二十九、記憶
食卓を囲んだ日から一箇月が経過した。
最初に感じていた違和感も少しずつ薄れていき、満ち足りた穏やかな日々を送っていた。
だが、あの日見た少女の姿だけははっきりと覚えていた。
まるで別の世界から切り取られたかのように輪郭の濃い存在は、どうしても脳裏に焼き付いて離れなかった。
「諦止ー!」
「うわっ!? って咲音か、驚かせるなよ」
「ごめんごめん」
背後から急に抱きついてきた咲音に抗議の声を上げる。
咲音は謝りながらも、抱きついたまま離れなかった。
「どうしたんだ? 咲音が外で甘えて来るなんて珍しいな」
「……嫌だった?」
「嫌じゃないけど」
「けど?」
「……咲音がいいなら俺は構わないよ」
諦めてそのまま抱きしめられる。
咲音の体温は温かかった。
「……話したい事があるんだけど、今夜会えないか?」
「うん。分かった」
咲音は何も聞かずに二つ返事で頷く。
待ち合わせ時間を決めて、一度別れることになった。
♢
(今度こそ聞こう)
今まで散々聞きそびれてきたが、これ以上引き延ばすことはできないと覚悟を決める。
咲音から聞いても思い出せなければ、もう一度プロポーズすればいい。
そう思いながら歩いていると、いつの間にか裏山まで来てしまっていた。
「……どうしてこんな場所に……」
肌寒さを感じて引き返そうとする。
踵を返そうとした瞬間、何かが視界に入る。
「あっ」
そこには、あの時見た緑色の浴衣を着た少女がいた。
どうやら少女はこちらに気づいていないようで、木々の間を縫うようにして山の奥へ進んで行ってしまった。
(幻覚じゃなかった……)
気が付くと少女の後を追っていた。
彼女と話をすれば違和感の正体が掴めるはず。
ぼんやりとだが、確かにそう感じた。
「……っ! なんだこれはっ!」
諦止は走って少女の後を追いかけていたが、一向に距離が縮まらないでいた。
少女はただ歩いているだけなのもあって、まるで夢でも見ているかの様な奇妙な錯覚に陥る。
(まさか、幽霊じゃないよな……)
そんな他愛もないことまで考えてしまうほどに異質な感覚だった。
少女の後ろ姿だけを見て走っているからなのか、少女の背中は大きく、輪郭は更に濃くなっている様に思えた。
そんなことあるはずない。
頭では理解していても、瞳からは周りの景色が薄く見えてくる。
周りの木々が薄くなっていき、少女の姿だけが大きく浮き上がってくる。
まるで違う世界に来てしまったかのような不安が少しずつ押し寄せてきた。
「っ」
もはや何が何だか分からず、走っているのか歩いているのかも分からない状態の中で、藻掻くように少女の後を追う。
ここまで来て諦めることはできなかった。
「仕方ないわね」
突如、耳元で少女の声が聞こえた。
何故その声が少女のものだと思ったのかは分からなかったが、ただ直感でそうだと感じた。
その声を耳にした瞬間、それまで感じていた別世界にいるかのような奇妙な感覚は消え去り、目の前には見知った光景が広がっていた。
「……ここは、ポソリ山の花壇?」
いつの間にこんな場所まで来てしまっていたのかと考えていると、少女の姿が消えていることに気付く。
(そうだ、あの子は……)
「私に何か用?」
その声の近さに驚いて顔を向けると、探していた少女が隣にいた。
改めて近くで見ると、他の人とはまるで違う空気感が漂っていた。
魂が濃いという表現が一番近く、とても同じ人間だとは思えなかった。
生唾を飲み込み、恐る恐る話しかけてみる。
「……君は、この村の子じゃないよね?」
「ええ、そうね」
「どうしてこんなところに?」
尋ねると、少女はくすくすと笑う。
「そんなことが聞きたくて私を追ってきたわけじゃないでしょう? 聞きたい事があったんじゃなくて?」
「……どうしてそう思ったんだい?」
「ふふっ」
全てを見透かしたかのような表情を浮かべ、少女はもう一度くすくすと笑うと花壇の中に入っていった。
