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#06 優しさがくれた決意

本日は小説「トゥウェンティ・ナイン」にお越しいただき、まことにありがとうございますm(_ _)m

日頃のご愛玩、恐悦至極に存じます。

これからもどうぞご贔屓に(店舗風の挨拶でした)。

 翌日。いつものように病室を訪れると、ナツメさんの姿はなかった。一抹の不安を覚えながらナースセンターを訪れると、すっかり顔馴染となったヘルパーの紀子さんが「大丈夫。ナツメさんは今、検査に行っているだけだから」と教えてくれる。


 感謝の意を告げて病室に戻ったは良いものの、そこで暇を持て余した。元々ここはナツメさんの病室であって、僕の暇つぶしの為にある部屋ではないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが……


 高級そうな将棋盤がドン、と置かれた机に、十センチほど開けられた窓。部屋の主がいない所為か、いつもよりも心なしか殺風景の度合いが増したように見える病室。空のベッドに腰掛けて、意味もなく足をプラプラと揺らしてみる。


 初めてナツメさんに出会った日、彼女は余命残り三ヶ月だと言った。あれからかれこれ一ヶ月くらいが経過している。余命宣告がそんなに厳密なものじゃないと分かってはいても、ふとした瞬間に期限が迫っている事を認識させられるのは、あまり気分の良いものではない。


「もしも、検査の結果で深刻な診断が見つかって、このままナツメさんが入院してしまったら……」


 何をするでも無くいたずらに時を過ごす事は決して嫌いではなかったが、今だけは、悪い想像へと向かってしまう思考を埋め尽くせる何かが欲しかった。


 不意に将棋盤が目に留まる。らしくもなく盤の中央に雑然と積み上げられた駒と、そのすぐ脇に開いた状態で置きっ放しになっている桐製の駒箱。これだけ散らかっているという事は、ナツメさんはあの後、病室に帰ってから駒を広げたのだろうか。或いは、将棋会館を訊ねる前の、一昨日の時点からずっとこの状態なのか。


 そんなどうでも良い事を考えながら、僕はいつになく丁寧に駒を並べた。気紛れで並べてみたは良いものの、当然、指す相手はいない。盤の前に腰掛けてナツメさんから貰った棋書をペラペラと捲っている内に、まるで盤面に吸い込まれるかの如く、気づけば僕は昨日の沙恵さんとの対局を振り返っていた。


 時折、思い出したかのように鳴く蝉の声と、ブラインドの隙間から零れる灼けた日射し。一人きりの病室にパチっ、パチッと高い駒音が響く。


 そうして二十分ほどが経過した頃だろうか。ナツメさんの病状へ向いてしまう意識から一刻も早く逃れたかったからか、始めはかなりのハイペースで進んでいた棋譜並べの手。いつしか遅く、そして乱雑になっていた。


「せめてここで飛車を逃げずに無理やりにでも金と交換していたら……」


 ――きっと、一矢報いる事くらいは出来ていたはずなのに。


『ナッちゃんの弟子だっていうから、もう少しくらいは強いと思ってたんだけど……期待外れだったみたいね』


 一手振り返る都度、昨日の去り際に沙恵さんが吐き捨てていった言葉が脳裏に去来する。


「くそっ……ッ」


 その昔、明治の落語家が詠んだ『へぼ将棋 王より飛車を 可愛がり』という川柳。目先の価値に囚われて、勝敗に直接関わる王将よりも戦闘力の高い飛車を生かすことに執着してしまう姿は、まさしく昨日の自分だった。


 自分の不甲斐なさに唇をきつく噛み締めながら、ダンッ、と思いっきり飛車を盤に叩きつけた、その瞬間。


 ――プチ、という乾いた音がした。


 それはある種、異様な響き。普通、盤に駒を打ち下ろす時には「パチッ」や「ビシィーッ」といったような、もっと小気味よい音が出るはずなのだ。ナツメさん曰く、駒が縦に並んでいる場合には下の駒の頭を使った打ち方もあるらしいが……それにしたって、こんな間の抜けた響きになる事はないだろうし、そもそもまだそんな打ち方は僕には出来ない。


 となると、まさか……。全身を包むぞわりとした悪寒に総毛が逆立った。未だ駒の上に重ねたままになっている中指を、恐る恐る持ち上げてみる。小刻みに震える指の下で――たった今打ち下ろしたばかりの飛車が真っ二つに割れていた。


