#02 新しい日常へ
本作品では将棋を指す場面が何シーンか出て来ますが、将棋を知らない人でもストーリーを楽しんで頂けるよう、『鋭い攻め』や『華麗な受け』などの言葉を用いて指し回しの雰囲気をメインに展開していくつもりです(もちろん知っている人はよりお楽しみ頂ける事と思います)。
将棋盤を前にするのは、何年ぶりになるだろうか。
ふっ、と小さく息を止め、角道を開ける。鏡写しのようにノータイムで角道を開けてくるお姉さん。小学生の頃に向かったちゃちいプラスチック盤よりも遥かに大きく、そして重厚な木製の七寸盤を前にして、六年前の記憶を手繰り寄せながら慎重に指していく。
四手目。お姉さんが飛車先を突いたのを見て、俺は静かに息を吐き出す。
もう心は決まった。後は自分の思い描いた通りに駒を動かす、ただそれだけで盤上が躍動を始める。
心の中で一、二、と刻み、それが三に達した瞬間、俺は盤上に手を伸ばし――飛車を思いきり横に振った。
将棋の戦い方には大きく分けて二つある。一つは飛車を初期の配置である二筋から動かさずに戦う居飛車。そしてもう一つは、開始早々飛車を自陣の左辺に移動させてから戦う振り飛車だ。
俺が今指したのは、飛車を四筋に振る《四間飛車》。振り飛車の中でも自分から攻め込むのではなく、相手の攻めに対して守りを固めてカウンターを入れることに徹した受け将棋の戦法。
それは捉え方によっては、相手に対して「あなたの攻めは全て受け切れるので、どうぞご自由に攻めて下さい」と言っているような、一種の挑発行為ともとれる。そんな戦法を会って間もない人に対して指すことに躊躇はあった。けれど指してしまった以上、もう引き下がることは許されない。
しばらくの間、交互に駒を台に打ちつけるパチッ、パチッという音だけが静かな病室に響く。
実際の所、俺はこの戦法以外知らないのだ。小学生の時のクラスメイトは誰一人として定跡を学んで指そうとせず、そのお陰で一人だけ図書館の本で定跡を学んでいた俺は、対局相手に知ったばかりの戦法をぶつけるだけで簡単に勝つことが出来た。
何気ない素振りに顔を上げてチラリと顔色を窺うも、お姉さんは上体を盤上を乗り出していてその表情を見ることは出来ない。しかし意外にも、顎に手を当てて考え込むポーズは様になっていた。……この人は、入院する前、一体何をしていたのだろうか。
そんな事を考えている内に、お姉さんの手が持ち上がった。恐らく次の手は、安全な位置に玉を移動して囲いを完成させる4一玉。けれどお姉さんが指した手は――。
「……5七銀ッ!?」
玉を安全な所に囲わず、居玉のまま右銀を上げて攻めのスピードを早める一手。
この場合はどのように対処するのが最善手なのか、いくら記憶の糸を手繰り寄せても脳裏に浮かび上がって来ることは無い。けれど玉の固さから考えれば、確実に美濃囲いに組み上げることの出来るこちらが有利なはず……ッ!。
「これなら……いけるッ!」
そして十五分後。
追い込まれていたのは――僕だった。
「何で……」
そんな事が起きるはずはない。僕の囲いは数ある将棋の囲いの中でも相当に固いと言われている美濃囲いなのに対して、お姉さんは開始地点から玉が動いていない居玉。しっかり囲い込むどころか、端に寄せてすらいないのだ。なのに気づけば、僕の陣形だけがボロボロになっている。
それに加えて、お姉さんには攻め手の選択肢が幾つも残されているのに、こちらには一つも攻め手が残っていない。いつの間にか俺は、攻め合いに逃げることすら許されず、ただ受け続けるしかない局面にまで追い詰められていた。
それから先は、焦りから暴発した攻めを難なく受けきられ、乱れきった心で指した一手を即詰みで打ち取られてあっけなくフィニッシュ。魔法でも魅せられているかのような気分だった。
傍らの駒台に積み上げられた大量の持駒を、一つずつ丁寧に盤上へと戻していくお姉さん。その様子をぼんやりと眺めながら、僕は口を開く。
「……強いですね。やっていたんですか、将棋」
お姉さんと指した将棋は、小学校の時に見よう見真似で指していた物と全く違った。それは苛烈で一切の容赦が無く、しかしそれゆえに、途方もなく華麗で、何より美しかった。
「ふふん。こう見えても私、プロだったのよ」
感心しきった僕の様子を見て、得意気に胸を張るお姉さん。
「プロって……あの、プロですか? 名人とか竜王とか言ってる……」
「そう、そのプロ。もちろん、トップの棋士達には遠く及ばないけれど、同年代のプロ相手になら何度か勝利した事だってあるわ。……私は三年前まで奨励会──将棋のプロを養成する機関に所属していたのよ」
道理で勝てない訳だ。趣味ではなく職業として将棋を指し、その対局料で生活していくのに十分な給料を稼ぐというプロ棋士。その卵だったというなら、この異常なほどの強さも十分過ぎるくらい理解できる。
