20・殿下、軍縮条約締結に安堵す
経済恐慌の影響で欧米では大混乱が起きている地域もあるらしい。しかし、日本ではそうでもない。その要因はロシアの存在だった。
ロシアはわずか数年前に出来た新しい国だが、その下地はユーラシア大陸北方の多くを領有したかの大帝国だった。
革命とその後の内戦によって多くの人々が難民となり、さらにソ連政府による迫害もあって東へと逃れる人々が多数発生していた。
彼らを受け入れたのがロシアだったのは当然で、その為の資金も潤沢とは言えないが有していた。
もともとの領土は東部シベリアとされていたが、そこは気候が厳しく、押し寄せる人々を養うに足る食糧確保が難しい土地であった。
当然のようにロシアは南下政策をとり、満州を支配することで穀倉地帯を手に入れ、何とか一息つくことが出来たのが最近の話。
さらに、革命騒動によって韓国を日本が併合した際に、ロシアへとその譲渡を持ちかけたことで更に食糧問題の不安は少なくなっている。そもそも気候の厳しい北樺太など、彼らにとってどうでも良かった。革命騒ぎの時点で日本が保証占領しており、建国後に返還されたとはいえ、そこの石油利権は日本が保有しているのだから、それ以外にめぼしいものが何もない島などと穀倉地帯を交換してくれるというのだから、願ってもない提案だった。
そうして食糧問題に目処がつくと、次の問題は産業についてだった。一応、日本の権益であるとはいえ、朝鮮北部の資源地帯は自国のモノであり、南満州の鞍山鉄山もその利便性は日本よりロシアにあった。難民としてシベリアへ逃れてきた難民の中には冶金技術者もいるのだから、彼らの働き口を作らない手は無かった。
こうして、ウラジオストクやユークボールト(プサン)やウースチェリースク(仁川)には造船所を持った巨大なコンビナートが建設され、満州や内陸部にも工業地帯が建設されていくことになった。
そうした資材は鞍山や朝鮮北部で生産され、必要な機械類などは直接、ないしは日本を介して輸入されていた。
当然、海外から運び込む物資は膨大で、それらの輸送に必要な貨物船の多くは日本から購入され、列車も同様に日本から購入していたのだから、日本が大恐慌という訳はない。特に、日本海沿岸は新たな交易によって活気づいているほどだった。
そんな状況がある事から、当然ながらロシアの軍備も充実していくことになる。
が、それは米国にとって非常に目障りなものだった。
ワシントン条約から5年、補助艦艇の制限に関する会議が開かれたが、米国の強硬な主張を日英が一致して拒否した事で物別れとなる。
その後、日本はロシア海軍の整備に協力し、新型の駆逐艦や巡洋艦を輸出しているのだが、それらはそれまでの日本の軍艦とはまるで違うものとなっていた。
重巡洋艦は日本ですら採用されていない20.3センチ3連装砲塔3基を備えており、水上機を多く搭載していた。軽巡洋艦は14センチ連装砲4基を備え、これまた水上機の運用を重視している。軽巡洋艦は主砲を夕張の14センチ連装砲からさらに改良した長砲身型であり、まるで後の阿賀野型を思わせる艦容を持っている。
駆逐艦も日本の特型とは一線を画し、アメリカの同時代の駆逐艦のように背負い配置の主砲を持っている。主砲は史実にはない十一年式12センチ高角砲と言われるもので、三年式12センチ砲を改良して発射速度や操作性を向上した両用砲として開発されたモノらしい。史実の十年式高角砲とはまるで別物だという。
どうやら、日本海軍も同じものやその改良型に興味を示しているらしい。設計したのは軍務省配下の技術研究開発部で、世が世なら艦政本部と呼ばれていたであろう部署だ。まるで英国のように新型を海外へ輸出して実験するというのはこれまでなかったやり方と言えるだろう。
こうした艦がロシアへと引渡され始めた昭和七(1932)年、これまで遅延していた軍縮会議が再度、東京で開かれることになった。
米国が強硬にロシアの軍備削減を主張するが、日英露が一致してこれを拒否し、かわりに米国の一部戦力拡充を認めることで何とか軍縮条約を結ぶことが出来た。
この頃になると米国はより一層強硬姿勢を見せるようになってきていた。
これまでも、ジュネーブ会議の席上で日本による韓国保護を執拗に批判し、ロンドン会議の席上では日ロによる満州支配と英国の協力を批判していた。
今回、それらが鳴りを潜めたのは不気味な事だったが、それはどうやらドイツへの接近とドイツ軍事顧問団を南部勢力に送り込むことの合意が裏にあったらしい。
それを裏付けるようにスキンヘッドの軍勢は北進を行うが、所詮は寄り合い所帯であることから統制が取れていない。それでも揚子江流域までをほぼ支配して米国の経済圏へと入る事で一応の安定を見せるようになっていく。
ただ、米国がその程度で満足するとは到底思えなかったのだが。