「何故って、さっきからあなたの頭の中はその事でいっぱいだもの」
「っ、それはどういう――」
ただの当てずっぽうにしては的を射ていた。気味の悪さを感じて花壇の中の少女の姿を追うと、優雅に歩いているものの、足元の花は踏まれることも触れて揺れることもなかった。
それは、まるで少女がそこに存在しないかのような光景だった。
「驚いた?」
「……君は一体……」
「私の名前は夢霞」
「夢霞……。それで、君が何者かについては話してくれないのか?」
「私の事はどうでもいいでしょう? 聞きたい事は違和感の正体、じゃないの?」
「っ!」
背筋を悪寒が走る。
これ以上聞いてはならない。
今すぐにここから立ち去るべきだと第六感が告げている。
だが、ここで立ち去れば恐らくもう二度と夢霞と会うことはできないだろう。
そうすれば、この違和感を取り除くことは永遠にできなくなる。
「この違和感の正体を知ってるなら教えてほしい」
「……分かったわ。でも、あなた自身に関わる大切な事だからよく聞いてね?」
「俺自身に?」
夢霞は花壇から出ると、目の前に立って瞳を真っすぐ見つめてくる。
「今の生活は楽しい?」
「……は?」
「どう?」
「どうって……」
「そう緊張しないで? 単なるお喋りよ」
「……それはまぁ、楽しいかって聞かれれば楽しいけど」
「そう」
その言葉に夢霞は少しだけ嬉しそうな表情をして話し出す。
「今のあなたは記憶を失っている状態なの。そのせいで日常に違和感を感じてしまっている」
「記憶喪失……ってことか?」
にわかには信じられなかったが、プロポーズの記憶や食事会を開く経緯など、欠如している記憶が多かったため、完全に否定はできなかった。
「まぁ、そんな感じね」
「でも、どうしてそんな事を君が知ってるんだ? もしかして知り合いだったとか……?」
「いいえ。私が理由を知ってるのは、その記憶を奪ったのが私だから」
「……どういうことだ?」
記憶を奪うという常識外の発言も、夢霞から発せられると当然の様に思えてしまう。
だが、本当に記憶を奪ったのなら何か理由があったはず。
それを正直に言う事に何の意味があるのか分からなかった。
「ちょっとした理由があってね。でも、今のあなたなら記憶を戻しても大丈夫かもしれない」
「どうしてそんなことをしたんだ?」
「記憶を戻した後に説明するわ。そっちの方が分かりやすいと思うし」
「……分かった」
何も話す気がないという事は分かった。
だが、記憶を戻すというのなら是非もない。
「……先に謝っておきたいんだけど、違和感を感じさせてしまったのは私の失敗かもしれない。もう少しこの時間を過ごさせたかったんだけど、残っている力ではこれが限界だったの。ごめんなさい」
夢霞は目を伏せて謝る。
「謝られても、何を赦せばいいのかも分からないからな……」
「そうね……。でも、最後にこれだけは言わせて?」
「ん?」
「この世界も、あちらの世界も、どちらも同じあなたの世界よ」
疑問を挟む余地も無く、その言葉を聞き終えた瞬間辺りの景色は一変していた。
山の中にいたはずが、いつの間にか洋館の中の通路のような場所に立っており、先の見えない長い通路の両隣には閉じた襖が果てしなく続いていた。
その光景に意識を奪われたのは一瞬で、次の瞬間にはその通路はとてつもない速さで奥に進んでいた。
自身が動くというよりも、通路が向かってくるという感覚だった。
進むにつれて左右の襖が次々と開いていく。
その度に、夥しいほどの情報が脳に入り込んできた。
「ぐぅっ!?……がっ!?」
激しい頭痛を覚えたのは一瞬で、それよりも強い胸の痛みに思わず膝をつく。
物理的な痛みの頭痛とは違い、胸の痛みは精神的なものだと分かった。
「っ……!!」
気が付くと、周りの景色は来た時と同じ、ポソリ山の花壇の前だった。
