#05 初めての道場
将棋ストーリーといったらやっぱりコレが無くっちゃ……
という事で、今回は対戦回です!
結局、あの女の人について何も語ってくれないままナツメさんは将棋会館を去り、それから僕はひたすら将棋を指し続けた。
初戦の相手は三十代くらいの若い男。少し離れた所で落ち着きなさげに対局をしている小学生くらいの男の子をチラチラ見ては、その度に微笑ましい笑みを浮かべている様子は、彼がその子の父親なのであろう事を容易に連想させた。
恐らくは子供が道場に来たついでに指しているような、ライトな将棋ファン。道場によっては、訪れたばかりでまだ棋力が認定されていない時に初心者同士をぶつけあわせてその棋力を測るという話も聞く。だから初戦の相手にはこの程度が妥当なのだろう、そんな事を考えながら指しているうちに、あっけなく負かされてしまった。
相手が強かったというのもあるのだろうが、ナツメさん以外の人と将棋を指すのは今日が初めてという事もあってプレッシャーに圧され、無意識のうちについつい縮こまってしまっていたらしい。
「最下級の15級からスタートか……」と落胆しながら受付に行ったところ、ところがなんと棋力は未定扱い。
首を傾げて突っ立っていると、バツの悪そうな顔をした手合い係のお兄さんが後頭部を掻きながら「あの子はナツメさんの教え子だから、しょっぱなから段位持ちをぶつけてやってくれ、って受付に頼まれたんだよ」と教えてくれた。
余計なお世話だと思いつつも『ナツメさんの教え子』という言葉の響きにほんの少しだけ嬉しさを感じてしまっている自分に、どこか複雑なモノを抱きつつ、指定された次の相手は、いかにも道場歴の長そうな白髪交じりのお爺さん。
年の差を感じさせる老獪な差し回しに始めこそ翻弄されたものの、初戦でいきなり負けた事で良くも悪くも吹っきれたらしく、緩手の隙を狙って自分のペースに持ち込む事に成功。そこからは安定した勝ちを積み重ねてどうにか4級の認定をもらう事が出来た。
そんなこんながあって、合間合間に休憩を挟みながらも、これまでの成績は六勝四敗。最初に予想していたよりも遥かに良い結果だった。ナツメさんの言っていた「自分を信じる」という言葉の意味が、これで少しは理解できたような気がする。
というか、何故に子供が将棋会館の将棋教室に通うついでに指しているような若い父親が、定年後で時間をたっぷり持っているはずの白髪のお爺さんよりも強かったのだろうか……?
考えても詮無い事に思考を飛ばしながら柱に掛けられた時計を見上げると、今の時刻は午後八時半を少し回った頃。そろそろ将棋会館の道場が閉まる時間だ。対局するにしても、せいぜい後一回が限度だろう、ちょうどそんな風に考えていた時だった。
「恭一くんだっけ? 随分と疲れているようね。次の相手は私になりそうだけど……その様子じゃ、相手にすらならなそうね」
手合いカードを左手でヒラヒラさせつつ後ろから僕に声を掛けてきたのは、先ほど自動販売機の前でナツメさんに嫌みをぶつけていた女の人。確か……紗恵さんだったか。首から下げられた名刺サイズのカードは、彼女が研修会員である事を示していた。
道場は終了間際。もうほとんど人もいない中、残っているのは熱心に感想戦を行っている老人が二組のみで、手合い待ちしているのは僕と沙恵さんの二人だけ。
先ほど対局していた小学生くらいの男の子は迎えに来た母親に連れられて帰ってしまった。いかに実力差があるとはいえ、確かに、次に名前を呼ばれるのも時間の問題だろう。
『奨励会員や研修会員と当たったら、たとえ最下級のF級相手でも全く歯が立たないと思った方が良いわよ』
ナツメさんの台詞が鮮やかに脳裏に蘇る。
「別に私と対局しなくたって良いのよ? 受付で一言『帰ります』って言えば、わざわざ黒星一つ増やさなくたって済むんだから」
勝つことを確信している口振りの紗恵さん。でも、確かにその通りなのだろう。十枚落ちや八枚落ちならば僕の棋力でも勝てるかもしれないが、道場の規定にある手合い割は10級差を示す六枚落ちまで。
10級以上棋力に開きがある相手に勝てる筈がない、そんな事は分かりきっていた。分かりきってはいた、けれど……
「いえ、大丈夫です。……よろしくお願いします」
「……へぇ……骨だけはあるみたいね」
意外そうな表情で、片眉をピクリと上げる紗恵さん。てっきり断られると思っていたようだった。
