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#03 理由の在り処

 翌日。いつものように病室へ向かおうとしていた僕は目を疑った。外出用の恰好なのだろう、浅葱色のワンピースに薄い若草色のカーディガンを着込んだナツメさんが、僕が今ちょうど立っている病院の門に向かって歩いてくるのだ。


「……ちょっと、どうしてこんな所まで出て来てるんですか?」


 ちょっとした骨折や軽度の胃潰瘍で入院している人なら理解も出来ようものだが、ナツメさんはそんな《普通》の入院者ではないのだ。そう簡単に病院の先生が外出を許すはずは無い。


 もしや無断外出かとも思ったが、満面の笑みで堂々とこちらに向かって手を振るナツメさんの様子を見る限り、そうも見えなかった。


「そんなに心配そうな顔しなくてもいいわよ。ちゃんと外出許可証は貰ってるから」

「だから何でそんな簡単に許可下りてるんですかっ」

「言うほどおかしな事なの、それって……?」


 首を傾げるナツメさん。たっぷり五秒も考え込んでようやく、僕の質問の意味に思い当たったようだった。


「……ああそういうこと? 《最期》くらいは自由に過ごさせてあげようっていう、先生のありがたいお気遣いじゃない?」


 やけにあっさりとした感じでそう言い切られてしまえば、そうだと納得する他は無い。


 けれど一つだけ気になったのは、外出を許されたというのに、ナツメさんの台詞にはどこか棘のような物を含んでいたように感じられた事だった。


 ……先生とのやり取りで、何か嫌なことでもあったのだろうか?


「……まあいっか。じゃあ、体調崩さないように気をつけて行って来て下さいね」

「はいはい、どうもありがとうね」


 ナツメさんが病室にいないのなら病院に来た意味は無い。かと言ってこの時間から学校に顔を出すのも気まずいものがあるし……。そう思って、どこか適当な公園や図書館でも見繕おうとした時だった。


「って、ちょおっと待ったぁ! 何でさっさと帰ろうとしてるのよっ」


 眼前で起きている事象が全く理解出来ないんだけど? あなた、人として持ってるはずの常識が皆無なんじゃない? とでも言わんばかりに思い切り首を傾げたナツメさんが、不思議そうに僕を見ていた。


「何でって……だってナツメさん、今日は出かけるって言ったじゃないですか。ナツメさんがいないのにずっと病院に居座ってたって、何もやる事無いですし」


「ちがぁーうっ、そういう意味じゃないっ!」

「……あなたも行くのよ、恭一」

「嫌ですよ」


「何で即拒否なのよっ!?」

「ナツメさんと出かけると、ロクなことにならなそうですから」


「言ってくれるわね……。でも残念、恭一は私について来なくてはいけません」


 規定事項のように告げられた連行を、ノータイムでにべもなく拒絶する僕。しかしどういった理由か、ナツメさんの自信に満ち溢れた表情は崩れない。凄く嫌な予感がした。


「……何故に?」

「決まってるじゃない。『恭一が賭けに負けたから』よ」


 僕がナツメさんと賭けをしたのは、初めて出会った日の一度だけだったはずだ。確かにあの時の賭けは、文句なしにナツメさんの完勝だったけれど……


「……聞いてませんよ、ナツメさんが賭けに勝ったら一緒に出掛けなきゃならないなんてっ!」

「そりゃあそうよねぇ」


 そう言って、ナツメさんはニヤリと口の端を吊り上げた。


「――だって、聞かれなかったもの」

「……………………」


 まさか、本当に仕返しされるとは思っていなかったけど……まるで悪戯に成功した子供のような、年不相応の無邪気な笑みを見せられると、こんな事くらい別に良いか、そう思えた。


「はぁ……分かりましたよ。で、どこに行くつもりなんですか?」

「恭一も名前くらい聞いた事はあるでしょう? 関東将棋の総本山――将棋会館よ」


   † † †


 平日のまだ午前中という事もあってか、駅のホームには僕たち以外に人がいなかった。程無くしてやって来た電車の中でさえ人影は疎らで、せいぜい隣の車両に二、三人、中年の男性が座っているのが見えるくらい。それなのにナツメさんは、何故かガラガラの七人掛けシートの隅っこに座った。


「こんなに空いているんだから、もっとゆったり座れば良いのに……」

「何言ってるの。こんなに空いてる時だからこそ、端っこが良いんじゃない」


 一体どういう意味なのかはさっぱり分からなかったけれど、ナツメさんの事だからまた何か変な思い入れでもあるのだろう。そう思って納得しようとしていると、不意にナツメさんは窓の外に視線をやった。


「それにしても、私がまたあの場所を訪れる事になるなんてね……」


 窓の方に顔を向けてはいるものの、その実、高層ビル群や線路沿いの広告なんかよりもずっと遠い所を見ているようなナツメさんの視線。


 突然、言いようの無い不安に駆られた。このままナツメさんはどこかに消えてしまうんじゃないだろうか――そんな気がして、無性に怖かった。


 手の届く距離にナツメさんは存在している――当たり前の事なのにどうしても確認したくなった僕は、そして、気づかれないようにそっとナツメさんの顔を覗き込もうとしたのだ。


