4・殿下、縁がなかった時には諦める
「殿下、例の調査をしていた件ですが・・・」
合邦問題の結論が出た少し後、昨年来調査を依頼していた件の報告が来た。
「どうだった?」
報告者は申し訳なさそうな顔をしている。
「それが・・、すでに当人にその意志はない様です」
と言われてしまった。
何をしていたかと言うと、戦艦建造を無理やり中止して自身の考えた戦艦案を示したときの事だった。
ふと思い出したんだ。そう言えば、日本にも飛行機を作ってる人がいなかったかと。名前は憶えていない。
その時タブレットで調べようと思えばできたのだろうが、何故かそれをせず、適当に「日本にも飛行機研究してる人がいるはずだ、琵琶湖周辺か霞ケ浦周辺じゃないかと思うんだが」と言って調査してもらっていた。
特にどうとも思っていなかったので、それ以上調べようともしていなかった。
なにせ、記憶によれば、資金難で研究を辞めなければ飛んだとかなんとか、後に再現した飛行機は実際に飛んだらしく、それなら飛べただろうと安易に考えていた。
そんな事もあったので、深く考えることなく調査を指示していたのだが、なかなか見つからなかった。
こちらもそれどころではなかったんだ。
戦艦について軽く流したんだが、実はイタリア人技師を呼んだ理由は、俺の書いたお絵かきではこの時代の工廠や技師はそれを再現できなかったことにある。
あの時、海軍の重鎮に指示した安芸の改設計案だが、実はそんな簡単に30センチ砲は載らなかった。25センチ砲載せてるから楽勝だと思ったのだが、違う砲塔を載せようと思うと、その砲塔に合わせて船体の装甲厚まで弄ることになるらしい。
だが、そんなことをすると予定重量を大幅にオーバーするのは当然で、ゼロから設計しなおしとなった。
結局、ゼロからやらなきゃ30センチ砲単一の戦艦、つまり、ドレッドノート級が造れないんだと重鎮がやってきて、安芸の建造を許可するよう言ってきた。
まさか、そんなことになるとは思っていなかったので、本来、河内型のために呼ぼうとしていたイタリア人技師に安芸についても依頼する羽目となった。
その結果、わざわざ別の船を作るくらいならと、3隻を同型にするという話に流れてしまった訳だ。
所詮、チートと言っても自分で設計ができるわけではないので、その辺りは致し方がなかった。
そうこうしてイタリア人技師の相手を終え、時間をさこうと思ったら合邦問題だった。
政府の結論は出たが、未だに多くの推進論者が居るようで混乱が続いている。
あの時はどうやって併合を辞めさせるか考えて色々調べていて、飛行機の話はすっかり忘れていた。
つい最近、ようやく思い出して調べてみたのだが、辞めた原因は欧州で飛行機がすでに飛んでいるという記事を見た日だったというのだ。新聞記事が出たのは明治四十一(1908)年の事らしい。
つまり、タッチの差だった。
しかし詳しく見ていくと、どうもそう簡単な話ではないことも分かった。
その人物が造っていた玉虫型飛行器というモノは、飛行機の常識である上昇や方向転換をする舵に当たる翼がなく、飛行に適した翼形状でもなかったという。
後に有人飛行やラジコン飛行を計画した際には、現代の技術を用いて玉虫型改となっていたのだという。
そうすると、彼がもしエンジンを製作し、実際に飛んだとしても、そこから先の発展には大きな壁が立ちはだかったかもしれない。
そこに、お絵かき程度の舵やら翼の絵を渡したからと言って話にならない。論理的な仕組みと試験風洞を用意する必要があっただろう。
そう考えると、仮に彼を引き入れたところで、逆に困らせたのではないか。そんな風にも考えてしまった。
報告者は平謝りしているが、俺としては無理な重荷を背負わせなくて良かったという思いが無いではない。
「いや、気にしなくて良い。すでに欧米で飛んでしまっているんだ。彼は先駆者であろうとしたのであって、技術者を目指していた訳ではないのだろう」
もし、彼が技術者として飛行機の発展を目指していたのならば、俺も引き入れることが出来ていただろう。そして、拙い絵であっても、いくらかの説明でその中身を理解し、あるいは発想し、自身の開発につなげたのではなかっただろうか。
つまり、俺は彼に縁が無かった。そう諦めることにした。
その代わり、第一次大戦後に飛行機製造を始める会社に早めに先端技術の言える戦間期のエンジンや飛行機の三面図やイラストを送りつけてやろうと思う。そうだな、ジェットエンジンの図解なんかも突き付けてやろうか。