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29・殿下、欧州の動きに警戒を強める

 昭和十三(1938)年、日本は南京侵攻という挙に出ることなく新年を迎えた。南京政府は事の次第をのらりくらりとはぐらかし、米国は大統領が舌鋒鋭く日本批判をした。史実では名指しを避け、そこにエチオピア侵攻を行うイタリアやナチスの台頭したドイツを含むものとされていたが、この世界においては19世紀中にエチオピア問題は片付いており、ドイツは経済と対中政策での連携国である。そのため、あからさまな日本批判を展開する形をとったらしい。


 この世界、ロシアの存在によって米国への金の一極集中が起きていない。欧州からロシアへの投資も行われ、日露はその恩恵によって経済成長著しい。

 ロシア領となったテーハン(朝鮮半島)やマンチュリア(満州)でも経済発展著しい。


 対して、米国ではニューディール政策が息切れして不況に陥っているのが現状だ。最大の市場であるべき中国大陸は混乱の渦中にあってうまく行っていない。日英露による北京政府支援によって華北は一応の平静を保っているのに対し、華中以南の戦乱は未だやむ気配がない。それどころか、反帝国主義が南部勢力に広まりだしており、その対象には米国も含まれようとしている状況だ。

 当然、面白い訳はないだろう。


 そんな中で起きたのがオーストリア併合だった。チョビ髭台頭以前から独墺関係は幾度かの実質的な併合を模索していたが、それらは第一次大戦後のジュネーヴ体制に明確に反する行為とみなされ、これまで頓挫してきた。

 しかし、再軍備以後、ドイツはジュネーヴ体制の破棄を明確にし、朱勢力への対抗を餌に英仏を巧みに懐柔することに成功していた。当然だが、そこには米国のお墨付きがあったのも忘れてはいけない。

 そうやって外堀を完全に埋め、イタリアの反対を軟化させる策に出たのち、電撃的に併合の合意が発表されている。

 秋に行われた国際会議は史実と違う顔ぶれとなる。そこに米国大統領の姿があったのだ。彼は史実のイタリア首相のお株を奪う振る舞いを行い、ドイツに大きな譲歩を行う事になった。

 それには誰も口出しできるものではなかった。なにせ、欧州各国は少なからず米国からの支援を受けており、表立って批判出来きない状況が作り出されていた。


 チョビ髭は米国大統領と会談し、感謝とこれ以上の拡大を行わないことを確約する書簡をかわしている。


 欧州でそのような動きがあったその頃、アジアにおいてはソ連による攻勢がとうとう始まってしまう。

 

 その発端は鋼の粛清者が東方へ追放した囚人が大挙してロシアへと亡命した事だった。中には技術者や科学者、軍人が居り、彼らはソ連における粛清について多くの証言を行っている。

 ソ連はロシアが発表したそれら証言を含む声明を真っ向から否定し、ロシアによるソ連人民の拉致事件だと声高に叫び、拉致被害者の返還を要求した。


 当然だが、命からがら逃げだした亡命者たちが帰りたいはずもない。亡命者を含んだ会見も、ソ連は洗脳や強迫によるものとさらに批判を加え、実力行使を宣言するに至った。


 こうして、5月にバイカル湖畔から侵攻したソ連軍とロシア軍が衝突することになったのだが、ロシアが長年かけて築きあげてきた防御陣地を攻略することは出来ず、膨大な犠牲を出しながら10月には撤退していくことになった。

 ただ、これはソ連が一方的に撤退しただけで停戦交渉すら行われておらず、空での戦闘は継続して行われ続けていた。

 ロシアによるイルクーツク爆撃が行われると、ソ連はその事実を即座に公表し、ロシアの残虐性を世界に訴えかけることになった。それに呼応するように動いたのが、これまた米国であった。12月には米国の仲介によって一時的な停戦と「拉致問題協議」が行われることで合意がなされることになった。


 この露ソ紛争によって内蒙古にいたモンゴル軍やロシア軍は大半がバイカル湖湖畔やモンゴルへと展開し、ソ連軍の更なる侵攻に備えることになり、蘭州への圧迫は大きく減退してしまう。

 その隙をついて朱鉄路によって多くの物資が猫型オッサンの勢力へと供給され、それはスキンヘッドへもわたることになった。

 この頃、山東に駐留していた北京政府軍はソ連の支援物資を手にした朱、南部勢力からの攻撃に晒されることになった。

 上海警備に就いた日本軍も同じくそれらへの対処を求められるようになる。


 だが、それらは12月に露ソの停戦が実現すると南下してきたロシア軍によって一気に排除され、北京政府の支配地域は昭和十四(1939)年春には揚子江北岸まで達することになった。


 米国はこのロシアによる南下進攻や日本の上海防衛戦を批判する声明を出す。租界をもつ欧州各国はその声明に首を傾げるのだが、米国内では大きな支持を受け、スキンヘッド支援が露骨に唱えられるきっかけともなった。

 だが、その米国にも大統領の行動に皆が賛同していたかと言うとそうとも言えない。前ロシア皇帝らによって、ソ連による粛清が如何なるものかが周知され、拉致が荒唐無稽であることも知らされていたからだ。が、一般米国人には、中国を苛め、韓国を併呑してしまった日露は悪役であって、悪役を批判する大統領は正義の味方だった。


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