#07 過去の因縁
自分より十歳以上も年の離れた少年が、思いつめた表情で自分を見つめているのを、私は呆けた表情で眺めていた。
最初はほんの遊び心で話し掛けただけだったはずなのに、一体、いつから自分はこの少年に思い入れるようになったのだろうか。
いつも斜に構えて隠しているけれど、時折垣間見せる純朴さや、ひたむきに将棋に打ち込む真っ直ぐな熱意は間違いなく少年のそれ。その姿にいつしか、私は昔の自分を重ねるようになっていたのだ。
決意を秘めた黒い瞳。濁りのないその澄んだ輝きに吸い寄せられるように、自然と私は口を開いていた。
「……初めて会った時、私は恭一に『プロを目指す養成機関に所属していた』って言ったわよね。実を言うと、あれは嘘なのよ。私が所属していたのは奨励会じゃなくてその下部組織にあたる研修会、プロ棋士じゃなくて女流棋士を目指す機関だったの」
「あの時は本当に才能の差っていうものを思い知らされた気がしたわ。……だって女流棋士になる為の条件は研修会でC1級以上になることだけなのよ? 奨励会に入るためには最低でもB1級以上の棋力が必要だっていうのに、私よりも年下の少年が私より遥かに短い期間で奨励会に上っていくんだもの」
重苦しい空気を笑い飛ばしてしまおうと無理やり笑い声を上げたつもりだったけれど、唇は自分のモノじゃないみたいにカサカサに渇き切っていて、ひゅーひゅーという間抜けな音が端から洩れただけだった。
「でも、ナツメさんはそれで女流棋士になれたんですよね? ……ですよね?」
躊躇いがちに向けられた瞳が、縋るような輝きを帯びる。でもその先に続く言葉が告げるのは、決して良い展開ではない。きっと、彼自身も理解しているのだろう。幸か不幸か、その先が想像出来てしまうくらいには、彼は聡明な少年なのだから。
「……ええ、確かになれたわ。24歳の時、私はようやく女流3級に上がって女流棋士になった。私より何年も遅く研修会に入った男棋士の卵達が次々に私を追い抜いていくのを歯を食いしばって睨み上げながら、血の滲むような努力を積み重ねて、ようやくね」
分かりやすく安堵の表情を浮かべる目の前の少年。
「でもね……女流3級なんて所詮は仮免許のようなもの、あんなのはなった内に入らないのよ。二年以内に正式な女流棋士と認められる女流2級以上に上がれなければ、ようやく抜け出したはずの研修会に再び戻らないといけないんだから」
しかし、単純な実力不足か、それともたった二年という短すぎる期間に焦った所為か、私は女流2級に上がるチャンスを幾度も逃し続けた。そして26歳の時、ついに女流棋士になれる最期の機会がやって来た。
――女流王位戦。
女流3級から抜け出すには、通常ならば強豪がひしめく予選を三連続で勝ち抜き、現王位タイトル保持者に挑む棋士を決める挑戦者決定リーグに出場しなければならない。けれど私にはもう一つの道が残されていた。
それは、2年間で参加公式棋戦数の4分の3以上の勝星を得ること。個々の大会の成績ではなく、通算成績で昇級を決定するという規則が将棋連盟の定める昇級規定の中にはあった。
女流棋士3級に昇級してからの2年間、私が公式戦で積み重ねた勝星は9つ。あと二つの勝ち星で、私はこの規定を満たす事ができる。
三連勝してリーグに出場する事は無理にしても、王位戦の予選で二連勝すれば私は『本物』の女流棋士になれる。死にもの狂いで足掻き続け、苦しみ続けてきた26年間の全てが報われるのだ。
けれど負けたら、私は研修会に逆戻り。しかも今度は研修会規定の『25歳以上お断り』という規定に引っ掛かる為、実際には将棋人生から身を引くしかない。
後がないとは、まさにこの状況の事だった。
背水の陣の心持ちで臨んだ初戦の相手は、まさかの女流棋士一年目にして名人戦のベスト4に食い込んだ実績を持つ新進気鋭の大学生棋士。絶望的な実力差を前にして、私の夢はそこで儚く散るはずだった。
なのに、そんな時に限って、私は勝った。勝ってしまった。『首切り役』をしなければならないという重圧からか、対戦相手の彼女が終盤にミスを連発してくれたという事も当然あっただろう。けれど何より、これで全てが決まるという覚悟が私の背中を力強く支えてくれていた。私は今までに無いくらい調子が良かった。
そうして迎えた運命の二局目。対戦相手は――紗恵だった。
周りが男ばかりだった研修会時代に出会った数少ない女性で、年も近い。研修会が女流棋士の育成を兼ねるようになる以前――女流棋士養成機関《女流育成会》があった頃からのライバルであると同時に、ナッちゃん、サっちゃんとあだ名を付け合って呼び合う心許せる親友だった彼女もまた、女流3級二年目。残り少ないチャンスを勝ち上がって来ていた。
「かつてない好調子に、対戦相手は最も仲が良かったライバル。今までの将棋人生の中で、間違いなく最も本気で挑んだ対局だった」
「……でも、結果は私の負け」
「何もかもをなげうって求め続けてきた、まさに生涯の夢が崩れ、唇を噛み締めて涙を堪える私の隣で、彼女は笑顔すら浮かべながら写真を撮って、新聞のインタビューに応じたの。それは勝者に与えられる権利として当たり前の事なんだけれど、その時の私にはどうしてもそれが許せなかった」
「……私はね。紗恵に向かって『何であなたみたいな才能の無い人間なんかが』って、そう言ったのよ」
あの時、何て莫迦な事を私は言ってしまったのだろうか。それは――棋士以前に人間として、一番吐いてはいけない台詞だったはずなのに。
