33・殿下、米国の狂態に戦慄す
英国が独力で防空戦を戦っていたころ、日露は英国支援のために様々なモノを生産し、送り出していたのだが、その中で最も時間を要したのが艦艇だった。
英国でも順次、戦時型駆逐艦などの護衛艦艇が建造されていたのだが、一国では手が足りず、日露に対しても要請が行われることになった。
しかし、駆逐艦やコルベットなどがすぐに用意できるはずもなく、その準備には一年以上を要することとなった。
いや、常識的に考えて一年程度でなぜ準備出来たのかも不思議ではあるが、当然ながら、あの造船所と技研の艦艇部だった。
彼らは戦時急造を前提にした艦艇の試作を繰り返しており、ドイツがポーランドに侵攻するとすぐに実艦建造に乗り出した。
一番艦は試験的なモノで武装を施すことなく半年で完成し、そこから実艦建造で得られたデータをもとにさらに改良を加え、海軍が準備を始めだした派欧艦隊用に建造を始めることにした。半ば瀬戸内の造船所の見切り発車ではあったが、夏前には瀬戸内沿岸に整備された6つの船渠で10隻を完成させてしまうという快挙を成し遂げることが出来た。
ただ、当初引渡すはずだった海軍は英国からの派遣要請もなく、俄かに緊張が高まった対米対策のために欧州行きを保留してしまい、宙に浮くかと思われたが、海軍の緊急整備計画よりも英国の要請を優先する形で、竣工した10隻を回航することが足早に決められる。
こうして完成した千トン型海防艦10隻が英国へと向かうのだが、ここ最近は南方国家による嫌がらせや妨害がシンガポール周辺からインドまでの間に行われることから、インドまで海軍が駆逐艦を随伴し、インドからは英東洋艦隊が帯同する事で話が纏まった。英国自身も米国に同調して自国を軽んじだした南方国家には苦慮している様子で、日本の申し出を快く受け入れてくれたほどだった。
こうして船団が日本を出港して数日後にはドイツがソ連侵攻を開始している。
ドイツによるソ連侵攻に対して米国大統領はドイツによる裏切り行為と声高に批判した。英国に行ったのと同様に、医薬品や生活必需品、食料の援助をソ連に行う事を表明する。
それとほぼ同時に、日露に対して満州からの撤退とスキンヘッドが中国統一を行うまでの間、米国による保証占領する権利を要求してきた。当然だが、呑めるはずもない。そもそも、日露は北京にある正統民国政府を支援しているのだから、スキンヘッド南方勢力が賊軍である。討伐されるべきはアチラだと返答した。
そうした米国の態度から、史実通りに大統領は朱色に毒されている事がハッキリしたのだが、こちらから何か言うほどの証拠がある訳でもなく、ただ、要求を拒否する事しかできなかった。
米国がそんな態度のため、回航船団の心配をしていたのだが、フィリピン沿岸を無事通過し、何事もなく南シナ海を南下していくところだった。
事件が起きたのはシンガポールに差し掛かろうかという海域だった。
シンガポールから出港してきた南方海軍と鉢合わせとなってしまい、険悪な空気が流れる。
そして、南方海軍の一隻が船団に砲を向けた事で日本側はその意図を問いただしたが、駆逐艦は無視して指向を続けたため、護衛を行っていた駆逐艦が相手に砲を向けたところ、いきなり発砲してきたのだという。
日本側は南方国艦隊へと問い合わせるが、彼らにその意志は無く、単艦の暴走だという。彼らも無線や信号で射撃停止命令を出すが従うことなく発砲を続けたので、日本側も応戦、結局、発砲した駆逐艦と日本側の一隻が被弾し、日本側は航行不能となったことから、南方海軍はシンガポールへの曳航を申してて来た。
艦隊からは謝罪も行われ、その場はそれで収まったのだが、当の駆逐艦は被弾した際に救援要請を発信していた。
その無線は遠巻きに日本船団を追跡してきた米艦艇も受信し、米国へと日本と南方国家が交戦した事実が伝えられることになった。
米国に伝えられたこの情報はすぐに大統領へと報告され、返事として日本艦船の臨検を指示する旨が伝えられることになった。
日本艦船に対する臨検の命令を受けたフィリピン駐留部隊は翌日、バシー海峡で哨戒中だった日本の軍艦を発見し、停船を要求したが無視され、逆に意図を問われ、臨検すると伝えたところ拒否されることになった。
そもそも、他国の軍艦を臨検する権利など無いのだが、米国海軍には大統領令によって日本軍艦への臨検命令が出されていた。
拒否した軍艦に対し、米軍は警告を行い、全く従わないことから実力行使に出るが、砲撃は命中することなく日本の軍艦は逃げてしまった。
おり悪くと言うべきが、仏印駐留艦の交代が行われるタイミングで、哨戒中の艦が逃走して数時間後に、仏印へ向かう巡洋艦がバシー海峡を通過しようとしていた。
指揮系統が違うため、巡洋艦には米国との衝突がまだ伝えられていないという悲劇も重なることになる。
日本艦が舞い戻って来たと思った米艦隊は巡洋艦へと接近、有無を言わさず攻撃を開始してしまう。
運が無かったのは、この場合は米艦隊だった。
小型のコルベットと水雷艇しか持たない艦隊は、改装を終えたばかりの軽巡洋艦を相手にしていたのだった。もし、逃げた哨戒中の旧式駆逐艦であったなら話は違っただろうが、突然の攻撃に対して荒てることなく応戦し、数射で水雷艇を撃沈された米艦隊は被害の拡大を恐れて退却していった。
この衝突が米国に伝わると即座に日本による戦闘行為だとして大統領はラジオを通じて世界に日本批判と不当行為を行う日本への報復を宣言する声明を発表した。まあ、事実上の宣戦布告が行われたわけだ。
時に昭和十六(1941)年八月二日の事だった。史実よりも四か月も早い開戦となってしまう。




