を失ったのではなく、機を窺っているのだという事は互いに理解していた。
(まだだ)
先の一合では、予想外の技で不覚を取った。
父に別の返し技があるのなら、先に仕掛けるのは悪手。
攻撃を待つのが得策だろう。
上段の構えが相手なら、大まかな辿る軌道は分かる。
(この構えから技を繰り出すとすれば何がある……? っ駄目だ!)
考えようとしてすぐに思考を振り払い、この一刹那だけに集中する。
余計なことを考えれば負ける。
そんな確信めいた予感があった。
「…………っ!」
長い時間瞬きせずにいたせいか、眼球が渇き瞼が閉じそうになる。
この状況では瞬き一つが命取りになる。閉じまいと無理した結果、身体が反射的に動いた。
その瞬間、父が木刀を振る。
だが、反射的に身体が動いてしまっただけで月見里諦止は未だ木刀を振っていなかった。
その事に父も気付き、振り下ろすべきか一瞬迷ったことが勝敗を決した。
「はあっ!!」
完全に呼吸を乱され、虚を突かれた父に向けて木刀を振り下ろす。
狙った部位は一合目と同じ右肩。
父は半歩ほど下がりながら受けの構えを取ろうとしたが、構えを取るには遅く、木刀は鈍い音を上げて弾き飛ばされる。
そして、勢いそのままに父の右肩に木刀が叩きつけられた。
「ぐぅっ!?」
「っ!!」
多少は勢いを殺されはしたが、木刀を伝って確かな感触が伝わってくる。
折れた。
確かにそう感じた。
「はぁっ! はぁっ……!」
肩を抑えながら片膝をつく父の前に立ち、後方で転がる木刀を見遣る。
勝負が付いたことは誰の目から見ても明らかだった。
無言のまま立ち去ろうとすると、背後から父の声がする。
「待て……っ!」
「……もう勝負は付いただろ」
「くっ! お前は、本当にそれが正しいと思っているのか!? そんなことをしても誰も幸せにはならないんだぞ!!」
その声に振り返ると、右肩を庇うようにしてなんとか立ち上がっている父の姿があった。
表情には苦悶の色が濃くでていて、とてもではないがもう一度戦えるような状態ではなかった。
「……大人しくしててくれ」
「いいから質問に答えろ……!!」
「……正しい訳がない、人を殺すなんて間違っている。だけど、それしか道が無いなら……俺はその道を往く」
「本当にその道しかないのか? もっと別の――」
「そんなものはない!!」
決別を決定付ける叫びが響き、静寂が辺りを包む。
「……これ以上何も言うことが無いならここでお別れだ。俺は勝負を受け入れ、そして勝った。何の文句も無いだろ?」
「ま、待てっ! 諦止っ……!!」
縋るような声に背を向けて歩き出す。
みっともなく泣きながら、本当はここで暮らしていたいと言う事は簡単だった。
だが、同情を誘うような真似はすることはできない。
現実の世界でしようとしている事。
この世界でしようとしている事。
どちらも他者を不幸にする行為だ。
そんな人間が慈悲を乞おうなど、考えるだけで吐き気を催した。
こんな人間に向けられるべきは哀れみの目ではなく、憎悪の目。
そう結論付けて再び歩き出す。
背後から父の声が微かに聞こえてきていたが、もう二度と振り返ることは無かった。