「していた……ってことは、今はもう奨励会……とやらには入っていないんですよね? 何で辞めちゃったんですか?」
「……………………」
質問に何も反応も示さず、ただじっとベッドの端を見つめているお姉さん。その様子を怪訝な表情で眺める。
「あっ……」
数瞬経って、ようやく自分が何を聞いてしまったのかに思い当たった。会って程無くして伝えられた、余命残り三ヶ月だというお姉さんの病状。もしかしなくても、それが原因なのだろう。今の僕のセリフがデリカシーに欠けていたことは、疑いようもなかった。
「……すみません」
「気にしないでいいのよ。確かにそれも理由の一つではあるけれど……でも、違うの」
謝る僕に、けれどお姉さんは、よく意味の分からない言葉を言った。理由だけれど……違う? 一体どういう意味なのだろうか……
「知りたい? ……でもね、これはあなたが聞いても仕方のない事なのよ」
そう言って、何故か寂しそうに笑った。
「っていうか、五段目の位も必要な受けも全部すっ飛ばして一直線に美濃囲い組みに行ったら、崩しに最適な陣形を組まれるに決まってるじゃない。固さを見比べるだけじゃなくて、もっと相手の陣を見ないと」
「うぐっ……申し開きのしようもない……」
「……もう一回指そっか? あ、今度は賭け無しで良いわよね?」
「あ、あはは……」
お姉さんの棋力をこの身でもって思い知らされた今、自分が勝ったらなどという戯言は、口が裂けても言えるはずがなかった。
「……じゃあ、よろしくお願いします!」
初めて訪れた病院で、名前も知らないお姉さんと将棋を指した日。高級そうな将棋盤の置かれた机に、十センチほど開けられた窓。ぎらぎらと照りつける高い日差しが、真っ青な夏空を対照的に彩っていた……
† † †
「角を広い場所に移動させたら▲8八に玉を囲って、っと……。矢倉囲い、組めましたよ!」
「おめでとう、昨日よりも上手く攻めを受けながら指せてるわ。でもね、こうやって横から銀でつつくと……」
「……守りの▲7八金、これどう指しても詰んでますよね?」
「そうでもないわよ。▲6八に銀を下げて、玉に届いてる飛車の利きを遮れば……ほら、△5八銀」
「なるほど、それは上手い手かも……って、やっぱり詰んでるじゃないですかっ!?」
お姉さんの所に通い始めてから二週間ほどが経った頃。僕はすっかり将棋にのめりこんでしまっていた。
純粋な勝負の楽しさ、指し回しの繊細さ、細い攻めを華麗に繋ぎ、それを紙一重で受け止める緊迫感。
今まで将棋というのは雨が降って校庭で遊ぶ事が出来なくなった時の為の、予備の遊び道具くらいとしか思っていたけれど、それが勘違いも甚だしかった事を知った。以前から将棋に対して、憧れに似た感情を抱いていたことも少なからず影響しているのだろう。
僕の指した滅茶苦茶な手も、お姉さんが少し手直しすると、途端に素晴らしい手筋に早変わりしたように見えた。けれどどんなに褒めちぎっても、お姉さんは
「これは君が指した手を、将棋の本に載っている手筋に当て嵌めているだけ。私なんかまだまだよ」
とはぐらかし、決して自分の凄さを認めようとはしなかった。これでまだまだと言うのだから、テレビに出てくるような棋士――超トッププロと呼ばれる人達の将棋は、僕が想像できる次元を遥かに越えた所にあるという事なのだろう。
「……そういえばここの所、ほぼ毎日病院に来てるけど……学校、行かなくて大丈夫なの?」
盤上の駒を忙しなく動かしながら、お姉さんが聞いてくる。
「ええ、学校から一学期の間に取れと言われている出席日数は全て取りきったので」
「そ、そういう問題かなぁ……? ほら授業の進度とか、友達とか、色々あるでしょ?」
お姉さんの顔が微かに引きつったのが分かった。
「学校なんて行ってもつまらないだけです。形だけ公式を教えて全く説明がない授業に、上辺だけの薄っぺらい交友関係。あんな場所に通うくらいなら、家に籠って一人で教科書を眺めていたほうが数百倍ましですよ」
お姉さんの顔が盛大に引きつったのが分かった。
「あ、あはは……。何というか……見かけによらず、意外と強情な所もあったんだね、君って」
「……それは僕の外見が軟弱そうだ、という意味ですか? 随分と酷い事言うんですね」
「あ、いや、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「冗談ですって」
みるみるうちに耳まで顔を赤らめるお姉さん。表情を隠そうとしているのか、つんと顎を反らせて怒っていますと言わんばかりにそっぽを向いた。
年上の人間をからかう事があまりいただけない行為であるというのは分かってはいたが……ただほんの少しだけ、真面目にうろたえるお姉さんも悪くはないな、と思った。
