なんだか変な感じ
木曜日の深夜2時。
帝都高速のパーキング。
平日の夜に高速へ上がり始めて、もう四日が過ぎた。
正直なところ、意地になっていることは自分でも気づいている。最初こそ、ガンテツを訪ねてゆくことに妙な面白さを感じていた。だが実際に「本気組」の集まる平日に出かけてみれば、自分の場違いさに浮き足立ってしまう。
彼らが自分たちの違法行為を、どう思ってるかは分からない。彼らなりの理屈があるのか、それとも開き直っているのか。しかし、そんなことはどうでも良かった。
アカネにとって問題は、「彼らの世界そのもの」にある。
怖いのだ。
バックモニタにポツリと光点が浮かんだと思うと、ひと呼吸する間にその点は洪水となって背中に迫ってくる。車線をゆずる暇もなく、ただただ恐怖に硬直した次の瞬間、公定速度の2~3倍と言う狂気の速度で抜き去られる。
風切音がうなり、サイドウインドウが震え。
我に返ったときには、赤いテールランプが小さく消えてゆく。
ハンドルにしがみついていたアカネは、そこでようやく息を吐くのだ。
それでも三日目くらいから、ようやくコツをつかんだ。車線変更をせず、ひたすら一定速度で走ればいい。余計な動きさえしなければ、彼らは勝手に抜いてゆく。
「なにやってんだろ、私」
そう思わないでもなかったが、ここまで頑張ったのだからと意地になる。それに、確かに恐怖は感じていたが、同時に魅力も感じていた。
自分には想像もつかない速度で夜を駆ける彼らの目に、世界はいったいどんな風に映っているのだろう?
もはやガンテツに会って談笑するなどと言う気持ちは消えていた。
ただ、彼らの世界の片鱗に触れ、感じてみたい。
◇◆◇
そのオートモビルは、ちょっと様子がおかしかった。
速いことはまあ速いのだが、それより、なんと言うか車体にまとう空気が違うのだ。
「何が違うんだろう? なんだか変な感じ」
アカネには、その違和感を具体的に説明できない。そして説明できないながらも、妙な警戒を抱いてしまう。「あのモビルには、近づきたくない」強いて言葉にすれば、そんなところだろうか。怖さより不快な違和感を、アカネは感じていた。
そして、その違和感は正しかった。
環状線で、何度も同じモビルに抜かれるのは、いつものこと。しかし、例の不快なモビルが二回目に近づいてきたとき、派手な赤で彩られたその車体は、アカネの横で速度を緩めた。横に並んだサイドウインドウは真っ黒で、中の様子は分からない。
アカネは、嫌な気持ちになると同時に、あせりを感じた。
このまま併走していたら、後ろから来る夜棲の邪魔になる。申し訳ないというより、事故になるのが怖い。仕方なく、モビルの鼻先をパーキングへ向けた。すると、赤いモビルもアカネの後へついてくる。ますます不快で、気持ち悪い。
嫌な脂汗が吹き出すのを感じながら、パーキングにモビルを停める。赤いモビルはその横へ、ぬるりとした曲線の車体を寄せた。
急いでモビルを降りたアカネは、休憩所へ向かって歩き出す。
すると、同じく降りてきたドライバーが、その後ろから声をかけた。
「よう、待てよ姉ちゃん。そう、つれなくするなって」
ネバつく声を聞いた瞬間、アカネは総毛立つのを感じた。
今まで何度もパーキングに来て、週末なら知り合いもいる。そして平日にきたこの三日間は、それとは正反対。当然のことながら、「本気組」の誰も声を掛けてこなかった。しかし、週末組と本気組のどちもにも共通する事がある。
週末組は仲良くできたし、本気組も仲間同士の会話は楽しそうだ。速度や世界は確かにとても怖いけれど、彼らも人間としては、アカネと同じ常識の中に住んでいた。
ところが、後ろから聞こえた声の怖さは、全く別だった。
夜棲の危険さは、離れてしまえば関係のない世界の話である。しかし、この男から感じる危険さは、「自分が対象」の危険さ。ありていに言えば、強姦、暴行、強奪に対する恐怖である。
「まあまあ、そう硬くなるなって。話くらい聞いてくれてもいいだろう?」
男は、なれなれしい口調で、話しかけてきた。
「なんですか」
振り向かないまま、アカネは硬い声で応じる。
すると、男が返事をするより早く、別の声が聞こえてきた。
感情のないその声音は、背筋にゾクゾクとした悪寒を走らせる。
「なんだ、女がゴネてるのか?」
思わず振り向くと、ふたりの男がこちらを見ながら立っていた。
ひとりは長髪で、背が高く痩せている。爬虫類のような瞳は、どこを見ているのかさえ判然としない。顔は整っているのだが、とにかく全体に生気を感じられない。
こちらが、後から声を掛けてきた男であった。
