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# Epilogue それから

最終話です。

 それから一週間後、ナツメさんは静かに息を引き取った。最期まで苦しむ事のない、眠るような死だったという。


 程なくして通夜の報せが届き、僕はセレモニーホールに来ていた。式場の入口の方では、ナツメさんの親族が次々に現れ、お悔みの言葉を述べ、香典をナツメさんの母だという人物に渡していた。中には研修会の関係者だという人もいた。


 こんなに多くの知り合いがいたのなら、何故ナツメさんは、いつも病室で一人ぼっちだったのだろう。紀子さんと僕という、入院した後に付き合いの出来た二人しか、ナツメさんの周囲にはいなかったのだろう。


 遠巻きに眺めながら、ぼんやりとそんな事を思う。


 ――いくら豪勢に通夜を催した所で、死んでしまった後では、もう遅いのに。


 殊にこういった儀式事では、血縁関係でもない子供の出る幕などない。隅の方で大人しくしていようと歩き出しかけた僕の耳に、聞きなれた声が届いた。


「この場合の挨拶は久し振り、で良いのかしらね?」

「紀子さん!? どうして……」


 続きの「あなた看護師でしょ」という言葉は辛うじて飲み込んだ。


「院長には『行くな』って止められたんだけどね。無理言って来ちゃった」


「不治の病とはいえ、ナツメさんを助けられなかった病院の関係者が来ているってのも色々不味いでしょう? だから、今日は看護士としてじゃなくてね、ナツメさんの親しかった友人の一人として来てるのよ」


 自虐の混じる声音でそんな台詞を嘯く紀子さん。助けられなかった事を誰よりも悔いていたのは、他ならぬ紀子さんであるはずなのに。


「……やっぱりね。行かないで終わりにするってのは、私にはどうしても納得出来なかったから」


「これより、故人、九条ナツメ様の通夜式を取り行います」


 そうこうしている内に準備が整ったのか、アナウンスが流れ、通夜が始まった。


 紫の袈裟を着たお坊さんの読経。金色の金具で小さく装飾の施された、棺の白い蓋。そのどれもが、ナツメさんの死を現実の出来事なのだと示す存在だったけれど、僕にとってはそれも、どこか現実味が薄かった。


 読経が途切れた瞬間、寝た振りをしていたナツメさんが「なーんてね?」なんて笑いながら顔を出してくれるような気がして、通夜の間中ずっと棺を見つめていたけれど、棺桶の白い蓋はいつまで経っても動き出さなかった。


 四十分ほどで、あっけなく終わってしまった通夜。がやがやと宴会場に移動し始める周囲の人間達を余所に、僕はきょろきょろと視線を巡らせる。


「それにしても……沙恵さん、いませんね」


 首を傾げる僕。けれど紀子さんは、ちっとも不思議そうな顔をしなかった。


「そりゃあそうよ。だって沙恵さんには今日の事、伝えていないもの」

「えっ、そうなんですか!?」


「今日はちょうど女流王座戦の初戦でね。折角の機会をまた棒に振らせる訳にはいかないからって、ナツメさん、自分がもうじき死にそうなこと黙ってたのよ。……本当、最期まで他人想いに生きた人だったわ」


「……でも、本当にそれで良かったんでしょうか?」


 確かに、ナツメさんは満足して逝く事が出来ただろう。ようやく縁を戻せた一番の友達を思いやりながら、満ち足りた気持ちで最期を迎える事が出来たのだから。


 けれどそれは本当の優しさなのだろうか。沙恵さんにとって、それはむしろ自らを縛りつける枷となってしまうのではないのか。残された者は、親友の弔いに立ち会えなかった罪の意識を、その先の長い人生の間、ずっと胸の奥に抱えて生きていく。


「大丈夫よ」


 けれど、紀子さんはしっかりと頷いた。


「ナツメさんが何を言い残したのか、対局が終わった時、私から沙恵さんに伝える。死者の心遣いは決して無駄になんてさせない。――それが私の、私自身への誓いだから」


「それに、告別式にはちゃんと来てもらうつもりよ。だからキョウイチは心配しなくて良いわ」


 その黒瞳の奥には、ただ確固たる決意と意志の輝きが秘められていた。


   † † †


「ああ、それともう一つね、この場所に来た理由があるのよ」


 再び首を傾げる僕。ナツメさんの通夜以外に、一体、この場所に何の用事があるというのだろうか?