――逡巡はあった。けれど結局、僕はこの人と戦う事を選んだ。挑発されて苛立ったという事もあるが、たとえ、戦う前から相手にならない事が分かりきっていたとしても、ナツメさんを侮辱したこの人から尻尾を巻いて逃げるような真似はしたくなかった。
† † †
午後八時。ほとんどの人は帰宅し、道場の中に残っているお客さんも四、五人程度。夜の将棋会館に、パチッ、パチッと駒を盤に打ち付ける音が響く。
駒落ち対局では駒の少ない上手が先手――つまり、この場合は紗恵さんが初手を指す。舞うような手つきで軽やかに金を上がる紗恵さんに、角道を開ける自然な手で応じる。
六枚落ちは飛車角の大駒二枚と、左右の香車と桂馬を落とした手合い割。端の1筋と9筋の守りに利いている桂香がいない為、棋力で劣る下手は端の突破を狙い、反対に上手は端を破られないように戦うというのが定跡となる。
だから常道で考えるならば、次の紗恵さんの手は九筋を守る8二銀のはず。けれどここで、紗恵さんは僕が予想もしなかった手を放って来た。
三手目――7六歩。
「角が無いのに角道を開けた……?」
平手の将棋では自然な一手だけれど、六枚落ちの上手に角は無い。これでは一手目に指した7八金を無駄にするどころか、次に僕が9九角成と指せば、こちらはタダで馬を作る事が出来るのだ。――つまり、完全な挑発。
奥歯がギリッと音を立てた。良いだろう。向こうがその気ならこっちにだって意地ってモノがある。相手の術中に嵌まることなど百も承知で力強く踏み込み、一息で角を成り込んだ。
詰めていた息を吐きだしながら、そっと沙恵さんの顔を窺い見る。初めから駒の数で負けている上、自陣に馬まで作られてしまった紗恵さん。これでさらに形勢差は開いたはずだ。
なのに紗恵さんは、無表情のままだった。怪訝そうに眼をしばたたかせる僕に、まるで見せつけるかのように駒を持ち上げ、器用にクルクルと回すと、数舜の後、音を立てずにスッと盤面に置く。
「あっ……」
紗恵さんが指した手は3三銀。こちらは確かに馬を作ることが出来たが、紗恵さんの金銀で隅に閉じ込められてしまい、身動きが取れなくなっている。
――角を使わせない。恐らくは、これが紗恵さんの狙いだったのだ。
堪え切れず噛み締めた唇から、微かに生臭い血の味がした。
……分かってはいる。あからさま過ぎる挑発に乗って無防備に踏み込んだのは自分自身なのだ。これが罠である可能性だって、十分に考えられた筈なのに。それでも、自らの不甲斐なさが悔しくて堪らなかった。
その後、僕はどうにかして角を救い出そうと躍起になった。けれど桂馬と銀を繰り出して拘泥している内に、沙恵さんは角を抑えているのとは反対側の金銀を動かしてあっという間に僕の飛車を奥まで押し込み、身動きを取れなくしてしまった。
飛車角の大駒を二枚とも押さえ込まれた上に桂馬と銀まで取られてしまっては、自分より棋力で大きく優る相手に勝ち目は無い。それでも負けを認めたくなくて、恥も体裁も構わずクソ粘りを続けている内に、長手数の詰みを読み切られてあっけなく終局。あれだけあった圧倒的な差が嘘のようだった。
「……負けました」
「ナッちゃんの教え子だっていうから、もう少しくらいは強いと思ってたんだけど……期待外れだったみたいね」
俯く僕にそう一言吐き捨て、感想戦すらせずに紗恵さんは道場を出て行った。
完敗だった。あれだけ意気込んだにも関わらず、何の見所もない対局。それどころか、僕はたったの一度すら、自分に有利な局面を生み出せなかったのだ。
顔を上げられなくて、ひたすらぼろぼろになった盤上を睨みつける。そうでもしないと涙が零れてしまいそうだった。高校生にもなって、たかが将棋の対局に負けたくらいで涙を零すなんて事は、僕のちっぽけなプライドが許さなかった。
……けれど、たかが将棋の対局と言うのならば、どうしてこんなにも悔しいのだろう?
ナツメさんを侮辱した相手に勝てなかったから? 当たり前だ。ナツメさんの昔の友達という事は、かつてのナツメさんがそうであったように、紗恵さんもまた《プロ棋士の卵》であろう事を意味している。本格的に将棋を始めてせいぜい一ヶ月と少しくらいしか経っていない僕がそう簡単に勝てるはずが、いや勝てて良いはずがないのだ。
そんな事は最初から分かり切っていたはずなのに。それでも僕の脳裏には、去り際に吐き捨てられた紗恵さんの言葉がいつまでもこびりついたままだった……。