混濁した意識が覚醒していくにつれて、失っていた記憶と今日までの記憶が混ざり合って一つになっていく。
「……ここは、夢の世界なのか?」
膝を付き、俯いたまま夢霞に聞く。
夢霞が何者で、どうしてこんな力を使えるのかは今はどうでもよかった。
「……夢霞……?」
返事のない夢霞を問いただそうと顔を上げるが、夢霞の姿はどこにも見当たらなかった。
だが、その声だけははっきりと聞こえた。
『もし元の世界に帰りたいのなら、この世界を拒絶しなさい。……でも、この世界を選ぶこともあなたにはできるということは覚えておいて』
その言葉だけ残して夢霞の気配は消えた。
どちらの記憶も残ったままだった。
その事実が、先ほど起きた出来事が夢ではなかったという証明になっていた。
それと同時に、この世界が夢である可能性が高いのではないかと思っていた。
そうでなければ、咲音や両親が生きている事の理由にならなかったからだ。
現実の世界でどれだけの時間が過ぎているのか分からないが、夢でも別の何かにしても、この偽物の世界から急いで目覚めなければならなかった。
♢
「父さん……母さん……咲音……」
愛する人達の名前を呟きながらポソリ山を歩き続ける。
もうポソリ村には戻れない。
夢幻の中の存在であると分かってはいても、決心を揺さぶられるには十分すぎる毎日だった。
それでも、元の世界に戻ってしなくてはならないことがあり、その責任を放棄して安寧と暮らす選択を取ることは間違ってもできなかった。
『結局、その道を選ぶのね……』
当てもなく歩き回っていると、頭の中に夢霞の声が響いた。
その声音には、悲しみと諦めの感情が混ざっていた。
「俺を元の世界に帰してくれ、やらなくちゃいけないことがあるんだ」
『それは本当にやらなくてはならないことなの?』
「ああ、そうだ」
『……私は、あなたがこの世界で楽しいひと時を過ごせば、たとえ現実の記憶を取り戻してもこの世界で生きていくことを選んでくれるかもしれないと思っていた。そうでなくても、人を殺すという道を選ぶことはなくなるんじゃないかと思っていた……』
「……そうか、あの時の声は夢霞だったのか」
覚えている限りの最後の記憶を思い起こす。
短刀を振り降ろす瞬間に聞こえた声は確かに夢霞だった。
『でも、あなたの考えは変わらないみたいね……』
「……ああ」
『……さっきも言った通り、元の世界に戻るにはこの世界を拒絶するしかないわ』
「それはどういう意味なんだ? ただ言葉にすればいいってわけでもないんだろう?」
『元の世界とこの世界で、いるはずのない人がいたことは知っているわね? その人達を拒絶すれば元の世界に戻れるわ』
「拒絶……」
その言葉を胸に、もう二度と戻るまいと思っていたポソリ村へ足を運ぶ。
『ねえ? この世界で生きることを望んだらどうなるのか知りたくない?』
「この世界で生きることを望んだら、か……」
当然、気にはなった。
だが、話を聞いたところで既に答えは決まっていたし、これ以上心を揺さぶられるのは勘弁してもらいたかった。
「言わなくていい。……この世界を選ぶ可能性は、無い」
無理やり最後まで言い切る。
虚勢だった。
もし聞いてしまえば気持ちが傾くだろう。
そうすれば元の世界に戻れなくなるかもしれないと、心のどこかで感じていた。
この世界での数週間は毎日が幸福で満ち足りていた。
こんな日々が永遠に続けばいいと思っていた。
その想いは、元の世界の記憶を取り戻した今でも変わっていなかった。
だが、これは偽物の世界。
生きるべき、向き合うべき現実はここにはなかった。
『そう……。最後に一ついい? 私が言った言葉を覚えてるかしら』
「言葉?」
『この世界も、あちらの世界も、どちらも――』
喋っている途中で夢霞の声が途切れる。
声が途切れるのと同時に、元の世界で最後に見た緑色の目も眩むような眩しさが辺りを包み、思わず目を閉じた。