 再び首を傾げる僕を尻目に、紀子さんは持っていた小振りの黒いカバンから、一通の封筒を取り出した。


「はいこれ……ナツメさんからの手紙」


「郵送しようと思ったんだけど、良く考えたら恭一君の住所を知らないって事に気づいて。だから、今日渡す事にしたのよ」


 丁寧に三つ折りにされた白い便箋に、ナツメさんらしい豪快な達筆で書き付けられた文字。その一つすら見逃さないよう、食い入るように読み進める。


『私が死ぬのはキョウイチに出会うずっと前から決まっていたこと。だからキョウイチが落ち込む必要はないわ』


『キョウイチはキョウイチらしく、顔を上げて歩いていけば良いの。でないとあんたドジッ子なんだから、すぐに頭ぶっつけちゃうわよ?』


「おっちょこちょいのナツメさんに言われたくはないですよ……」


 いつも通りの突っ込みを入れてみても、もう返してくれる人はいない。すっとぼけた振りをして、心底楽しそうに笑ってくれるナツメさんは、もういないのだ。


『風呂敷はもう受け取っているわよね? 恭一の事だからきっと「僕には似合わないシロモノだ」とか思ってるんでしょうけれど、それは恭一の好きなように使ってくれて構わないわ。沙恵はそういうモノを貰うの嫌がるから、恭一ぐらいしか渡せる人がいないのよ』


『――精一杯、自分の人生を楽しみなさい。私の分も』


 読み終わるのを待っていたかのようなタイミングで、紀子さんの声が聞こえた。


「元気出して。ナツメさんだって、キョウイチくんがうじうじしている姿なんて見たいはずはないんだから」


「……はい」


 紀子さんと僕の他に誰もいなくなり、全てが静まりかえったがらんどうの葬儀場で、便箋を握り締める両手だけが震えていた。


   † † †


 恭一君と別れた後、私は一人で郵便局へと向かっていた。


 それが、私がナツメさんにしてあげられる、最後の事になったから。私は看護士なのに、その命を助けてあげられる立場にいたはずなのに。


 仕方ないじゃない、だって、ナツメさんの病気は今の医学ではどうする事も出来ない『不治の病』だったんだから。


「……ふざけるんじゃないわよ」


 たった一人の患者の命すら救ってあげられないで、何が医学だ、何が看護師だ。


 怒りに任せてドン、と鞄に拳を叩きつけたその拍子に、鞄の隙間からはらり、と茶色い封筒が落ちた。


「あれ、確かに恭一君に渡したはずなのに……もう一通ある……!?」


 拾い上げ、躊躇いを覚えながらも封を切る。丁寧に折り畳まれて封筒に入れられていた一枚の白い便箋を恐る恐る読み進める。


『紀子さんは優しい人だっていうのはよく知ってるわ。私だって伊達に三年も入院生活してないもの。『あまり患者に入れ込むな』みたいな病院からのストップも、多分あったんでしょうけど、そんな事そっちのけで私に親身になって接してくれていたんでしょう?』


「ナツメさん……」


『……でもね、紀子さんはちょっと優し過ぎるのよ』


『そりゃあ私だって、自分の事を考えてもらえるのは嬉しいわよ。でも、看護士

はそれじゃあやっていけない』


『紀子さんは『そういうモノ』、残したら絶対に引き摺っちゃうでしょ?』


『紀子さんはもう十分過ぎるくらいやってくれた。その献身的な努力のお蔭で、確かに私は救われていたのよ』


『だから今度は、次の患者さんの事を第一に考えてあげて?』


『そしていつかまた、私と同じような、年若くして死ななければならない境遇の患者さんが入院してきたら――その時は、私にした時と同じように、親身になって接してあげて欲しいの』


 頬を熱い滴が流れ落ちていくのが分かった。


「あれ、なんでだろ。おかしいね、私、看護師なのにね。患者さんの事で、泣いちゃいけないはずなのにね……」


 郵便局へと続く道、その途中で途方に暮れたように佇む一人の女性の姿があった。


   † † †


 女流王座戦の第一局。相手は新進気鋭の大学生女流棋士。額に浮かんだ玉の汗を乱暴に腕で拭いながら、私は盤上を睨みつける。


 勝てば女流棋士、負ければ研修会に逆戻り、きっともう次のチャンスは来ない。

 ――この一局、絶対に負けられない。


 あんな酷い事を言った私をナッちゃんは笑って許してくれた。だからナッちゃんの分も私が頑張らないと。かつて、女流棋士になって一緒に見ようと誓い合った、頂点の景色を見る為に。


「残り一分です」


 ――見つけた。こちらには詰め路がかかっているけれど、残り時間に焦らされて無理攻めを仕掛けてきた相手陣の囲いにも、針の穴ほどの間隙が生まれている。相手が勝ち急いだが故に生まれた、その隙を突く!


