13・殿下、子守に奮戦す
とうとうやってきた。人為的な事は人間が事前に知識を得れば介入し、改変してしまう事は可能だ。
ただ、改変は出来るのだが、それが果たしてどのような影響を与えるかはよく分からない。
よく小説などでは、歴史の修正力とか言われることがあるが、俺はそれに直面した事がない。
しかし、改変しようとしたことで予想外の事態が起きることはいくつもあった。
例えば、日韓併合だ。
俺は単にあの時点での併合に反対したに過ぎない。なのに、保護政策の継続ではなく、併合否定によって、保護政策も大きく後退するという反動が起きた。
結果として暗殺されるはずだった元老が未だに生きている。史実では元老間のバランスが云々と言われたが、ここではうまく機能している。一人の有力な元老が存命であるというだけで、ある意味、政治はうまく回っている。軍縮条約で海軍内に不満があるらしいが、それも元老が抑えてくれているらしい。
さらに、日本の欧州参戦やシベリアへのロシア亡命帝国の樹立によって世界情勢にも影響を与えている。
中露対立はその一例であり、中央アジアや東欧でも色々な事が起きている。多くは紛争だが、極東にソ連軍を誘引した事で、欧州では史実よりも多くの領土を得る国が出ている。が、それは東欧諸国間での対立激化にもなってはいるのだが・・・
が、これまでのところ、そうした世界情勢の変化が起きたところで自然現象に変化は起きていない。噴火や地震などの災害はタブレットの年表通りに起きている。そうなると、もうすぐ関東大震災だ。
これについては既に様々な対策を行っている。
消防組織の効率化や地震の周期性の啓発などは最たるものだろう。
有名な東海地震や南海地震などと共に、関東直下地震をそこに組み入れて話が行われている。
東海や南海の地震は100年程度の周期でよく知られているが、関東直下は前回が元禄年間という事でほとんど注目されていない。
それでも話に乗せてもらって、「一番近いのは関東だ」という話をここ最近は行っている。
半信半疑ではあるようだが、その話を元に防災訓練や様々な災害対策が行われ、9月1日の昼にも行う事が決まっている。
訓練は午前11時過ぎから行われ、正午過ぎには避難所に設定された試食コーナーで缶詰が振舞われることになっていた。
そのため、多くの参加者は昼食の準備をすることなく訓練に参加させ、出来るだけ火事を減らそうという試みだった。
珍しい缶詰が振舞われるというので参加者も多く、昼時という事で多くの企業も参加していた。
実際には訓練に際しての試食というのには多すぎるほどの食料が準備され、災害に備えていた訳だが。
「本物の地震だぞ!」
訓練という事で集まっていた人々が地震の発生で騒ぎだすが、各所に配された軍や警察が彼らを誘導していく。
関東一円の陸海空軍は訓練への参加のために待機しており、そのまま実際の災害出動と相成った。
こうした迅速な対応のかいあって、被害は最小限に抑えられたが、犠牲が出なかったわけではない。
火災件数も減ったとはいえゼロではなく、やはり、場所によっては大規模に延焼してしまう地区も出ていた。
そうした被害が出る中で、俺は部隊の一員として避難誘導に当たっていたのだが、親とはぐれてしまったらしい子供を発見して保護した。
その子を連れて近くに開設されていた救護所へ向かったのだが、そこには我が家のじゃじゃ馬がけが人の手当てを行っていたのだ。
今日の訓練ではただ避難するだけで救護に入る必要は無かったのだが、どうやら我が家の使用人たちを指揮してここで活動している様だ。
あちらも気が付いたようで、しまったと言った顔をしている。
「悪いが、迷子だ。ここで預かる事は出来ないか?」
そう聞いたのだが、
「けが人の手当てで手一杯でそこまで手が回りません」
何だか思い詰めたような、それでいて覚悟が決まったような顔でそう言われた。
確かにそうだろう。史実の10万人という犠牲から比べたら少ないが、それでもかなりの規模の被害だ。ざっと見ただけでも手が足りていないのが分かる。
「そうか、悪かったな。迷子はこちらで何とかしよう。ここにも来るようなら知らせて欲しい」
そう言ってその場を後にしたのだが、どういう訳か、ほっとした顔をしている。
それから何とか迷子の預かり所を手配できないかと探したのだが、どうにもならず、俺自身が迷子預り所を立ち上げることになってしまった。
ちょうど、俺の部隊に居た小野田という奴が優秀で、色々手配してくれた。彼が動いて俺が子供の相手をする。そう言う役回りだ。
気が付けば100人以上の子供が集まっており、一人ではどうにもならなくなったのだが、何人か手伝ってくれる人が出てきて、いつの間にやら我が家のじゃじゃ馬姫もここに来ていた。
事態が鎮静化してからじゃじゃ馬姫の態度が変わった。
どうしたのか聞いてみたら、俺がヤヴァイ部隊の一員としてシベリアに行っていたので、この時代に多い女子供をすぐに殴る人物と思われていたらしい。
誤解が解けると、相変わらずのじゃじゃ馬ではあるが、笑顔が絶えない金髪美人がいつも側に居るようになった。
新聞でも親とはぐれた子供を預かっていたことが取り上げられ、俺たち夫妻と預り所にやってきていた子供たちが歓談する姿が掲載される事になった。
そのすぐ後に行われた例の会議では、女好きの元老がなんとも言えない視線を俺に向けていた。あんた何歳だよ。未だに落ち着かないのか?そりゃあ、父が直接注意もするはずだ。




