#09 それぞれの想いの先に ― 5八金右『超 急 戦』!
強敵、紗恵さんとついに激突! 甲高い駒音、額から零れ落ちる汗、熾烈な戦闘が繰り広げられる勝負の行方は、果たして――
「……私の事、舐めてるの?」
「僕は本気です。それで、もしも僕があなたに勝ったら――ナツメさんに会いに行ってくれませんか?」
しんと沈まりかえった空気。誰もが口をあんぐりと開けて唖然とする中、瞬きすらせずじっと僕の瞳を見つめている沙恵さんと、その視線を真正面から受け止める僕だけが際立っている。
昼食を取り終わると僕は将棋会館に行き、沙恵さんを探した。そして二階の同場で受付をしている沙恵さんの姿を見つけるなり、対等――平手での対局を申し込んだのだ。
『将棋で勝って沙恵さんを動かすことで、ナツメさんの抱えているしがらみを取り払ってもらう』――正気の沙汰とは思えない策。けれど、他に方法を思いつかなかったのだから、どうしようもなかった。
「……断る、って言ったらどうする?」
冷たいを通り越して最早突き刺すような響きすら帯びている沙恵さんの声に、僕は無言で背負っていたリュックを脇へと降ろす。
そのまま重心を下に移動させ、両膝をついた僕は――上体を折り、道場の固い床にゆっくりと頭をつけた。何処からか、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。
道場を再び重苦しい沈黙が覆い、一瞬とも永遠ともつかない時間が経った後。ようやく沙恵さんは、感情の読めない声で一言だけ、言葉を発した。
「……良いわ」
床に付けていた顔を上げた時、既に沙恵さんは僕を見ていなかった。沙恵さんはただ、窓の外をじっと睨みつけていた。
† † †
受付をやっていたもう一人の女性の計らいで、手合いカードは無し、対局はそのまま道場で行われる事となった。
振り駒の結果、初手は沙恵さん。後手の僕は不利だが、そもそもの実力差を考えれば、この程度の劣勢なんて今更だ。
それに――今の僕にとっては、後手番の方が都合が良い。
無難に角道を開けた沙恵さんに、こちらも角道を開けて応戦する。すかざす8四歩、と指す沙恵さん。
「『王者の一手』……って訳ですか。やってくれますね……」
それは、戦型を誘導できるという先手の有利を捨て、どんな戦型でも掛かって来いと後手を挑発する、まさに王者の風格を滲ませた一手。
上等だ。自由に選んで良いと言うなら、こちらから仕掛けるまで。
甲高い駒音と共に盤上に繰り出した一手は、5四歩。次の手番で中央に飛車を振る、その前準備。
僕が選んだ戦法は――ゴキゲン中飛車だった。角交換を恐れずに、角道を開けたまま自分から積極的に仕掛けていく、振り飛車の中では珍しい攻撃的な戦型。
僕自身の戦い方である振り飛車に、ナツメさんの大胆で攻撃的な戦い方を組み合わせ、新たな戦法として昇華させた。この日の為に準備してきた隠し玉だ。
ゴキゲン中飛車は後手番の戦法。振り駒で初手を奪われても気落ちしなかった理由は、まさに此処にあった。
条件は揃った。ナツメさんから教わった事の全て、この一局で出し切るッ……!
「へぇ、そう来るんだ……」
けれど、僕の選択を目にした沙恵さんの声は無感情だった。感覚を研ぎ澄ましていなければ聞き逃していたであろう、囁きのような声にチラ、と顔を上げるも、のしかかるような体勢で盤上を見つめている、その表情は窺えない。
「なら、これでどう?」
時間にして十秒ほどが経過した時だろうか。呟くように言葉を零すと、沙恵さんはゆっくりと手前に配置された金を持ち上げ、そして音高く打ちおろした。
「……まさか」
金を一つ前に進めただけの、一見平凡に見える手。しかし、こちらの飛車が中央に振られた今の状況において、それが意味するものは――。
「『超急戦』ッ……!?」
5八金右『超急戦』。それは江戸時代に将棋が正式な娯楽として定められて以来、最も苛烈な戦いと評される、将棋の『ドン』。
変化によっては詰みまで研究されている為に、『ゴキゲン中飛車を絶滅させる為の戦法』と形容される事もある戦型。
そして、さらにもう一つ。
――これは、ナツメさんが最も得意としていた戦法だった。
だから全く予想していなかった訳ではない。最も長くナツメさんと指してきたという自負を持つ沙恵さんが、ナツメさんの得意戦法を使ってくる可能性はそれなりにあったし、『超急戦』はゴキゲン中飛車の有力な対抗戦型の一つだ。
