31・殿下、大陸の静けさに不安を覚える
欧州でまやかしの戦争が続く中、アジアでは泥沼の激戦が展開されていた。
西方で攻勢に出た朱勢力は人道などというモノがない様な方法でロシア軍に殲滅されていき、上海では日本軍の増援が行われたことで一帯から撤退を余儀なくされている。
華中を侵攻したスキンヘッドの軍勢は黄河に達したところで堤防を破壊、対陣して待ち構えていた北京政府軍を現地の市民もろとも押し流すという暴挙に出る。しかし、この惨劇は米国においては南部勢力を水攻めにしようとした北京政府と日露による失敗と報じられることになった。
華中における北京政府軍の崩壊という事態に、日本軍も攻撃に参加し、空軍を山東省へと派兵、自らぬかるみに嵌ってしまったスキンヘッドの軍勢へと攻撃を加え、大損害を与えることに成功した。
各地で攻勢を頓挫させた南部、朱勢力は夏を待たずに分裂し、その一部は北京政府へと合流して正統民国政府の樹立を宣言するに至る。当然ながらスキンヘッドはその行為を批判するが、反撃すべき手持ち兵力が払しょくした事から、傍観する以外の手は残されていなかった。
ちょうどその頃、欧州でも事態が動き、ドイツが低地諸国へと進攻していく、英国はノルウェー北部の占領を目指したものの、やはり史実通りに推移してしまってドイツの占領するところとなってしまう。
ノルウェー侵攻が終わるとすぐさまフランス侵攻が始まった。
俺はこの後の経過を知っているが、周囲は戦線が膠着して第一次大戦の繰り返しになると言っていた。
ふたを開けてみれば当然のようにひと月でフランスが敗退してしまった。やはりと言うべきかなんというべきか。
ただ、史実とは違って早期に4隻が戦力化しているダンケルク級戦艦が気を吐いている。1万5千トンの制約を守ったドイツには、すでに7隻の装甲艦があるが、32ノットの高速戦艦には敵わない。ブレストにいた2隻は英国へと逃れて雌伏のときを待っている様だ。
日露と交流のあった英国は英国面に墜ちていない。九五式中戦車と同等の戦車を製作して派遣軍に配備していたが、残念ながら、ドイツ軍の猛攻を跳ね返すには至らなかったらしい。まあ、搭載砲が2ポンド砲な時点でやはり英国面なんだろうか?
だが、日露はこの戦闘で、2ポンド砲でドイツ戦車を撃破出来たり、37ミリ砲を防げたりしたからと言ってまるで見向きもしていない。すでにT34の存在を察知しているからだ。
それよりも、南部勢力が分裂して攻勢が弱まった機を逃す訳にはいかない。今のうちに対ソ戦に備えておく必要があるだろう。
史実では侵攻が無かったからと言って、この世界でも無いとは言えない。独ソ不可侵条約の中身は分からないが、もしかしたらソ連によるロシア侵攻に何らかの言及があるかも知れないのだから。
日露はソ連に対して備えるとともに、日本は英国の要請もあって仏印への進駐を行う事になった。相手はヴィシー政権に属し、事によっては南部勢力に対するドイツによる支援を継続する可能性があると考えたためだった。
日本は英国の要請に応じてインドシナ政府に対し、その帰属の明示を求めた。
インドシナ政府はヴィシー政権にも自由フランスにも属さず中立になると表明したが、ヴィシー政権がコレを批判し、インドシナはヴィシーに属すると声明を出した事で、日本は仏印への進駐を決定した。
これに反対したのが米国だった。またもや日本の侵略的野心なんだそうだ。なにせ、この頃にはシンガポールにすら英軍はごく一部の管理部隊と警備のインド兵以外駐留していない状態だった。対して、インドシナには少数成れど艦隊もあれば陸上兵力もあった。ヴィシー政権側だというなれば、シンガポールが危機に瀕するのは明らかだった。
日本は進駐に際し、中立を維持するための保証占領として、両フランス政府の指示を戦争終結まで受け取らない事を求めたのだが、米国はそれが気に入らなかったらしい。
英国はこの時すでにドイツの空襲に晒されていた。
日本からも多くの商船が救援のために大西洋に向かったが、パナマ航路については米国による遅延工作でなかなか通航が認められないという事態になってしまった。
これには英国も不信感を募らせるのだが、米国は平然と、戦時国家への加担を極力避けるためと言い放った。
幸い、米国による臨検などは発生しなかったが、この船に積み込まれていたのは英国すらまだ実用化できていない高性能レーダーセットだった。
このレーダーによる航空管制によってその後の防空戦が楽になったというシロモノだ。他にも対空砲管制用のレーダーも積み込まれており、米国に押収されたら大変だった。レーダーを造ったのは他でもない、瀬戸内の造船所だ。あそこの電機機械部門はレーダーや無線機を空軍と組んで多種多様な開発を行っている。その成果は空軍だけでなく、海軍にも渡されている。陸軍も野戦レーダーを求めてはいるが、まだそこまでの小型化には成功していないようだ。
こうしてこの年はアジアでは平穏に、欧州では国の存亡をかけた戦いと共に暮れていくことになった。
結局、ソ連がロシアに侵攻してくることはなく、蘭州朱鉄路による供給も無為に内乱を拡大させるだけで強化された民国政府への打撃とはならなかった。