「ナツメさん、検診の時間ですよ?」
ちょうど話が途切れたタイミングで、見知らぬおばさんがやってきた。三角巾にエプロンという、いかにもな出で立ち。見た目から推測するに、自分の母親と同じぐらいの年齢だろう。
「まあ、可愛いお坊ちゃんだこと。随分と仲良さそうだけど……ナツメさん、手、出しちゃダメだからね?」
「……言われなくても分かってるわよ、そんなこと」
――違う。これはちょうど話が途切れたタイミングなんかじゃない。
いつからかは分からないが、恐らくこのおばさんは、お姉さん──改めナツメさんの検診の為に病室を訪れた際に中から声が聞こえて来るのを耳にして、話が一段落するまで病室の扉の前で待っていたのだろう。
もしそうだとするなら……さっきまでの偏屈なやり取りも全て聞かれていた、という事になる。
同じくその可能性に思い当たったのか、憮然とした表情を浮かべながら不貞腐れたような返事をするナツメさん。それをおばさんが優し気な笑みを浮かべて見守る。
……会話の内容はアレだったが、その様子はまるで仲の良い母親と娘のようだった。
しばらく経ってようやく気を取り直したナツメさんは、今まで見て来たナツメさんの姿からは想像もつかない、恥ずかしそうな、はにかみにも似た笑みを浮かべてエプロンのおばさんを指さした。
「紹介するわ。ヘルパーの紀子さん。いつも私の身の回りの世話を手伝ってくれる人よ」
「よろしくねっ。……でもね、ナツメさんは自分の出来る事を人に任せるのが嫌いだって言うのよ。いくら『私がやるから』って言っても聞く耳持たなくて、いっつも私が行く時間帯には先回りして全部片付けを終わらせてあるの」
「その所為でヘルパーの私のほうがナツメさんよりも椅子に座っている時間が長くなっちゃって。ほんっと、困った患者さんよねぇ」
「ちょっと紀子さんっ!?」
ここ最近は毎日、ナツメさんの病室を訪れているが、確かに脱ぎ散らかした服が散らかっていたり床が汚れていたりする事は一度も無かった。
おそらく面会時間が終了した後にでも病院の職員が清掃に入っているのだろうと思っていたが、まさか自分で掃除までこなしていたとは……。
「意外と生真面目な性格だったんですね……」
「そんな話、伝えなくて良いわよっ。それで紀子さん、この子が前に話してた、ええっと……あ……あれ?」
唐突に始まった紀子さんの暴露話に真っ赤に頬を染めながらも、必死で話題を戻そうとしていたナツメさんの顔から、一気に血の気が引いたのが分かった。
「ナツメさん。……まさかとは思うけど、これだけ毎日一緒にいるんだから、ちゃんと名前くらい聞いてるわよね?」
「え、ええ、もちろん聞いてるに決まってる……じゃない」
じぃー、と見つめる紀子さんから逃げるようにして、視線を天井に彷徨わせるナツメさん。つい、口を挟みたくなった。
「僕の名前は恭一、恭順のキョウに一番のイチですよ」
「そう、キョウイチだったわよねっ。そうそう、ちゃんと覚えてたんだけど、今はたまたま忘れちゃってただけなのよっ」
まるで投げ込まれた餌に飛びつく鯉のようなナツメさん。その様子を横目に見ながら、すかさず言葉を続ける。
「……もっとも、僕は名前を聞かれた覚えなんて一回もないんですけどね。ついでに言っておくと、ナツメさんの名前を知ったのもたった今、紀子さんの口から聞いたのが初めてのような……」
緩みかけていたナツメさんの顔が、油の切れたゼンマイ仕掛けの腕時計みたく強張った。哀れかな、餌に食いついた鯉は釣られる運命なのである。
「はぁ……。ナツメさんって、やっぱりどこかしら抜けてるのよね……」
これ見よがしに溜め息をつく紀子さん。目が合うと、ナツメさんからは見えない位置で器用にウインクをしてきた。どうやら今のやり取りで正解らしい。
「何でそこで言っちゃうのよ、この裏切者ぉ……」
捨てられた子犬のような潤んだ瞳でじぃー、っとこちらを睨みつけるナツメさん。恨めしそうな視線に微塵も気づいていない振りをしながら、素知らぬ顔で紀子さんが注いでくれたお茶を啜る。
「てか、そもそも何で教えてくれなかったのよっ」
「聞かれなかったからですよ。ほら、小学校の時に、『知らない人に軽々しく名前を教えてはいけません』って教わりませんでしたか?」
「悪かったわねっ! ……覚えてなさいよ、この借りは必ず倍にして……ううん、十倍にして、返してやるんだからぁ!」
漫才みたいなやり取りを目前で見せられてついに耐え切れなくなったのか、椅子の上で盛大に爆笑し始める紀子さん。それにつられて、ナツメさんも声を上げて笑い出す。
家ではほとんど無表情で過ごしている僕。でも今は、今だけは、病室の鏡に映った自分の顔も、楽しそうに笑えている気がした……
次話の投稿は8月22日の午前0時過ぎ頃を予定していますm(_ _)m