けれどそれは、以前に一度対局した際の『狡猾な罠を仕掛けて相手が掛かるのを待ってから、体勢を崩した機を逃さずに勝ち切る』という隙のない戦い方とは余りにも程遠い。
それゆえ、真っ先に選択肢から外していたのに、まさか沙恵さんの方から自陣を顧みない激しい殴り合いを仕掛けてくるなんて……。
今更のように後悔しても、もう引き返す事は許されない。互いに高速での定跡の応酬が始まる。
言うなれば、引き金に指の掛かった拳銃を突きつけ合ったまま、足場の悪い瓦礫の上を全速力で走っているかのような感覚。先に足を止めた方が、負ける。
「……ッ!」
先細りの路地(悪手)を、数多の袋小路(詰め路)を、紙一重で見極めて回避しながら、棋力で勝る沙恵さんに引き離されないよう懸命に食らいつく。
少しでも攻撃が緩めば、こちらからも負けじと攻め手を繰り出す。敵陣の守りへの強攻はフェイントで、本命は自陣に食い込んでいる相手の銀。狙いに気づかせないよう盤面全体に視野を広げ、めまぐるしく戦局を変化させて必死にリードを縮めようとする。
――それでもいつしか、足先は鈍り、僕はゆっくりと追い詰められていった。
「ねえ、あなたがナッちゃんと一緒に居たのはどれくらいの長さ?」
五十四手目。ついに全ての攻め手を失った僕が手を止めると、沙恵さんはゆっくりと口を開いた。
「私はあなたの何十倍もナッちゃんの隣に居た。いつも隣に寄り添って、手加減抜きの真剣勝負で将棋を指した」
「ハンデを貰った上に手を抜いてもらったって、ろくに勝つことすら出来ない。そんな初心者のあなたに、ナッちゃんの何が分かるって言うの?」
打つたびにピシャリと音を立てる手つきは、静かに僕を責めていた。
「……確かにそうかもしれません」
「僕は研修会に所属していた頃のナツメさんを知らないし、棋力だってナツメさんの足元にも及ばない」
もう何も出来ない。自陣は半壊、どの駒を動かしても必ずこちらの形勢が悪くなってしまうような未来しか見えない。それでも――諦めてしまう事は自分自身が許してくれない。
「……きっとナッちゃんだって、あなたに過去の解決なんて、はなから期待していないわよ。ずっと周りに気を遣いながら生きてきた人生の最後に、一切気を遣わなくて良い人間が欲しかっただけ。そう、あなたはただ、遊ばれていただけ」
「それなのに、こんなにボロボロになるまで必死になっちゃって、馬鹿みたい」
「……………………」
無言で駒台の銀をのろのろと掴み、王の守りに配置する。粘りの一手と言ってしまえば聞こえは良いけれど、やっている事は年端もいかない幼子がただ『負けたくない』と駄々を込ねているのと、そう変わらない。
窓ガラスに自分の姿が映っているのが見えた。睡眠時間を削って生み出した時間の代償として目の下に出来た、どす黒いクマ。本を捲るという不慣れな作業の結果、指先に出来た無数の切り傷。
「負けました」の一言で投了は認められ、僕は日常に帰る事が出来る。ナツメさんと出会う前の退屈で何もない、けれど苦しさも辛さも無い、元の日常に。
自分の意思なのかすら判然としないまま、ゆっくりと口が開いた。ふるふると唇が震え、決定的な五音を紡ぎ出そうとした、まさにその時。
――駒の上に水滴がぽとり、と落ちた。
弾かれたように顔を上げると、沙恵さんの顔を覗き込む。
沙恵さんは泣いていた。少しの淀みもなく言葉を発し、唇をきっと引き結びながら、ただ目許だけを歪ませて、静かに二筋の涙を頬に伝わせていた。
顔を見られた事に気づき、慌てて涙を拭う沙恵さん。
でも僕は、気づいてしまった。自分が本当は何の為に、誰の為に戦っているのかを。
そうだ、僕は――。
「……言い直します。これはナツメさんの為にやっているんじゃありません。僕がナツメさんにそうあって欲しいと願うからやっているんですッ!」
思いもしなかった出来事に遭遇して考え方が変わる事だって、結果を知って後悔する事だってある。人間とはそう言う生き物だ。
そこで訂正する事の何が悪い。ここは、僕たちが生きているこの世界は、《待った》の許されない盤上ではないのだから。
――僕は今まで、勘違いをしていたんだ。
ナツメさんの為にしてあげられる事――でも実際、一度でもナツメさんから何かをしてくれと頼まれた事があったか。
そう、これはナツメさんの願いでは無く、僕自身の願いだ。それなのに僕は、利己的だと非難される事を恐れて『ナツメさんの為だから』と自身を偽っていたんだ。
それに、今更後戻りした所で、もとの生活に戻れる訳じゃない。一度知ってしまったという事実は、もう二度と覆らない。全て忘れた振りをして、その実、抱えた辛さや苦しみをずっと、自分の心の奥底にひたすら押し隠したまま生きていく事になるのだ。
