41・殿下、欧州情勢に仰天す
日露軍が徹底的に米海軍を叩きのめした事から秋以降の戦闘はアリューシャンを除いて低調だった。
昭和十八(1943)年に入ってもそれは変わらない。
「何だと!」
そんなところに衝撃的なニュースが飛び込んできた。
「昨年来、大規模な交戦は起きていませんでしたが、とうとう停戦となったようです。ただ、英国がドイツに降伏した訳ではなく、英国王室ならびに英国政府はこれまで通りだそうです」
なんとも不可解な事が起きたもんだ。
そんな唖然とした情勢について、非公式なチャンネルから得られた情報によると、どうやら英国が米国にキレたのが原因らしい。
これまでも武器援助については山東利権をはじめとした相当に足元を見たものだったそうだが、同じ支援先であるソ連についてはずいぶん違ったそうだ。
事の発端は英国が開戦と共に保証占領したイランにあった。
ドイツの中東侵攻を恐れて英国も一時期ソ連支援を容認していたのだが、イラン経由で送られる物資が英国同様だったのに対し、北方航路では内容が違った。
偶然にも英軍が護衛している船団に故障したものがあって、修理要員として英軍人が乗り組んだそうなのだが、その船の船倉にあったのは、食料や医薬品ではなく、戦車や大砲であったという。
当然、英国は米国へ抗議したそうだが、まともに取り合わなかったのだという。それどころか、支援と引き換えに日露と手を切る事まで要求される始末だったらしい。そうすれば、大挙して米陸軍を欧州へ送るという話だった。
が、中国情勢から米国の思惑を察知していた英国は、当然ながらその要求を拒否している。
そして、あろうことかドイツに近づいた。
この頃、ドイツも米国製兵器がソ連に渡っている事を知ることになったが、それは当然、チョビ髭としては受け入れられないものだった。自分が米国を儲けさせるために体よく利用されていた訳だ。
そうして、昨年のうちに英独間での戦闘はほとんどなくなった。いや、一応、交戦状態を利用して双方が武力を外交に利用していたのだが、北方においては協力関係を持つようになっていた。
まずは、船団護衛と言いながら、まるで船団を守ることなく、独潜水艦に情報提供することから始まり、夏以降は護衛そのものを拒否するようにもなった。
そう、日露軍が米海軍を叩きのめしたその頃、米国は太平洋だけでなく、大西洋から北海、北極海に至る長大なルートでの船団護衛まで必要とするようになった。
武器輸出の発覚でチョビ髭が米国に最後通牒を叩きつけ、船団への攻撃を明言したのが春の話、英艦隊の護衛がまるで役に立たないと知ったのが夏頃だった。
そしてとうとう、年が変わると同時に、英国はドイツと停戦することを発表し、独ソ戦への中立を宣言するに至った。
この結果、インド洋ルートは使えない。北方ルートも米国が独自に護衛しないとイケなくなった。
太平洋へ送るべく艦隊建設をしている最中に、ソ連へ向かう船団の護衛まで一手に引き受けないとイケなくなったわけだ。
人口が多かろうと、工業力があろうと、大西洋まで一国でどうにかするのは大きな負担だ。しかも、史実と違ってドイツの技術を基礎としているので、相手に手の内を読まれる状態になっている。英国は停戦と中立を理由に一切協力する姿勢を見せてはいない。
当然、寝耳に水のフランスをはじめとした亡命政府は困り果てたが、どうしようもなかった。米国へ向かうくらいしか手は残っていなかった。
その結果、アジアでも動きがあったのだが、仏印を日本に代わって英国が進駐することになった。が、英国は仏印進駐で事を終えることなく、海南島にまで侵攻してきた。日本に何かを言ってきたわけではないが、参謀たちによると、仮に日本が押し込まれてフィリピンを奪還されようとも、海南島を確保することで米国が山東利権に手出しすることを抑える思惑があるのだろうという話だった。
フランス亡命政府を受け入れた米国は、必然的に対独参戦を余儀なくされた。が、今すぐ動ける戦力がある訳ではなく、対ソ援助船団の護衛が手一杯らしい。
「英国が助かったなら良かったが、欧州というのは何が起きるか分からないな」
俺は暢気にそんなことを思っていたのだが、この世界はそれほど暢気にしていて良い筈がなかった。
英独停戦で動いたものがあった。
この世界でもユダヤ人の極東入植が計画されていたことがある。一部の日本人もこれに協力していた。
しかし、真正ロシアの存在がこの計画には大きくのしかかっていた。史実と違って日本が受け入れる余地が無かった。どこかの小説のように樺太へというにも、残念ながら難しい情勢だった。
そんな時に起きたのがテーハンで起きた朱勢力の反乱だった。
恐ロシアは何の躊躇もなくその反乱勢力を制圧して、無害地域としてしまった。
普通の日本語でいえば、アレをやった上でソウしてしまったので、街一つ完全に無人と化してしまった訳だ。
真正ロシアもソ連で迫害されたユダヤ人たちが多く流入しており、その対応に苦慮しているところだった。日本でも、欧州で外交官がビザを発給したは良いが、その後、どうするかは決めかねている状態だった。
そうした彼らは満州で行く当てもなく収容されていた訳だが、うまく無人の園が出来た事で、そこへ移住させる計画が持ち上がった。
場所は史実で群山だそうだが、なぜそこで反乱が起きたのかはよく分からない。まあ、ユダヤ人自治県が出来るのは良かったんではないだろうか?