そしてもうひとりは先に声をかけてきた男。髪を短く刈り込んだ、中肉中背の男だ。鍛えられバランスの取れた身体だが、背中を丸めた姿勢が悪い。ふちのないメガネをかけた顔に、意地の悪い笑みを張り付かせている。
背の高い男は、面白くなさそうに突っ立っていいた。反対にメガネの男は粘ついた視線で、アカネをニヤニヤと見つめる。その視線に、実に不愉快な「湿気」があった。女に生まれて、女として生きてこなければ決してわからない。
そんな類の湿気だ。
アカネはキョロキョロと辺りを見回す。パーキングのはるか向こうに、夜棲たちの姿が見えた。意を決して、大声で助けを呼ぼうと息を吸い込んだ瞬間。
「まったまった、俺たちはミツヒコのダチだぜ」
メガネの男が口にした名前に、アカネの心臓が止まる。
水野ミツヒコ。
それは、ほんの一ヶ月前まで、結婚を考えていた男の名前だ。付き合ってると知ったとき両親が喜んだ名であり、別れたあとはその両親に失望と不安をあたえた名でもあった。
ミツヒコの名はともかく、水野という姓には大きな意味がある。
水野家はこの国の支配階級のひとつ、士家に属するのだ。衆民であるアカネとは身分が違う。だからこそ両親はミツヒコとの交際を喜び、破局に失望したのだ。
もっともアカネの方は、結婚などありえなかったと、今ではわかっていた。
ミツヒコの人となりを考えれば、彼が自分と結婚などするわけがない。他人を上から見下し、不都合はすべて自分以外のせい。彼の人間に対する判断基準は、いつも身分と家柄と経済力。
「身分や家柄より、人間は中身が大切だと思わない?」
ミツヒコのそんな言葉も、要するにポーズだったのだ。「下々の者にさえ平等な自分はなんと公平で、なんと立派な人間だろう」そんな風に自分を演じて、演じた姿に酔っ払っていたのである。
「知ってるだろう? おまえの元彼の、水野ミツヒコだよ」
「そう、モトカレよ。今は関係ない」
「ところがミツヒコ的には、関係ないじゃ済まないんだよねぇ」
メガネの男は、じっとりとした視線をアカネに這わせながらニヤリと笑う。
その横では背の高い男が、アサッテの方を見ながら立っている。しかし、時折こちらへ向ける視線には、氷のような鋭さがあった。
「士家の長男坊が衆民の女と、遊びとは言え付き合ってた」
「それを感謝しろって言いたいの?」
「じゃなくて、バレたら外聞が悪いだろ? 士家は体面を気にするから」
「心配しなくても、誰にも言わない。私だって忘れたい過去だから」
アカネの返事に、メガネの男は首を横に振る。
「それじゃ信用してくれないんだよね、向こうさんにとっては死活問題だし」
「じゃあいったい、どうすれば……」
「事故死だ。おまえは別れを苦にして無謀な運転をし、事故で死ぬんだ」
背の高い男の非情な言葉に、アカネは声を失う。
「本来ならさっき走ってる間に、事故を起こすところだった」
「…………」
「だけど、それじゃあもったいねぇだろう? おまえみたいに美味そうな女」
メガネの男が下卑た薄笑いを浮かべて近づいてくる。
「おとなしくいい子にしてろよ。そしたら、殺さないでやるかも知れん」
その言葉へ、アカネよりも先に、背の高い男が反応する。
「どういうことだ? おまえが楽しんだあと、殺す手はずだろう」
「ばーか、あんなはした金で殺しなんて、おまえ本当に考えてたのか?」
「なんだと? キサマ裏切る気か?」
背の高い男が冷静なまま目を細めると、メガネの男が笑う。
「この女が邪魔って事は、逆に言えば、カネになるってことだろうが」
「……なるほど。しかし、水野を敵に回して、どうやる気だ?」
「けけけ、やっぱり乗ってきたか。そうこなくちゃ。なーに、簡単だ」
「傍流とは言え士家だぞ? 動かせる人間も多い」
「ふん、俺たちみたいな、か? そこだよ、問題なのは」
男たちは世間話をするように、のんびりした口調で言い合いながら、いつの間にかアカネの逃げ道をふさいでいた。こういったコトに慣れているのだろう、動きに無駄がない。
そして、アカネが大声を出そうとした、その瞬間。
背の高い男の腕が伸びて、彼女の口をふさいだ。
同時にメガネの男が、取り出したゴムボールを、アカネの口に押し込む。クチにボールを突っ込まれた上から、顔ごと布でふさがれた。数秒でこれだけの事を行うと、ふたりは手際よくアカネの四肢を拘束する。
結束バンドと一般に呼ばれるプラスチックのベルトが、手首と足首に巻かれてすぐにカチカチとロックされた。とたん、アカネの身体は抱え上げられ地面を離れる。恐怖でパニックになったアカネは、死に物狂いで暴れた。しかし、四肢を拘束された上、顔に布を巻かれ、口にはボール。
もごもごと芋虫のように動くだけで、なすがままに運ばれてしまう。
(いやだ、いやだ、いやだ! たすけて! たすけて!)