「9一飛成……詰め路逃れの詰め路だと……!?」

「この局面でか……!?」


 激しい駒音と共に盤上に叩きつけられた一手を見て、観戦席が大きくざわめく。


「くッ……」


 苦しげに呻いた対戦相手は、ややあって駒台の桂馬を私の歩頭に打ちつけた。


 一見、何の意味もない暴発にしか見えない一手。けれど私は、既に一度、この手と良く似た手を見せられている。――研修会員どころか段位すら持っていない、ただ将棋が好きなだけの男の子に。


 詰め路では無く王手を選択。手数こそ長いけれど、相手に一手を指す隙すら与えない手順を慎重にぶつける。


 駒台に伸びかけた対戦相手の手が途方に暮れたように虚空を彷徨い、やがて、ゆっくりと畳の上で握りしめられた。


「……負けました」

「ありがとうございました」


 遂にやったわよ、ナっちゃん。


 変幻自在な指し回しで女流界の頂点を極め、そして後に史上初の『女性』プロ棋士となる女流棋士が、生まれた瞬間だった。


   † † †


 日曜日の夕食。家族三人揃って食卓を囲む数少ない機会。その場所に俺は、ある決意を抱えて臨んでいた。


「……母さん」

「どうしたの? いい加減、進路表は提出したんでしょうね?」

「その事なんだけどさ……やりたい事が出来たんだ」


 声が震えないようにごくりと唾を飲み込み、一拍置いてから言葉を続ける。


「――オレ(・・)、棋士になりたい」


 母親は一瞬目を大きく見開き、ややあって盛大に溜め息をついた。


「まーたそんな生産性の無い事言っちゃって。そもそもプロの棋士っていうのは将棋が得意な人の中でも図ばぬけた才能を持っているような人じゃなくっちゃなれない職業なんでしょう?」

「あんた、普通の進路選択すら決められないのに、それよりも遥かに大変な道に自分から飛び込んでどうするつもりよ? そんな無謀な挑戦するより……」


「まあ、好きなようにさせたら良いんじゃないか?」

「ちょっと、お父さん!?」


 母親の声が裏返った。今までずっと黙って聞いているだけだった父親が初めて口を挟んだのだ。


「どんな道を選ぼうと、結局は恭一自身の人生なんだ。親の役目は、それが上手くように傍で支えてあげる事じゃないのか?」

「それは、確かにそうかもしれないけれど……」


「それにさ、コイツが自分から何かをやりたいなんて言い出したの、今回が初めてだろ? やりたいようにやらせてみたら、案外そう心配する程でもないかもしれないしな」


「父さん……」

「恭一、お前本気なんだろ?」

「……うん」


 額に手を当てて瞑目している母親を、固唾を飲んでじっと見つめる。一瞬にも永遠にも思える時間が経過した後、母親は根負けしたかのように首を左右に振って目を開けた。


「はぁ……分かったわよ。良いわ、あんたの夢、認めてあげる」

「……本当ッ!?」

「でも、大学まではちゃんと通いなさい。それがお母さんからの条件です」


「……ありがとう父さん、母さん!」


 ナツメさん、オレ、頑張るから。たとえどんなに時がかかったとしても、いつか必ず、プロ棋士の世界に辿り着いてみせる。


   † † †


 九条ナツメ。

 将棋が好きで、将棋のプロになりたくて、でも、あと少しの所で夢叶わず、この世を去った女性。


 享年29歳。

 30歳の誕生日を待たずして、この世から消えてしまった。


 でも、彼女は決してそれだけの人間なんかじゃない。≪悲劇の女性≫だなんていう、陳腐な言葉で言い表して良い人間じゃない。


 大雑把で、それでいて実は繊細で。周りを巻き込む不思議な魅力を持った、笑顔が素敵なお姉さん。


 そんな一人の女性がいた事を、僕はいつまでも忘れない。


     E N D

これにて『トゥエンティ・ナイン』は完結となります。ここまで付き合って下さった方、本当にありがとうございました!

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