 †††


「ヤッてしまった…………ッ!」


 どういう理屈かは分からないが、プロを目指す棋士は強くなる為に良い将棋道具を用いるという話を聞いたことがある。ナツメさんの私物だというこの駒も、きっと法外に高価な物なのだろう。それを僕は、割ってしまった。


 もはや棋譜並べどころではない。一体どうやって言い訳すれば良いのだろう。ナツメさんがいない間に無断で使用していたのだから、やはり弁償はしなければならないだろうか。いや、そもそも弁償すると言ったって、高校生がバイトで稼げる程度の額で買えるようなモノなのか……


 狭い病室の中を頭を抱えて右に左に落ち着きなく動き回っている間にも、不安は膨らみ続ける一方。せめてナツメさんが検査から戻ってきたときに土下座で迎えるくらいの事はしようと、病室の入り口に向かって正座をした。


 ――五分後。


「全ては私めの不徳の致すところ、大変申し訳ありませんでしたッ!」


 僕が選んだ選択肢は直球勝負だった。言葉を弄して自らの責任から逃げるなど言語道断。男ならば回りくどい言い訳などしてはならないのだ。


「ええっと……ナニゴト?」


 怪訝そうな表情のナツメさん。それはそうだろう。検査から戻って来て扉を開けてみれば、いきなり目の前に土下座している少年が現れたのだから、そういう反応にもなる。


「ああ先走り過ぎて事情説明を抜かすとはなんとも情けない、実は私め、病室を訪れた際、まず始めにナツメさんがいない事に気がついたのでございます。それでその後、こうこうこういう事がございまして……」


 ごにょごにょごにょ。責任を問われれば決して逃げない。但し問われる前は、ナツメさんに口を開く隙を与えないよう、ひたすらどうでも良い事を捲くし立てるけれども。


「とりあえず、その大仰な口振りをどうにかしなさいって、ね?」


 怪訝さ極まり、ナツメさんは完全に不審者を見る目になっている。いつもよりも数段優しく、そして他人行儀な口調。こちらの狙い通り、外見上は引いてくれているようだったが、瞳の奥に浮かんだ濃い猜疑の色は『何があったのか、ちゃんと説明してもらうからね?』という強固な意志を何よりも雄弁に物語っていた。


 ……どうやら、誤魔化すのは不可能らしい。


 もうどうとでもなれ。肺の中に残った空気を無理やりに吐き出し、どうでも良い部分を端折りながら改めて説明する。先ほどとは打って変わったやけっぱちの境地にあって、口調も自然と神妙なトーンに変化する。


「………………………」

「……はい……それで……その時にナツメさんの駒を割ってしまったんです」


 僕が大体の事の顛末を話し終わると、重苦しい静寂が病室を満たした。ナツメさんの顔色を窺おうにも、罪悪感でまともに顔すら上げられない。そうして一瞬にも、永遠にも思える時間が過ぎ……


「あー、何か大きな勘違いをしているようだけど……」


 恐る恐る顔を上げると、何事かを納得した様子のナツメさんが、呆れた表情でこちらと見ていた。


「安物よ、それ。二か月くらい前に、ネットで安く売り出されてる駒があるってウワサを聞いて、紀子さんに買って来てもらったの。だからそんな深刻そうな顔をしなくても良いわ」

「そうだったんですか……」


 高級駒を割られて怒り心頭になったナツメさんが「訴えてやる!」などと叫び出す展開にならなかった事に、とりあえずホッと息を吐きだす僕。その様子をしり目に捉えながら、ナツメさんはなおも言葉を続ける。


「それに、駒が割れるなんて事が絶対に起こらないって訳でもないのよ。ほら、この駒って木地に文字を刻んだ彫り駒でしょう? 印刀だと文字の太さを刻みの深さで彫り分けるしかないから、太い部分は深く彫り込んであるのよ。特に飛車なんて、文字の真ん中の縦棒が繋がってるじゃない。何かの拍子で二つに割れることがあったっておかしくはないわ」


