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#04 将棋会館という場所

 それから程なくして、ようやく僕たちは目的地に辿り着いた。


 ナツメさんが指差した建物は、想像していたよりも遥かに大きかった。歴史を感じさせるレンガ調の外壁に、銀色のスパンドレルがアクセントとなって醸し出される現代的な雰囲気。手前の御影石に堂々と彫り込まれた《将棋会館》の四文字が目を引く。


「ついに来たんですね……」

「ええ、そうね」


 ここで、この場所で、将棋の最高峰と形容されるプロ棋士たちの熱い戦いが繰り広げられるのだ。数多の名局が生み出されてきた将棋ファンにとっての《聖地》に、僕はいつになく興奮していたけれど、ナツメさんはさしたる感慨を覚えた風もない。


 今までずっと通っていた場所なのだろうから当然と言えば当然なのだろうが……それにしてもさっきから、ナツメさんの様子がおかしいような気がする。どことなく表情が強張っているような……


 不審そうに首を捻る僕に気づいた様子もなく、ナツメさんは奥の空間に進んだ。普段から灯りがついていないのか、今日だけ偶然電球が切れているのかすら判然としない薄暗い階段を、すぐそこにエレベータがあるのにも関わらず、勝手知ったる様子でトントンッ、と軽やかに上っていく。


「……運動して大丈夫なんですか?」

「このくらいなら平気よ。それに、恭一はまだ若いんだから、今のうちに足使っておかないと訛るじゃない?」


 どこか楽しげなナツメさんの後を、手探り、ならぬ足探りで一歩一歩ステップを踏みしめながら慎重についていく。


 そうして階段を上り切った先。将棋道場と書かれた木札の掛かった狭い入り口の中は、まるで別世界のようだった。いかにもといった雰囲気のおじさんはもちろんの事、仕事帰りのサラリーマンにまだ小学生くらいであろう男の子、果ては赤ん坊を抱えた母親までの誰もが真剣に将棋盤と向かい合っている。


 平日の午前中だというのに席の半分以上が埋まり、どんな時も必ずどこかしらでパチッと駒音が響いている光景は、まるで将棋の国にでも来てしまったような気さえ起こさせた。


「……ねぇ、いつまでそんな所に突っ立っている気よ?」


 その声で現実に引き戻される。慌てて振り向くと、ナツメさんがこっちこっちと左手を振って受付の前から手招きをしていた。どうやら僕は、自分でも気づかない内にぼうっとしてしまっていたらしい。


 いつの間に自販機を探し当てたのか、缶コーヒーを飲みながら受付の女性と談笑しているナツメさん。恐らく、ここに通っていた頃の知り合いなのだろう。


「折角来たんだから、パパッと受付済ませて対局するわよ」


 近づいてきた僕にそう言うなり、ナツメさんは既に受付の人から受け取っていた薄い黄色の短冊のような用紙を僕に渡してくる。


「これは手合いカードって言ってね。将棋会館の道場では手合い係っていう人が自分の棋力に近い相手と引き合わせてくれるから、受付をしたらまずその人にこのカードを渡すの。しばらく待って自分の名前が呼ばれたら受付でこのカードを受け取って、枠の中に書かれている名前の相手と対局するのよ」


「へぇ、そんなシステムになってるんですか……」


「そ。それで対局が終わったら、勝った人が負けた人のカードの上に自分のを重ねて、二枚とも手合い係に渡しに行くの。間違えて自分のカードを下にして受付の人に渡しちゃうと、負けた事になっちゃう事もあるから気を付けるのよ?」


 丁寧に説明してくれるナツメさん。元研修会員というだけあって、確かにとても分かりやすい説明だった。

 ……けれど道場の説明は、本来、受付の人がやるべきモノなのでは?


