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#08 ナツメさんの背中

この辺りから、徐々に話の展開が速くなっていきます。

 幸いな事に、ナツメさんはとりあえずの危機を脱した。

 けれど――意識は未だ戻らないままだった。


 あの後、手続きがあるから今日はもう帰ってくれと紀子さんに言われ、病院にいる理由が無くなった僕は自宅に帰った。


 今まで存在すら忘れていた夏休み課題を引っ張り出して無理やり鉛筆を握りしめてはみたものの、集中できるはずもなく、散らかったままのベットへと乱暴に身を投げ出す。


 視界に入ってきた天井の粗い木目。それをぼんやりと眺めながら、半透明の酸素マスクを取り付けられ、目を閉じたままのナツメさんを思い出して唇を噛み締める。


 ……結局僕は、ナツメさんに対して何一つしてあげることが出来ない。いや、そもそも『してあげる』などと考えてしまっている事自体が、既におこがましい事なのだろう。


 ――それでも。


「何か……何かあるはずなんだ……今の自分にも出来る事がっ」 


 翌日。病院の自動ドアをくぐり、ナツメさんの病室に向かう自分。他にする事も無かったし、出来る事も無かった。結局僕は、ナツメさんの為に出来る事を思いつかなかった。


 いつものように混み合う病院の待合室に、いつものように静かに咲き誇っている待合室のガーベラ。ナツメさんの死がすぐそこまで迫っていても、世界は何一つとして変わりはしない。ナツメさんがこの世からいなくなった後だって、きっと世界は何事もなかったかのように回っていくのだ。


 ただ、一つ変わった事は、病室の扉に一言『面会謝絶』と書かれたコピー用紙が貼られていた事だった。――これで今日も、する事がなくなった。


 小さい息を一つ、ほう、っと無理やりに吐き出し、今来た通路を戻ろうとした時。後ろから足音が聞こえた。


「キョウイチ君、ちょっと良いかな?」


 紀子さんだった。


「もしも寝たきりになった時はキョウイチ君に渡して欲しいって、ナツメさんから頼まれてたモノがあるんだけど……ちょっと待っててね」


 そう言うなり、ナースセンターへ駆けていく紀子さん。二、三分ほどして戻ってきた時には、海外旅行用のリュックサック程もある大きな茶褐色の包みを両手に抱えていた。


 以前にナツメさんの部屋であった時の快活な姿とは程遠い紀子さんの様子。視線を合わせず俯きがちで差し出されたその包みの大きさに少々面くらいながらも、大人しく受け取る。


「これは……?」

「将棋盤駒に、ナツメさんが研修会時代に利用した定跡本と、実戦の棋譜ノート。それと研究ノートよ」


 一息に言い切った後、紀子さんは僕の目をじっと見た。


「……この意味、分かるわよね?」


 ――分からないはずがない。


 金で買ったモノではなく、二十年以上もの歳月をかけてナツメさんが一つ一つ積み上げ、そしてその集大成として手に入れたモノ、その結晶。


 これは、言うなれば――ナツメさんの人生の全てだ。ナツメさんは自らの人生を託す相手に、僕を選んでくれたのだ。


 でも、どんなに抱え込もうと努力しても、茶色の包みは僕の手に収まらなかった。紀子さんは、もうほとんど手放しかけた包みの、その端の布をほんの少しだけ、けれどしっかりと握りしめたままだった。


「……正直な事を言うとね、私はまだちょっと迷っているのよ。ナツメさんは思い切りが良い人だから、人生を左右するような大事な事でもぱぱっと決めて、どんどん先に進んでいっちゃうけれど……私はそうじゃないから」


 ゆっくりと顔を上げた紀子さんは、細かな皺の入った頬に寂しそうな笑みを湛えていた。


「三年間、突然倒れたナツメさんがこの病院に運び込まれた時からずっとよ。本来なら頼るべき家族のいないナツメさんを、私は一番近い距離で見守ってきた。紗恵さんとの間にあった事を思い返して苦しむ姿も、病に蝕まれて苦しむ姿も見てきた」


「ねえ……キョウイチ君は本当に、ナツメさんの信頼を受け止めてくれる? 三十にも満たない年齢で死ななければならない一人の女性の、その想いを継いでくれる?」


 ナツメさんと過ごした半年間。長かったようで、あっという間に過ぎていった日々が、昨日の事のように次々と、鮮やかに脳裏に蘇る。


 初めてナツメさんと出会ったのは屋上だった。するべき事も見つけられず、ただ漫然と日々を過ごすだけだった僕に、ナツメさんは将棋に打ち込む楽しさを教えてくれた。将棋会館にも連れて行ってもらった。自然と周りを巻き込んでいく雰囲気を持っていたナツメさんの事を、僕は好いてすらいたのかもしれない。


「……はい」


 数瞬の沈黙の後、ようやく絞り出した声は、微かに語尾が震えていた。


「……そ。なら、信じる事にするわ」


 紀子さんは小さく、けれど確かに僕に向かって笑みを浮かべた。勢い良く、まるで何かを振り払うように元来た道を見据えると、コツコツと規則正しい足音をリノリウムの床に響かせながら遠ざかっていく。


 とても悔しいはずなのに。今までずっと寄り添ってきたにも拘らず、後を託す相手に選ばれなかった紀子さん。本当は泣きたいくらい辛いはずだ。けれど確かに、紀子さんは笑いかけてくれた。恐らくは、自分の事で僕が気を病まないようにと気を遣ってくれた。


 ナツメさんも、紀子さんも、僕を信じてくれたんだ。だから僕も諦める訳にはいかない。


 ――絶対に見つけ出してみせる。今の僕が、ナツメさんの為に出来ること。


   † † †


 その日から、僕は病院に行かなくなった。


 朝起きるなり、朝食もそこそこにナツメさんから貰った定跡本をひたすら読み込んだ。新たな手を検討する為のモノだろうか、端々に書き込まれた走り書きを見る度に、ナツメさんがどれだけ真剣に将棋と向き合っていたかを思い知った。


 夜遅くまで、ナツメさんが将棋会館に居た頃のモノだという棋譜を片っ端から並べた。棋譜から溢れ出す一手一手が、明らかな劣勢にも対局を投げ出さずに粘り強く戦い続けるナツメさんの姿が、脳裏にくっきりと浮かんだ。


 知るべきだと思った。ナツメさんが、どれだけ苦しい思いを抱えて戦って来たのかを。そして、苦しい思いを抱えてもなお、戦い続けようと思えた理由を。


 ページを繰る毎に視界が滲んで、それが涙だと気づいた時には、いっそう涙が頬を伝った。来る日も来る日もそうやって過ごした。


 そうしているうちに、一つだけ、ある考えが浮かんだ。漠然としていてひどく曖昧で、成功する確証は無いし、そもそも何をもって上手くいったと判断するのかも未確定。けれど、僕にはそれ以外に思いつく事が出来なかった考え。


 そして、僕が最後の棋譜ノートのページを手繰り終え――ナツメさんが意識を取り戻したと紀子さんから連絡があった日――僕は再び将棋会館へと向かった。

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