 ナツメさんがそう言うのだから、そういうモノなのだろうが……


「……ちょっと待ってください。印刀で彫っているって事は、コレ職人さんの手彫りですよね……」


 玉の後ろに銘が無いから名職人の逸品モノという訳ではないのだろうが、機械生産の大量生産品でないのなら万は下らないのでは……。


「あら、バれちゃった? あなたが割った駒のお値段は三万円よ」


 てへ、とわざとらしくシナを作るナツメさん。いつもなら思わず頬も緩もうという所だが、今はおちおち笑ってもいられない。


 なにしろ時給千円のバイト三十時間分だ。貴重な夏休みを潰して日がな一日十時間もバイトし続けるという途方もない重苦を三日間こなした末に、ようやく手に入れられる大金なのだ。某有名カップ焼きそばが実に二百個以上も買える計算である。


「でも安物は安物よ。将棋会館の一階の購買部、あなたも見たでしょう? 雅号入りの盛り上げ駒なんて百万越えてたわよ」


 首を傾げながら、クイッとわざとらしい仕草で肩をすぼめるナツメさん。


 確かにあれは凄かった。美しい飴色に照り輝く駒が螺鈿かと見紛う程ピカピカに磨き上げられ、寸分の狂いもなく箱の中に整列された上で厳重に厚く包装されているのだ。その時は遠目に眺めるだけだったが、もし近寄って手をぶつけ、落としでもしていたら……


 ありもしない光景を想像してびくりと震える僕を見て、ナツメさんはさも楽しそうに口の端を吊り上げる。


「もし私の駒が数十万もする高級駒だったら、一体どうしてくれるつもりだったのかしらね?」

「……必死でバイトでもしようかと」


「あら、お金でどうにか出来るとは限らないのよ? 『この駒は将棋を始めた頃からずぅーっと使っている大切なモノで、強い思い入れがあるから他の駒で替えは利かない、一体全体どうしてくれるんだっ!』……なんて言ったら`どうする?」


「……すみませんでした」

「ちょっと、真面目にショげられるとこっちが困るじゃないのよっ」


 それじゃあ一体どういう風に反応すれば良かったのだろうか……。


「とはいえ、そう簡単に割れる物でもないのよねぇ。……思いっきり盤に叩きつけたりでもしない限りは」ギクッ。

「……恭一、何か隠してるでしょ?」


 言いながら、じっと僕の目を覗き込むナツメさん。先ほどまでの楽し気な笑みはどこへやら、その目つきは真剣そのものだった。普段は自由気ままに動いて、僕を振り回してばかりのナツメさん。けれど今は、決して自らのついでなどでは無く、心の底から僕の事を案じてくれているのが分かる。


 一ヶ月近くほぼ毎日一緒に過ごしていたからこそ気づけた、不器用なナツメさんの優しい一面。それに改めて気づいた瞬間――僕はナツメさんにあの事を伝える決心をしていた。


「……昨日、将棋会館で沙恵さんと対局しました」


 その名前を聞いた途端、びくり、と小さく震えるナツメさん。


「……そう」


 不自然な間に、感情の押し殺された相槌。微かに胸が痛んだけれど、いまさら後には引けないと言葉を続ける。


「勝てなかったのは仕方がないと思います。きっと沙恵さんも昔のナツメさんと同じ《プロの卵》ってヤツなんでしょうし……」


 初心者に毛が生えた程度の棋力の人間を相手にして、けれど沙恵さんの指し方には一切の容赦が無かった。罠を幾重にも張り巡らし、僅かでもそれに引っ掛かったら力押しで強引に叩き潰す。それどころかそこには、初心者相手に将棋を指すのとは明らかに違う、『思い入れ』とでも形容すべき激情がこもっていた。


「でも……沙恵さんは――凄く辛そうに指していたんです」


 その理由は僕には分からない。分かるはずもない。でも間違いなく、僕がナツメさんの教え子だということに関係があるはずだ。そして恐らくは、昨日ナツメさんの様子がおかしかった原因もそこにある。


 懐かしい景色に心を躍らせる様子が無かったのも、かつて通い詰めていた将棋会館に来たのにも拘らず、どこか急いていたように見えたのも、一人だけ足早に帰ったのも全て、沙恵さんと向き合う事を避けて、目を背ける為だったのだとしたら。


 それはナツメさんの過去の出来事だ。僕には全く関係のない話だ。お節介だなんて百も承知、それでも――自分を偽って心の奥底に思いをしまったまま、ナツメさんに死んで欲しくはないから。


 さりげなく視線を外そうとするナツメさんの黒瞳を、真正面からじっと食い入るように見つめる。


「教えてください。……ナツメさんが奨励会員だった頃、一体何があったんですか?」

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