頭の中で狂ったように悲鳴が渦を巻くが、口に出すことは出来ない。
やがて、どさりと柔らかい物の上に投げ出される。赤いモビルの後部座席へ放り込まれたのだろう。必死になって当たり構わず暴れていると、くるりと身体を裏返され、うつぶせにされた。
そして手首と足首の縛めを、別の結束バントでつながれてしまう。アカネは両手両足を後ろに回し、シャチホコのような姿で動けなくなった。くぐもった悲鳴が漏れ、顔を覆った布に涙がしみこむ。
「おい、おまえが運転しろよ! 俺はこっちでやることがある」
「ダメだ。キサマのスケベ心で万が一があっては、俺が困る」
「……ち、わかったよ! その代わり、姦るのは俺が先だ」
「俺はやらん。それよりドコへ運ぶ気だ? 例の場所は使えないぞ?」
「がはは! そりゃそうだ。のこのこ戻ったら、女ごと消されちまうからな」
身体をまさぐる男の手から必死で逃げていたアカネは、不意にその手が離れてゆくのを感じた。代わりに背の高い男の声が、驚くほど近くから聞こえてくる。
「おい、静かにしてろ。今すぐ殺しても、こっちは困らないんだぞ」
内容よりも、声の持つ冷たい凄みに、アカネは身体から力を抜いた。
もちろん、あきらめる気なんて毛頭なかったが、今はどうしようもない。隙を見て逃げ出すためにも、おとなしくしよう。メガネの男は自分を強姦する気のようだから、そこに隙ができるだろう。
そんな風に考える自分に、アカネはすこし驚いた。
恐怖のメーターが振り切れて、現実味が乏しくなったのだろうか。もっとも、たとえ偽りの冷静さだとしても今はありがたい。とにかく今は、こいつらから逃げ出すことが最優先だ。冷静さを武器に隙を突こう。
ぐん。
身体にGを感じた。モビルが走り出したのだ。
縛めを解かれた時が勝負だと思いながら、アカネはおとなしくしていた。アクロバティックな恰好をさせられているので、あちこちの関節が痛い。
「ああ、そうそう。助けを期待してるんなら、ムダだからあきらめろよ?」
運転席の方から、メガネの男のバカにしたような声が聞こえてきた。あの男が離れてくれたのは、本当にありがたい。そのことだけは長身の男に感謝してもいいくらいだ。
「士家ってのは武官だからな。警邏関係者が多いだろう?」
だからパーキングでの一幕は無視されると言うことらしい。彼らが防犯カメラを気にしなかったのは、そういう理由だったわけだ。犯罪行為となれば、IDにキズが付くどころの話ではないのだから。
「この派手なモビルのことは、今夜に限ってすべて無視されるのさ」
本来ならこの赤いモビルで交通事故を起こし、自分を殺害する。しかし赤いモビルは無視され、アカネの単独事故として処理される。そういう段取りだったと、男が粘ついた声で笑いながら教えた。
それを逆用すれば、このモビルに乗っている限りかなりの無茶が出来る。男の言ってるのはつまり、そういうことだった。アカネから、またひとつ希望が抜き取られ、代わりに絶望が注入された。
ダメだ、あきらめるな! まだ死んでしまったわけじゃない!
そう自分を鼓舞するのだが、時間とともに恐怖が心を侵食する。ボールを噛まされた口の端から、よだれが顔の布へしみこんでゆく。エビ反りにされた身体がきしみ、手首と足首にベルトが食い込む。
怒りと、恐怖と、屈辱で、泣き出しそうになりながら。
アカネはじっと耐え続けた。