30・殿下、米国の動きを考える
昭和十四(1939)年と言えばポーランド侵攻によって第二次大戦が始まった年だ。
ただ、現在の情勢は史実とずれが生じている。その最大のずれが米独関係だろう。
もともと米国は第一次大戦時から戦後の復興に至るまで欧州への支援を継続しているが、対独関係は最近より強化されている。
さらに、俺が知るモノと違って、ミュンヘン会議に参加した上にチョビ髭の要求をすべて呑んで、合意書簡まで交わしているのだ。さらに、中国においても協力関係にある。
何かが大きく違う。そんな気がしている。
そして、欧州の動きを注視していたのだが、ドイツはやはり、史実通りに東方へとドンドン突き進んでいく。そして、ポーランドに対する要求が始まって行く事になった。
四月には独・ポ不可侵条約の破棄が通告され、緊張が高まる中で独ソ不可侵条約の締結が行われた。これに対してロシアはすぐさま反対表明をし、ドイツをソ連と並ぶ敵国だと名指しで批判を行った。
こうした危機が高まっていく中で、米国は史実と違う動きを行う。
英仏がポーランドに接近し、ドイツへの牽制を行う一方で、米国はポーランドに対し、部分的な領土の割譲が起きてでも平和裏に解決されることが最優先だと、ミュンヘン会議の様なものを提案、ポーランドさえ条件を飲めば支援の拡大も行うと表明した。
当然と言うか、ポーランドは米国の仲介を拒否してドイツと対峙する。
ドイツは米国の仲介に乗るようなそぶりを見せ、ポーランドへの揺さぶりを続けながら、史実での開戦日であった九月一日を過ぎても侵攻は始まっていなかった。
米国は再三の会議開催をポーランドに求めるが、ポーランド側は回廊問題や自由都市問題で妥協の余地はないとしてまるで取り合おうとしなかった。
その間、米国は英仏に対してもポーランドが妥協さえすれば戦争は回避できると説得に回っていると、英国から情報がもたらされるが、英国もそれ自体を疑っている様子だった。今の米国には史実の様な信頼が存在しないという事なんだろう。
ロシアにおいてはドイツがソ連と不可侵条約を結んだ時点から戦時動員を密かに始めており、いつでもソ連軍の大進攻に対する備えを整えていた。
しかし、それも簡単にはいかない情勢が北京政府によってもたらされる。
ソ連軍がバイカル湖畔から侵攻してくる、或いは、モンゴルを通ってやって来る事を想定して作戦計画を立てているのだが、現在、手薄になっている蘭州朱鉄路によって多くの物資が運び込まれているというのだ。
ロシアはすぐさま蘭州へと爆撃を開始するのだが、いつもと様相が違い、多数の迎撃機によって多大な損害を出すことになってしまった。
数次にわたる爆撃を繰り返すが、被害が拡大するばかりで効果的な爆撃が行えているとは言えない。更に、米国が爆撃を非難し始めるようになった
米国の非難は何時もの事ではあったが、今回は焼け野原のがれきにポツンと取り残された赤ん坊の写真を使って反戦キャンペーンが展開されることになった。
そして、これまで大規模ではなかった米国製兵器のスキンヘッドへの供与も開始され、ポーランド侵攻が始まっていない九月の段階で、中国大陸では大規模戦争が開始されている状況だった。
米国の主張によれば、イルクーツク爆撃でも多くの市民を無差別に爆撃し、蘭州に対しても無差別爆撃を行っているという事になるが、米人記者以外にその実態を見た者はいないという不思議な状況だった。
こうして猫型オッサンとスキンヘッドへと大量の武器が渡り、新たな北伐が開始されたのが十一月二十五日だった。
この大規模北伐ではまたもや上海へも軍勢が殺到し、警備していた日本軍はあまりの多さに抗しきれずに戦線を縮小して増援を求める事態となった。
更に、手薄になっていた西部地域に朱勢力が殺到し、ロシア軍は急遽本国の部隊を移動させる事態となってしまっている。
華中でもスキンヘッドが潤沢な米国製兵器によって武装し揚子江を越えて北進を行っている。
世界の目が中国へと向けられた十一月末、ソ連がフィンランドへと進攻を開始した。
世界はポーランド危機を忘れたかのようにフィンランド支援の有無を協議しだしたのだが、それを見計らうかのようにドイツがポーランドへと進攻を開始する。
これら一連の動きに対し、米国は表面上は抗議するものの、話し合いで解決可能との姿勢を崩すことなく、英仏にも「冷静な対応」を呼びかけるのみだった。
米国の対応が一貫して後ろ向きであったことから英仏も逡巡することになった。当初はドイツとソ連への抗議で事を済ませようとしたのだが、ドイツの動きは対ポーランドに留まるとは思えないとして、ポーランドが陥落する間際になってようやく対独宣戦布告が行われることになった。英仏による対独参戦に対し、米国は落胆したと表明して、最低限の食料、医薬品以外の支援は民生品に限るという旨を表明するに至る。
大規模戦争が開始されたはずだが、ポーランドは独ソが挟撃してあっけなく占領され、片やフィンランドにおいてはソ連軍の攻勢が失敗して不穏な静寂が続いていた。
宣戦布告をした英仏も戦時体制にある訳ではなく、すぐさま攻勢に出る事は出来ず、大きな戦闘が起きることなく昭和十五(1940)年を迎えることになった。