パチパチとひっきりなしに焚かれるフラッシュの中で、私に背を向けていた彼女がゆっくり振り返った時に見せた侮蔑の視線は、今でも私の脳裏に鮮明にこびりついている。
「つかつかと近づいて来た紗恵は、私の正面に立つなり思いっきり私の事を叩いたわ。頬を張られたのなんて後にも先にもあれっきりね。私に才能で優ってるって言うなら、負けたのはあんたの努力不足の所為だって、呆然と座り込んだままの私を罵りながら彼女は対局室から出て行った」
「――だから私は、元研修会員ではあっても元女流棋士じゃない」
喩え形式上はそうだったとしても、人の努力を認めず、あまつさえそれを貶すような人間に棋士を名乗るなんてこと、許されるはずがない。
「これが私と紗恵の間に起こった過去の出来事。それと……私という最っ低な人間の正体よ。どう、幻滅したでしょ?」
私の独白を聞き終えた少年は俯いたままで、その表情を窺い知る術は無い。でもきっと、私の事を軽蔑しているに違いなかった。
ああ――私は、私という人間がずっと抱えてきたものの全てを曝け出して、また一人、今度は自分を慕ってくれていた、たった一人の弟子を失うのだ。
自嘲の笑みが零れたけれど、同時に、目の前の少年が尊敬に満ちた眼差しで私を仰ぐ度に感じていた胸の疼きがようやく取れたような気がして、どこかほっとしている自分がいた。
そう、私は尊敬を受けるのに値しない人間。
だからこれで良かったんだと、そう思った……
† † †
「これが私と紗恵の間に起こった過去の出来事。それと……私という最っ低な人間の正体よ。どう、幻滅したでしょ?」
どこか自らを蔑むような響きを含んだナツメさんの言葉を聞いて、僕は顔を上げることが出来なかった。
恐らくナツメさんはそうやって抱え込んで、今日まで、ずっと自分を卑下しながら生きてきたんだ。それは誰でもない、他ならぬナツメさん自身が選んだ生き方。そんなことは言われるまでもなく分かっている。分かってはいるけれど……
「やっと出来た友達だったんですよね……。ずっと一緒に頑張ってきたんですよね……。そんな友達を、大好きな将棋の為に失うなんて……そんなの、虚しすぎるじゃないですか……」
「仕方ないじゃない……悪いのは私なんだから」
自らの内を曝けだしたというのに、あくまでもナツメさんの口調は静かだった。
「もしかしたら……私を蝕んでいる病気だって、慈悲なのかもしれないわね……。将棋の道を絶たれた私の為に神様が用意してくれた、人生の逃げ道」
思うに任せない自分の身体を見降ろしながら、ぽそりと呟いて、自嘲気味な笑みを浮かべるナツメさん。そこからはただ、諦観の念だけが滲み出していた。
「――どうしてそんなに冷静でいられるんですかっ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「ナツメさん、もうすぐ死ぬんですよ? 後悔しようにも、もう思い出す事すら出来なくなるんですよ?」
酷いことを言っているという自覚はあるのに、自分のモノではないかのように口は止まらない。
「紗恵さんの気持ちがどうだとか、悪いのは誰だとかじゃありません。ナツメさんは、ナツメさん自身は――それで本当に良いんですか?」
ナツメさんは紗恵さんとの出来事を引きずったまま不治の病を患い、そして三年経った今もまだ、誰かに頼る事すらせずに、胸の痛みを一人で抱え込んだまま人生を終えようとしている。それが僕にはどうしても納得がいかなかった。
「……知らないくせに」
「え?」
「男だらけの対局室で好奇の視線に晒されながら対局する気持ちだって、対局場所も相手も同じ、時さえ変わってしまえばいつもの練習対局でしかないような一局に自分の人生の全てを賭けて臨む気持ちだって、何一つ知らないくせに、知ったようなこと言わないでよ!」
それは、今まで苛立つ素振りすら見せなかったナツメさんが、初めて見せた怒りだった。涙をぽろぽろと零しながら、ナツメさんは怒っていた。
「良いわけなんて、あるはず無いじゃない……」
「……すみません」
「……………………」
気不味い沈黙が狭い病室内に降りる。
だからこそだろう。俯いてベッドの柵をじっと見つめていた僕の耳に、パタン、と何かが倒れる音は不思議なほど大きく響いた。
「……ナツメさん? ナツメさん!」
ナツメさんはベッドの上に倒れ込んでいた。苦しそうに上下する胸と、およそ生気というモノが抜け落ちた青白い頬。どう見てもただ事ではない。
――なのに僕は、動けなかった。
ナツメさんが助かるかどうかは、今、この瞬間の自分の行動に懸かっているのだ。そう意識した途端、電流が僕の体を貫いた。まるで冷たい何かが自分の体を急速に侵食していくかのような不快感に全身が痺れ、ナースコールのボタンまでのたった五十センチが、何十メートルにも、何百メートルにも感じられた。
「動け、動いてくれっ! ……僕が今動かないと、ナツメさんが死んじゃうんだ。だから……動けよっ!」
手を伸ばせば届くはずの距離なのに、なのに何で、僕は一歩も動けないんだ。いくら自分をなじっても、僕の身体が動く事はない。
その内にナツメさんの心拍数の低下に気づいた紀子さんが駆け込んで来て、僕は病室の外に追い出された。
あれだけ偉そうな事を行っておきながら、いざという時には何一つ出来ない自分。それは当たり前の事だ。僕はナツメさんの身体をケアする医者でも、精神をケアするヘルパーでも無いのだから。
それでも――ナースコールのボタンを押すくらいの事は出来たはずなのに。
病室の外の白い壁に背を預けながら、そうやって自分を呪った……