十七、果ての存在
暖かく、穏やかな気分だった。
春の匂いがして、心の芯まで蕩けるような優しい心地が永遠と続く。
躰が心の底まで沈んでいき、自分が何者なのかを考える必要もない。
躰が存在するのかも、何故ここにいるのかもどうでもよかった。
そもそもこことはどこだろう?
考えようとしてすぐに止める。
このままでいい。
このまま、この幸せを享受しよう。
ドクン、ドクン、という音が聞こえる。
どこかで聞いたような、気のせいのような。
そもそも、この音は耳で聞いているのか、躰で聞いているのか、それとも心で聞いているのか。
それすら分からなかった。
ただ、この音の正体を知りたいと強く思った。
何故そう思ったのかは自分でも分からなかった。
この幸福の渦の中でそれを知ることに意味はあるのか。
心で考えている間に躰は動いていた。
目を開ける。
どうやら今まで目を閉じていたらしい。
飛び込んでくる映像は闇。
目を動かして、首を動かす。
辺りを見ても、一面の闇。闇。闇。
まだ目を開けていないのかと錯覚し、眼を触ろうとする。
睫毛に触れて瞼が一瞬閉じる。
暗闇の世界で躰があると意識しながら考える。
ここはどこだろうか?
疑問を感じても答えてくれるものはなかった。ただ一つを除いて。
ドクン、ドクン、という音だけが聞こえる。
無意識の内に音のする方へ向かう。
歩いているのか、浮いているのか、分からないまま進む。
進む度にその音は大きくなっていった。
暫くして何かにぶつかる。
何にぶつかったのか分からずに手を伸ばすと、その手に何かが触れた。
温かく、大きく、弾力のある感触。
そして強い鼓動。
どうやらこれが音の正体だったらしい。
何故こんなことを知りたかったのか。
踵を返そうとして、手の中に違和感を感じる。
力を入れると、確かにその手は何かを握っていた。
反射的にその手を目の前に持っていき、それを確認する。
辺りは闇で満たされていて、何も見えないはずなのにそれは確かに見えた。
その瞬間、心から躰に向けて風が吹き抜けていく感覚がした。
「……そう……ここが……」
風が止まり、夢霞は自分が何者であるかを思い出した。
同時に、ここが何処で何のためにこの場所まで来たのかも全てを理解する。
「……これが、果ての存在……」
目の前の目に見えない物体を見ながら、夢霞は忘れないように声に出して自身の耳に伝える。
一体何故こんな大事な事を忘れてしまっていたのか。
果ての存在の中にいることが何か関係しているのか。
「っ!!」
そんな事を考えていると、さっきまで遠くに聞こえていた鼓動の様な音が、まるで耳元で炸裂する花火のように大きく聞こえるようになる。
桜樹国を経ってからどれだけの時間が過ぎたのかは分からなかったが、どちらにしても早く行動しなければならなかった。
「……え?」
動き出そうとした瞬間、躰が止まる。
今自分が何をしようとしたのか分からなかったからだ。
それどころか、ここがどこかも思い出せなかった。
「っ! まさか、記憶が……?」
いつの間にか手に握っていた黄金色の氷柱のおかげか、記憶の混濁は一瞬で済んだ。
だが、再び意識が朦朧とし始める。
(……急がなきゃ)
目の前で鼓動を続ける何かに、手に持っていた氷柱を振りかぶる。
本当にこんなものが通じるのか。
もし無駄だったら。
失敗したら。
そう思うと手が震えた。
「っ!」
感情を全て置き去りにして、無心のままその腕を振り下ろす。
空気を裂くかの如く鋭く振り下ろした右腕は、鼓動を続けるそれの奥深くまで入り込む。
最奥に到達したその瞬間、空間を揺らすような声とも音ともとれない振動を確かに聞いた。
そして、それと同時に手の中にあった氷柱は飲み込まれるようにして消えてしまった。
「……終わったの?」
先ほどまで聞こえていた鼓動の様な音は、もう聞こえなかった。
想像していた以上にあっさりとした終わりに、何かしてはいけない事をしてしまったのではないかという気になる。
だが、その問いにも答えることのできる者がこの世に存在しているとも思えず、仮に果ての存在が生きていたとしても、唯一の攻撃手段であった黄金の氷柱を失った以上、もう何をすることもできなかった。
(帰ろう)
急いで宇宙の果てから音を探す。
黄金の氷柱を失った今、もう一度記憶を失えば二度と思い出すことはできないだろう。
そうすれば桜樹国に帰ることもできず、国王の罪を隠す事ができなくなる。
(……私は本当に……)
国王を思い出して気が重くなる。
殺人という罪を重ねる国王に、これ以上手を貸すべきなのか。
ここで止めてしまえば、全てが水泡に帰すという事はもちろん分かっていた。
これまで殺されてきた、殺しを行う前の罪無き民の命を無駄にしないためにも、このまま殺人事件ゼロの国という偽物の平和を続けるべきなのか。
(それとも……)
桜樹国に帰るための音を探しながら夢霞が思い出したのは、月見里諦止の顔だった。
月見里諦止が桜護衆に連れてこられた時に、国王の指示で心を読んだが、その心は極めて純粋なものだった。
自身を厳しく律するあの心を思い出すと、結果的に一番犠牲の少ない道を選んでいたのだとしても、殺人に手を貸すという行為に罪悪感を感じずにはいられなかった。
このまま手を貸すべきか、それとも姿を消すべきか。
どちらも正しい選択なのかもしれないし、間違っているのかもしれない。
「っ……」
結局、答えは出なかった。