 ちらりと様子を窺うと、案の定と言うべきか、仕事を横取りされた受付の女性は苦笑いを浮かべていた。まあ、ナツメさんらしいと言えばナツメさんらしいのだが……


「っていうか、僕程度で相手になるんですか? 将棋の本拠地とか言われているこの場所で……」

「ん、意外と何とかなるんじゃない? 人が多い分だけ、むしろ街の道場よりも級位者の割合は多いはずよ」


 割と真剣な問いのつもりにも関わらず、すっとぼけたような顔でそんなことを宣うナツメさん。本当に大丈夫なんだろうか……

 ちょうどそんな事を考えていた時だった。


「努力も出来ない負け犬がこんな所に何の用? 才能のない私を、わざわざ嘲りにでも来たの?」


 辺りの空気が一瞬にして冷えた。


 五メートルほど離れた位置にその声の主は立っていた。襟足の辺りでざっくり切り揃えられた栗色のショートヘアに、無造作に着込んだベージュのセーター。


 見る者にきつい印象を与える切れ長の瞳から発せられる、まるで親の敵でも見るかのような強い怒りの籠った視線を向けられ、けれどナツメさんは微動だにせず静かにそれを受け止める。


 視線を交錯させる二人。重苦しい空気に堪えきれなくなったのか、受付の人が目を逸らした。


「ねぇ、黙ってないで何か言ったらどう?」


 ナツメさんが何も反応を返さないのを良い事に、その女性はなおも言い募る。


「……あの人、随分感じ悪いですけど、いったい誰なんですか?」

「別に。ただ昔の知り合いってだけよ」


 声を潜めた僕の問いに、女の人から視線を外すことなく無感情に答えるナツメさん。きっぱりと言い切るその口調には取り付く島の一辺すらない。けれどその瞳からは微かな寂寥の念と、それに倍する決意が滲み出ているような気がした。


「……あの時は……悪かったわね、紗恵……」


 そしてナツメさんは――その女性に深々と頭を下げた。


 どう考えても尋常ではない。以前に他愛もない事で僕がからかった時でさえ、やられっぱなしではいられなかった負けず嫌いのナツメさん。それなのに今は何も言い返さず、それどころか沙恵と呼ばれたその女の人に向かって謝罪までしたのだ。


 ……ナツメさんが研修会員だった頃、一体何があったのだろうか?

 ますます怪訝な面持ちを深める僕と視線を合わせないまま、ナツメさんは口を開いた。


「恭一、今日は一日ここで道場が閉まるまで指していてくれない?」

「でもナツメさんは……」


 僕自身、特に門限は指定されていない。正確に言うと、門限を指定されても守った試しが無いから親が指定するのを諦めたというだけなのだが。けれど、ナツメさんにはきちんとした病院の門限が、それも結構早い時間――確か夕方八時くらいだったはずだ――にある。


 入り口の張り紙によれば、道場が閉まる時刻は午後八時半。ここから病院に戻るとなるとどんなに少なく見積もっても一時間以上は掛かるだろうから、一日いるとなると大幅に病院の門限を過ぎてしまうのだ。


 別に、間に合わなかったからと言って、病人相手に「バケツを両手で持って立っていろ」等という小学校地味た罰則は課せられないとは思うが……。


「私は先に帰らせてもらうわ。大丈夫、段位者の相手はまだまだ荷が重いでしょうけど、今の恭一の棋力なら上位の級位者相手でも互角以上に戦えるはず。それに……積み重ねて来た努力を信じてあげないと、頑張った自分が可哀そうでしょう?」


 冗談めかした笑みを浮かべるナツメさん。俯いて表情を隠し、そのまま僕たちに背を向けて道場を出ていこうとした。


 本当は声を掛けたかった。声を掛けて、「待って下さい」と言いたかった。


 ――けれど結局、僕は声を掛けられなかった。ナツメさんの過去に自分が口を挟むのはいけない事のように思えて、ただ、ぽつんとその場に突っ立ったまま、道場を出ていく寂しそうな背中を見送る事しか出来なかった。


 そうして、そのまま道場を去るかと思えたナツメさん。入口の方へとどんどん遠ざかっていって、扉の向こうに消えるかに思えた刹那、一度だけ振り向いた。


「そうそう、言い忘れていたわ。さっき話した互角以上に戦えるっていうのは、あくまでもアマチュア基準での話。奨励会員と当たるなんて事は流石に無いと思うけど……」


 その続きを言う事を躊躇うかのように、ナツメさんはそこで一度、言葉を切った。


「……もしも研修会員と当たったら――たとえ最下級のF級相手でも、全く歯が立たないと思った方が良いわよ」


 それだけ言って、扉の向こう側に消えた。

これからは一日おきで投稿していきますm(_ _)m

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