自己中心的だと罵られたって、もう構うものか。
ナツメさんを過去のしがらみから解き放つ。その為ならば、僕は何度でも訂正しよう。何度だって、声を大にして言おう。
「僕は――ナツメさんに、このまま、後悔したまま死んで欲しくないッ!!!」
ぐっと顔を上げ、僕は取ったばかりの飛車を力いっぱい敵の最下段目指して打ち付ける。
「オオォッ!!」
手持ちの歩を全て敵陣に叩きつけて、強引に桂馬を打つスペースを確保し、守りの金銀を剥がしにかかる。沙恵さんの玉が飛車当たりを避けて剥き出しになった所で自陣に食い込んでいた馬と王を『田楽の香』で貫き、強引に勝負形に持ち込むッ!。
いつの間にか集まっていた野次馬がどよめく。沙恵さんが僅かにたじろいだのが分かった。
『二枚替えは歩ともせよ』の格言から考えれば、歩三枚と桂馬一枚を使い捨てて相手の馬を取るのでは到底、割に合わない。けれどナツメさんは「駒の損得より働きを重視するのよ」と僕に言った。
信じる。ナツメさんの教えを。その健気な生き様が生み出した結晶を。
沙恵さんの攻めの中核を消す事には成功したけれど、依然として僕の陣形は崩れたまま。けれど必死に足掻いた結果、こちらも沙恵さんの玉を囲いの外に追い出し、竜を作る事に成功した。
ピピッ。対局時計がデジタルな音を鳴らす。
「残り三十秒か……」
持ち時間を使い切った。
後は時間との勝負。一秒の遅れが勝負の行方を左右する、極限の戦い。
まだ沙恵さんは一分近く時間を残している。今は時間を温存しておいて、僕が緩手を指した瞬間、一気に勝負を決めにいくつもりなのだろう。
自陣の王は周りに味方の駒が一つもない裸玉。相手は研修会C級だ。一度でも手番を渡したら、その瞬間、僕は負ける。
もう、どちらの駒音かすらも判別がつかない。僕が駒から手を離しきる前に沙恵さんが駒を盤上に新たな駒を叩きつけ、まだその残響が消えないうちに、再び僕が受けの手を滑り込ませる。
「入玉狙い……?」
先ほどから沙恵さんはずっと黙ったままだ。
どちらも詰みがありそうな局面。
けれど違うのは、僕の王が最下段で完全に包囲され、身動きがとれなくなっているのに対して、沙恵さんの玉は五段の位まで上がってきていて、僅かではあるがまだ身動きがとれるという事。僕の駒のいない場所に逃げ込む余地があるという事。
左辺の大海に逃したら、沙恵さんの玉は絶対に詰まなくなる。
「ピッ、ピッ、ピッ……」
「あっ……」
秒読みに迫られて指した手は――馬のタダ捨て。持ち駒もほとんどない中、一番やってはいけないミスだったはずのその手を、沙恵さんは無慈悲に刈り取る。
沙恵さんの持ち駒に角が増え、その瞬間、自陣の王に五手詰めの負けが生まれた事に気づいて、僕はがくりと項垂れた。
後一つ、駒があれば詰ませられる。どんな駒でも良い、後一つだけでも駒があれば沙恵さんの玉は詰むのだ。
けれど、盤面は悲しいほどに残酷だった。沙恵さんがふぅー、と長い息を吐いた。きっと自分の玉に詰みが無いことを確認し終えたのだろう。
どんなに良い所まで粘っても、最後には、ちっぽけなミス一つで負ける。
目に隈を生み、手に大量の切り傷を作りながら努力をしたって、所詮は素人の付け焼き刃なのだ。幼い頃から全てを将棋に費やしてきた人には技術面でも、精神面でも到底及ばない。
パチッ。
自分の玉を一手、延命するだけの何の意味も無い手。王手をかけ続けられれば、裸の王様はいとも簡単に詰む。それでも、せめてもの意地で、ストレートの詰みだけはするまいと歩を一つ上がる。
それなのに。沙恵さんは上がった歩の下に銀を置いた。必ず逃げなくてはならない王手ではなく、次にどこに逃げようと必ず詰む必至。それは、沙恵さんに一手分だけの隙が生まれたことを示していた。
自分の見ている光景が現実のモノなのか信じられないまま、僕は手を動かした。
「あっ……」
王の周辺に意味の無い守りを追加する代わりに、僕は今まさに上がったばかりの歩の上に金を置いた。将棋の中では最も基本的な詰み、頭金。沙恵さんは、僕が歩を上がったことによって生まれた一手詰めを見逃していたのだ。
「……負けました」
「ありがとうございましたッ……」
ハァハァと荒い息を繰り返しながら、十秒将棋の極限状態で酷使した脳に酸素を送り込む。沙恵さんの慎重さ故に生み出された隙を運よく拾えたにすぎない。それでも、勝ちは勝ちだった。
――僕は、沙恵さんに、勝った。