 時計の長針が二回転しそうなくらいの時間をかけ、自分でも信じられないくらい遅々とした動きで慎重に、長い髪の毛の奥に隠された切れ長の黒瞳を覗き込む。


 そしてようやく見えるかと思った刹那――ちょうど鏡合わせのごとく、同じ動きをしていたナツメさんとバッチリ目が合った。


「……何よ」

「いや、それはこっちの台詞でもあるんですけど……」


 お互いに相手の顔を覗き込み合う中途半端な姿勢で硬直したまま、口だけを動かす。やがてどちらともなく笑い出し、それにも疲れたのか、ナツメさんは静かに目を閉じた。


「私はただ、なんかこういうのって良いわねぇ、って思ってただけよ」

「……そうですか」

「何よ、その気の無い返事はぁ。もう少しくらい反応してくれたって良いでしょっ。……って言うか、恭一も理由、言いなさいよ。ちゃんと私は言ったんだから」

「お断りします。別に今は、何かに賭けていた訳じゃないから強制力ないですし」

「まーたそんな事言っちゃって……」


 ガラガラの車内で、二人して七人掛けシートの端に腰掛けた日。車窓から差し込む夏の灼けた日差しに時折瞳を細めながら、電車がレールを踏みしめるガタンゴトンという振動に揺られた。


 ナツメさんに残された時間は、もうそれほど長くは無い。病気の痛みに苦しめられずに過ごす事の出来る日々は、彼女にとって、せめてもの救いなのかもしれない……


   † † †


 そうして一時間くらいが過ぎた頃。


 ナツメさんの先導で電車を千駄ヶ谷で降りると、ホームに備え付けられた水飲み場が見えた。


 ホームに水飲み場が設置されている駅なんて幾らでもある。だから、それ自体は特に珍しい事でも何でもないのだが……


「……どうしてこんな所に将棋の駒が?」


 千駄ヶ谷駅の水飲み場の受け台には、将棋の駒をかたどった木製の碑が建てられていた。


 指先に収まるどころか僕の頭よりも大きいその碑には、力強い筆跡で書かれた《王将》の二文字。左側にそれより少し小さな文字で《十五世名人 大山康晴》と彫り込まれている。


「さあ、近くに将棋会館があるからじゃない? 理由なんて今まで気にしたことも無かったけれど……きっと、大した理由なんて無いわよ」

「随分とそこはまた、いい加減なんですね……」


「……でもその通りだと思わない? どんな事にもちゃんとした理由があるなんて考えながら動くから、人は悩むのよ。最初からそこに理由なんてないと思っていれば、意味もない事でむやみに苦しまなくて済む」


 急に醒めた口調になったナツメさん。僕がツッコみを入れた後も、その表情は至って真面目なままだった。


「私もずっと悩んでいたわ。自分よりも年上のヘルパーさんだって、小学生の頃からずっと一緒に将棋を指してきた友達だって、みんな生きてる。この先の人生を持ってる」


「なのにどうして、私は未来を絶たれなくちゃいけないの? ……でもそんな事、いくら考えたって分かるはずはないの。今まで生きて来た人生の全てを悔やんで悔やんで悔やみ尽くしたって、分かるはずはないのよ……」


「だから理由なんてないのよ、きっと。水飲み場の受け代の将棋駒も、私が死ななきゃいけない事にもね」


 いつもの明るいナツメさんからは想像もつかない必死な口振り。


 死にゆく人の気持ちなんて、僕に理解出来ようはずもないけれど……おそらくそれは、ナツメさんが不治の病を患っていると宣告された時からずっと考えて続けてきた事なのだろう。


 眼を紅く充血させ、唇を時折噛み締めながら話すその様子はどこか、自分自身に向かって言い聞かせているような響きを帯びていた。


 千駄ヶ谷駅の改札を出て、緑豊かな街並みを五分ほど歩くと閑静な住宅街に出る。人通りの少ない交差点を横切り、鳩森神社と書かれた石造りの鳥居の左側をナツメさんの後に続いてぐるりと回り込んでゆく。


 将棋会館までの道程、ナツメさんは言葉少なだった。


 棋士になる事を諦めた三年前以来、一度も千駄ヶ谷には足を運んでいないようだったナツメさん。


 てっきり足繁く通っていた頃を思い出して懐かしんだりするのだろうと思っていたのに、ナツメさんは思い出話をするどころか歩く速度を落とす事すらなく、真っ直ぐにずんずんと歩いて行ってしまった。


 ひょっとして、先ほどむきになった姿を見せたのが恥ずかしいのだろうか。でもナツメさんがそんな事をいちいち引きずるようなタイプにも思えないし……


 今までも、ナツメさんが理解できない行動を取る事は何回かあった。それは単純に、僕がナツメさんの事をまだ理解しきれていないからだと思っていたけれど……今のナツメさんの行動は、それらとは何かが違うような気がした。


「何してるの? 早く来ないと置いてっちゃうわよー?」


 ナツメさんの声が聞こえて、ハッと我に返る。どうやら考え込んでいる内に、僕は立ち止まってしまっていたらしい。


 ピンと伸ばした背筋に、ふんわりとしたワンピース。規則正しく揺れる、低めの位置で無造作に束ねられた黒髪。視界の中央で段々小さくなっていくナツメさんの姿を追って、僕は小走りで駆け出す。


 けれどその時、微かに感じた違和感は拭い去れないままだった……

水呑み場の将棋駒の碑は千駄ヶ谷駅の工事に伴って撤去され、現在はありません。けれど緑豊かな街並みや閑静な住宅街は今もそのままです(新国立競技場が駅前に出来ましたが)。興味のある方は是非一度、足を向けてみてはいかがでしょうか。


次話の更新は8月24日の午前0時過ぎ頃を予定しています。これからもよろしくお願いします。m(_ _)m

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